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万年筆と宝石  作者: 安井優
六つ目の扉 出版社

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6-5 町の魅力はひっそりと

 コッツウォールの駅についた二人の歓声がそろう。

 木造の駅舎は、古ぼけた赤い屋根とそれを支える柱しかない。(さえぎ)る壁すらもなく、向こう側に見えている小さな町がホームからでも見渡せる。

 見える町は、まさに絵本から飛び出してきたような雰囲気だ。


 冬の穏やかな日差しが降り注ぐ街並みは、はちみつ色に淡く照らされている。

 ロンドと違って、コッツウォールの建物はそのほとんどの外壁がベージュともイエローともつかぬ、柔らかな石灰石の風合いで統一されていた。

 外壁の隙間、家の裏庭、家々の間。ちょっとした空間を埋めるように緑が目について、それがまた、絵本のような可愛らしい印象を生み出す。


「とっても素敵な町ですね」

 ユノが、マークを振り返って笑う。そんな彼女の姿はまさにこの場にふさわしく――おとぎ話の世界に迷い込んでしまったみたいだ、とマークの胸は高鳴った。

「えぇ、本当に」

 マークの口からついてでた相槌(あいづち)にも、言葉以上の意味がこもる。


 のんびりとした空気さえ感じられるコッツウォールは、平日の昼間であるにも関わらず、人の姿もガソリン車の影もない。

 コッツウォールの駅を後にした鉄道の煤すら、今はほとんど風にさらわれて消え、空気も澄み切っている。


 ロンドのせわしなさを忘れるには十分すぎるほどの町。

 あれほど多忙を極めていたロンドでの出来事も、新聞社での追い込みも、はるか昔のことのように思えてしまう。


「ここで、本が出来るんですね」

 ユノの声に、マークはなんだかその事実すらも夢のように思えた。

「想像がつきませんね」

「私も、少し。気が抜けてしまったというか」

 二人は顔を見合わせて、クスクスと肩を揺らす。


 出版社という存在も、そこにいるはずの社長の知人……もとい、出版社の頑固な人も。本当にこの町に存在するのだろうか、と疑ってしまいたくなるほどだ。

 新聞社と出版社が違うことは分かっている。業界は近いが、実際の仕事内容にも大きな差があるはず。


 それでも、ロンドにあった大理石の美しい出版社は、もっと張りつめたような雰囲気だったとマークは記憶している。

 少なくとも、こんなにのんびりとした雰囲気が感じられる場所には、似つかわしくはないほどピリピリしていたと思うのだが。


 とはいえ、疑問に対する答えを知るには、出版社へ行く以外に方法もなく。

「まずは、この住所へ行ってみましょうか」

 マークは胸ポケットで折りたたまれていた紙を広げて、駅舎を後にした。


 社長は、壊滅的に絵を描くセンスがないらしい、ということにマークが気づいたのは、コッツウォールの似たような道を何度か左へ、右へと曲がったころだった。

 絵を描くセンス……というよりも、地図を書くセンスだろうか。

 コッツウォールの、印象的な建物の少なさも起因しているかもしれない。


「この道は、さっきも通りましたよね……?」

 ユノも、だんだんと自分がどこを歩いているのか分からなくなってきた、と手に持っていた大きな旅行カバンを足元へおろして息をつく。


 緩やかな丘がずっと続いている町では、少し遠くを見渡したいと思っていても、すぐに傾斜で見えなくなってしまう。

 なんだか(だま)されたみたいだ、とユノは天を仰ぐ。

「川があるらしいのですが」

 マークもまた、小さくため息をついて、首をかしげた。


 そう。駅前にあった唯一と言っていい大通りをまっすぐに進み、やっとの思いで見つけた郵便局を右に曲がった。そして、その先の花屋の角を左に。

 そうして、裏路地の方へと出てきたところまでは良かったのだ。けれど、その先にあるはずの川が一向に出てこない。


「川があるなら、水の音くらいしても良さそうなんですけど」

 ユノは苦笑せざるを得なかった。静かな町だ。近くにある川の音が聞こえないはずもないだろうに。

「もう少し、歩いてみましょう。地図だと、ここから道なりに左へと進んでいるようです」


 心もとない社長の地図を信じる以外に、出版社へとたどり着くすべはない。社長の地図には、花屋の角を曲がったところから、ずっとゆるやかなカーブが描かれている。つまり、道がそうなっている、ということだろう。

