6-4 コッツウォールへ
コッツウォールへと二人が旅立つことになったのは、社長からチケットを受け取ってから二日が経ったころ。
世間ではまだ、ブッシュでの事件の後処理が新聞記事になる程度には騒がれていたが、それでも当初に比べればやはり下火になっていた。
待ち合わせをしている鉄道の駅で、マークは久しぶりに晴れ間ののぞいた空を見上げる。
普段はあれほど待ちわびている日差しも、今回ばかりは、グローリア号に乗船した時を思い出させてマークの心情を複雑にする。
マークの旅立ちを祝福するかのような天気――それが逆にマークの気持ちを鬱蒼とさせた。
「お待たせしました」
かけられた声は聞き覚えがある。顔を上げ、見慣れた顔を探せば、ダークブラウンのミディアムボブに、コーヒー色の瞳の少女が右手を大きく上げた。ジュリの魔法で見た目が変わっても、すっかり顔立ちでユノだと判断できる。
「すみません、遅くなってしまって」
いつも着ているバイオレットのローブは、オフホワイトのコートに代わっており、モスグリーンのスカートがぴったりと体のラインに沿っていて大人っぽい雰囲気だ。
絞られたウエストが、彼女の女性らしさをよく表している。
手に持っている大きなカバンは旅行用で、小柄なユノには少しばかり大きく見えた。
「出版社の話をしたら、みんなが張り切ってしまって」
特に、ジュリには昨日一日散々ロンドの街を連れまわされ、あれやこれやと服やカバンや靴を買い与えられたらしい。
ユノは、変じゃないでしょうか、と自信なさげにマークを上目づかいで見つめる。
元々の愛らしさに、ジュリの魔法によって落ち着いた印象に変えられた髪と瞳が加わって、いつもとは違う雰囲気にマークはブンブンと首を振った。
「似合ってますよ。可愛らしいです」
とても、と付け加えれば、ユノが頬を紅潮させ、照れくさそうに目を伏せた。
マークとそんなやり取りをしていくうちに、ユノの肩がだんだんと下がる。ここまで来ることも、いつもと違う格好も、マークの反応にも緊張していたようだ。
「それじゃぁ、行きましょうか」
ユノはようやく一つ荷が下りた、と言わんばかりに軽やかな足取りで駅へと向かう。
後ろ姿でも分かるほど、ユノの気持ちは高揚しているようだった。
マークは、歩くたびにふわりふわりと舞うユノの毛先を見つめ、
(僕も、新しいスーツを出してくればよかったかな)
なんてことを思う。
出版が決まり、いよいよその出版社へ行けるというのだから、浮かれているのは仕方のないこと。
コッツウォールは、田舎町だが絵本のように美しい景色の広がる町としても有名で、それもまた、マークの心を明るいものにする。
先ほどまで感じていた、晴れの日への恐怖心もすっかりとどこかへ消えてしまい、前を歩くユノが気持ちよさそうにその日差しを感じていることに嬉しささえ覚える。
都合の良い人間だ、と自らを内心恥ずかしく思うものの……マークは、その感情の抑え方を知らなかった。
「マークさん!」
鉄道が来ますよ! とユノが大きく手を上げてマークを呼ぶ。マークには珍しくもないが、ユノにとっては初めての鉄道だ。
「すごく大きいです! 見てください!」
当たり前の感想をキラキラとした瞳で口にだすユノの姿が愛おしく、マークは鉄道というよりも、そんなユノを見つめてしまう。
無邪気にはしゃぐユノは、駅へと滑り込んできた鉄道の先頭をしげしげと見つめ、鉄道から降りてくるたくさんの人々に目を丸くした。
くるくると変わる表情を見つめ、なるほど、ユノが昇降機を目にしたマークを笑っていたのもこういう気持ちだったか、とマークは自然と緩む頬を止めることが出来ない。
海の方からロンドの街にやってきているからか、鉄道に近づけばほんのりと潮の香りがするような気がした。
マークは、ユノを連れて自分たちが乗り込む鉄道の号車を探して歩く。
戦争が終わり、鉄道は国が中心となって復興を進めた。周辺諸国は電気で動いている鉄道もあるというが、ロンドではいまだ蒸気機関がほとんどだ。
それゆえ、ガソリン車の排ガスに加え、煙臭い空気がロンドの街中を包んでいるというのは有名な話である。