 その先に川があるのだ。出版社はその川を越えた先。とにかく、それを探さなければ。


「それにしても、裏路地に入ると本当に分からなくなっちゃいますね」

 ユノは、よいしょ、とカバンを持ち上げて再び歩き出す。

「店の裏側か、家の裏側かすらも分かりませんね」

 かろうじて、ベランダに干されている洗濯物や、吊るされたプランターを目印にして、マークも歩く。


 はちみつ色の建物は、その姿かたちがほとんど同じだった。表側を歩いていた時は、まだ扉や店の軒先にかかった看板でその違いが区別出来ていたが、裏路地ともなればそうはいかない。

 統一感があり素晴らしい、というのは景観的な意味では重要だが、実際にこうして歩いてみると、代わり映えのしない景色というのは距離感すら怪しくさせるらしい。


「すっかり、迷子になっちゃいましたね」

「出版社の方が心配したりしてないといいんですけど……」

 ユノの言葉に、マークははたと足を止める。確かに、社長が一体何時に着くと連絡してくれているのか分からないが……本来ならば、こんなに時間のかかる道のりでもないだろう。


 怒ったりしていないだろうか。待たせて、やっぱり出版を取りやめにでもしないだろうか。そんな考えが二人の頭をよぎる。

「少し、急ぎましょうか」

「そうですね! 頑張りましょう!」

 二人は互いにうなずいて、裏路地を道の行くままに進んだ。


「あっ!」

 マークが声を上げたのは、それから十分ほど似たような道を歩いたところだった。ユノも、聞こえてきた小さな水の音に気づいたのかその歩調をさらに早める。

 もはや、駆け出したいような衝動に駆られていた。


 迷子になるとは、こんなにも心細いものだったのか、と二人は内心でため息をつきつつ、確かな川の存在に期待を膨らませる。

 社長の地図では分からなかったが、路地の入口から川までは相当距離があったらしい。

 しかも――


「これが、川……?」

「川というよりは……」

 用水路という言葉を飲み込んで、二人は再び顔を見合わせる。

 水の音が聞こえたのが奇跡に等しいほどの、小さな川。いや、小川というにも、頼りないせせらぎ。


 大人が一歩、大股で歩けば軽々と超えていけそうな幅の川は、たっぷりとした水量がさらさらと下流へ向かっている。

 深さもなく、透明度が高い。速度はそこそこ。川底の石や、流れに逆らってひれを動かす魚が見え、

「まぁ……確かに」

 川と呼んでも差支えはないか、とマークは苦笑いした。


 新聞社の社長が、川というのだから、これも川なのだろう。

「立派なお名前もついてるみたいです」

 川の脇にちょんと立てられたこれまたはちみつ色の看板に、『リバー・ホルン』と書かれているのをユノが読み上げて苦笑した。


 橋と呼ぶにはあまりにも可愛らしい、これまた石造りの小さな橋を渡る。

 おそらく、川を飛び越えるには子供やお年寄りでは心もとなく、けれど、橋をかけるには勿体ない。そんな町の経済事情が働いて、橋とも道とも呼べぬような、珍妙な石のアーチが完成したのだろうと思われるそれを、二人は噛みしめるように歩く。


 以前、マークがコッツウォールのチョコレート店へ来た時は、表通りしか歩いていなかったから気づかなかったが……どうやら、この町の魅力はひっそりと隠されているらしい、とマークは心にとどめておく。

 いつか、こんな町を舞台にした話を書くのも悪くはない。


「あ、あれが出版社ですかね?」

 一足先に橋を渡り終えたユノが指をさす。はちみつ色の外観は同じだが、真緑の扉とその上に掲げられた黒の看板が目を引いた。黒の看板に金文字で書かれた出版社のスペルにも。


「つきましたね!」

 ユノは満面の笑みで、出版社に向かって駆け出した。


 大した道のりではなかったはずなのに、この達成感。

 マークは、一時の安堵とそれ以上の希望を膨らませ、出版社の戸をゆっくりとたたいた。

 ユノが、魔法をかけてくれた扉を、開けるときのような気持ちで。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 83/83 ・コッツウォールの駅についた二人の歓声がそろう。   「お前ら結婚しろよ」と思った瞬間 [気になる点] おおおおう、圧倒的ほのぼの。癒しすぎますよ [一言] なんだか田舎の…
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