そんなうんちくをユノに語りつつ、マークはここですね、と鉄道の扉を押し開けた。二等車の八号。マークはチケットに書かれた番号と見比べて、座席を探す。
ユノは、その間にも内装にキラキラと目を輝かせ、木製の、ビロードが張られた長椅子にまで感嘆の息を漏らしていた。
長椅子に二人で腰かける。ユノは窓側だ。鉄道に初めて乗るのだから、景色を見るのだって初めてだろう。マークがそんな風にユノを促せば、前に座っていた老夫婦が、
「あらまぁ、良い旦那さんね」
なんて声をかけてきたから、マークもユノも顔を真っ赤にしてしまった。
ユノのカバンをマークが代わりに頭上へ置くだけでも、老夫婦の生暖かい視線が刺さる。
マークは、出来るだけ意識しないように努め……それでも、鉄道が動き出してユノが再び嬉しそうな声を上げている様子をほほえましく見守ってしまった。
もはや、生暖かい視線を送られることにも気づかないほどに。
「マークさん! すごい! とっても早いです!」
窓の隙間から冷たい風が入り込む。流れていく景色を見つめるユノの髪がさらさらと風に流される。雲の隙間から覗いたり隠れたりする太陽の日差しが、ユノの柔らかな髪を輝かせた。
これが、ユノ本来の――あの、夜空のような、夕焼けのような、朝日のような……美しい本来の髪色だったら。
マークはそう思うと、胸がドキンと高鳴る。
きっと、ユノばかりを見つめてしまって、コッツウォールまでの景色など楽しむ余裕もなかっただろう。
鉄道の線路わきを並走するガソリン車に手を振ったり、街を歩いている人たちに手を振ったり。ユノはせわしなく外界の人々と交流を楽しんでいた。
魔女ではなく、一人の少女として。
ユノは、ロンドの街からそれていく線路の先と、そして、だんだんと遠ざかるロンドの街を交互に見やって、
「時計塔がもう、あんなに小さく」
と呟いた。
大聖堂で見るよりも、新聞社から見るよりも、さらに時計塔は小さく見える。
大聖堂の、天までそびえているのではと思えるほどの高い塔でさえ。
ユノは、何を思ったかそれまで楽しそうに上げていた声を飲み込むように、後方を見つめた。
じっと見つめる瞳に、ほんの少しだけ寂しそうな雰囲気が見えたのは気のせいか。
「また、帰ってきますよ」
マークの声にも、ユノは小さくうなずくばかりだ。
やがて、鉄道は大きなカーブにそって曲がる。ロンドの景色はより遠ざかり、ユノもそのころには視線を前に向けていた。
目の前に横たわる大きな川が、ユノの興味を惹きつけたらしい。
鉄道は橋の上に差し掛かり、ガタガタと揺れる。
「どうやって、こんな橋をかけたんでしょう」
窓の外を通り過ぎる真っ赤な鉄骨を目で追いかけるユノは、ただただその大きさに驚いていた。
マークも、残念ながら建築物に関してはいくつかの歴史や噂話なんかを知っているくらいで、技術的なことは分からない。
ただ、二人でなんともなしにその方法をぼんやりと考えているのは心地が良かった。
魔女と一緒になってやれば、こんな橋でも、魔法の力でまったく別のものになっていただろうか、とは口にせず。
ロンドの駅から三十分ほど。
すっかり家もまばらになってきた町に滑り込んだ鉄道は、駅で息をつくように煙を吐いて止まった。
手前に座っていた老夫婦が立ち上がる。
「最近は色々と物騒だから、気を付けるんだよ」
去り際にそう声をかけられ、マークとユノは曖昧に言葉を濁す。
まさか、その発端が自分たちだとは、口が裂けても言えない。
老夫婦と別れ、二人はようやくそこで視線を交わす。
思えば、ユノは鉄道に乗ってからというもの外ばかり見ていたから、二人が会話らしい会話をすることもなかった。
ユノはようやくそこで、今までの自らの行動を自覚したのか、頬を赤らめてうつむいた。
「すみません……はしゃぎ、すぎましたね」
もうこれ以上は何も触れないでくれ、と体いっぱいに訴えるユノの仕草が可愛らしい。
魔女が外に出られないことは重々承知している。
だからこそ、彼女がこんなにも喜んでくれただけで、マークも嬉しかった。
「まだまだ旅は長いですから。たくさん楽しみましょう」
今までの分まで。
マークの言葉に、ユノは満面の笑みで応える。
コッツウォールへと向かう鉄道の汽笛が、晴れ渡る空に響いた。




