6-1 お土産
新聞社に鳴り響くけたたましい電話のベル。それに混ざって、ガタンゴトンとやけに騒がしい玄関先から、社長が顔をのぞかせた。
魔女協会へと戻ろうとしていたユノは、そんな社長の姿に驚きを隠せない。
ユノの記憶にある社長は、スーツにしわ一つ立てることなく完璧に着こなし、七対三に分けた髪をきっちりとまとめていたはずだ。
それが、彼は今――
ゼェゼェと肩で息をし、乱れた髪からパタパタと汗を落とす。革靴にも、ズボンの裾にも泥が跳ねていて、スーツのボタンは外されていた。
しかも、本人はネクタイにまで荒々しく手をかけている。
「あ、の……」
大丈夫ですか、という声をユノがかける前に、社長がユノの方へ大量の新聞と、大きめの封筒を差し出した。差し出されるままに受け取って社長を見ると、視線が交錯する。
「マークは、いる、かい」
ユノはハッとして駆け出した。
社長は、どうやら走って戻ってきたらしい。
出版社に勤めている友人を説得するために、イングレスの片田舎へと出かけていた。彼の留守の間に色々なことがあったのだから、話したいことも数多くあるだろう。
特に、新聞の紙面はここ数日で何度もめまぐるしく変化した。新聞社に、電話のベルが鳴り響いているのもそのせいだ。
ブッシュでの殺人騒動。それから数日のうちに、ブッシュでの火事と、最高裁判官の逮捕。その数日後には一転して、最高裁判官が釈放され、軍による誤認逮捕が発表された。
ロンドの市民は、皆口々に議論を交わした。
社長が戻ってきたのは、そんな噂が耳に届いたからだろうか。
それとも、出版社との間に進展があったからなのか。
とにかく、新聞社に駆け込んできた社長の様子からでは、そのどちらとも判断がつかない。
「マークさん!」
ユノは、ノックもそこそこに社長室の扉を開ける。
最後の原稿を必死に書き上げていたマークは、扉が大きく開け放たれた音に、ビクリと体を揺らした。
先ほど推敲を終えて帰り支度をしていたはずのユノが、再び戻ってきた。そう分かれば、マークは不思議そうに首をかしげる。
「忘れ物ですか?」
いえ、とユノが首を振ったその時、ガタン、とマークが椅子から立ち上がった。
「やぁ、ただいま」
かすれた声がユノの背後で聞こえる。
「社長!」
マークは、社長の姿に目を丸めた。
ユノは、社長から差し出された新聞や封筒を一度テーブルの上へ置く。社長は「すまない」と一言礼を述べると、疲れを隠すこともなく、ソファへと体を預けた。
ギシ、と革張りのソファが音を立てる。本来の持ち主が戻ってきたことを喜ぶように。
「お茶をお持ちしましょうか?」
遠慮がちにユノが尋ねれば、社長はほどいたネクタイをポイとソファの脇へ放り投げて「頼むよ」とこれまた簡潔に答える。
「あぁ、そうだ。土産があるんだ。時間があるのなら、良ければ君も一緒に」
社長は扉の外を視線で促す。そこにあるということだろうか、とユノは小さく頭を下げる。
ユノが社長室を出ると、扉の脇に立てかけられている紙袋が目に付いた。
「お土産……?」
ロンドでもごく限られた移動しかしたことのないユノには馴染みのない言葉だ。
ユノはゆっくりとその袋を持ち上げて中を確認する。
鮮やかな黄緑色のリボンがかけられた透明な袋の中。
「マンディアン!」
たっぷりのナッツやドライフルーツがのったチョコレートに、ユノは思わず声を上げた。
以前、ジュリが「とびらの代わりに」とユノへ贈ってくれたチョコレート、マンディアン。その名を口にすれば、ナッツの香ばしさや、ドライフルーツの甘酸っぱさ、チョコレートのほのかな苦みが、つられてユノの口いっぱいに自然と広がる。
孤島暮らしのユノは、ジュリが持ってきてくれて以来、お目にかかることさえ出来ていなかった。ロンドに来てからも、それは同じ。
それが、まさかまたこうして出会えるとは。
お茶を出したら帰ろうかと思っていたが――
ユノは「良ければ君も一緒に」と誘ってくれた社長の言葉に甘えよう、と給湯室までのほんのわずかな道のりを軽やかに歩く。
給湯室でお湯を沸かし、その間に準備をし、ユノはうっとりとチョコレートを見つめる。
「おいしそう……」
つまみ食いなんてしないけれど、油断していると指が伸びてしまいそうになる。
「ユノさん」
後ろからかかったマークの声に、ユノは慌てて緩んだ顔を引き締めた。が、どうやらそれは遅かったらしく、マークはぐっと笑みをかみ殺す。
「すみません、見るつもりはなかったんですが……」
ユノの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「お手伝いに来たんですが、何か僕に出来ることは」
マークの声は、いまだこらえきれていない笑いでフルフルと震えている。いっそのこと声を上げて笑ってくれた方が、ユノとしてはありがたいくらいだ。
「それでは、このチョコレートをお皿に」
ユノがサッと顔を隠して、手に握りしめていた袋を差し出せば、マークは「わかりました」とやはり笑いを耐えるように言う。
早く、お湯が沸いてほしい。そんなことを思ったのは、ユノも初めてだった。
マークは、もう少し愛らしい目の前の魔女を堪能したい、と思いつつも、チョコレートの包装をといて、皿の上に移す。
「マンディアン、好きなんですか?」
マークの声と、カラカラとチョコレートが陶器の上を転がる音、湯気の上がる音が混ざり合う。
こうしていると、とびら屋で二人、生活していた時のことを思い出す。
ロンドでも、こんな風に穏やかな時間を送ることができるなんて、とユノは思う。
魔女を取り巻く環境は日々、慌ただしく好転と悪化を繰り返す。それでも、ユノの心はマークと共にいると落ち着いた。
「以前、食べたものがおいしくて」
ようやくお湯が沸いた、とユノもティーカップへお湯を注ぐ。
「でしたら、ここのお店のものもきっと気に入りますよ」
「有名なんですか?」
「えぇ。コッツウォールのマンディアンはイングレス一だと言われていますから」
コッツウォール。
聞きなれない単語にユノが首をかしげる。マークはそれに気づいたのか
「小さな田舎町ですよ」
と、地名であることを教えてくれた。
ロンドから、鉄道でおよそ二時間。山の方へ向かっていったところにあるというその町には、いくつかの特産品があるという。
ラベンダー、はちみつ、ナッツといくつかのフルーツ、そしてチョコレート。
「すべて、地元のものを使って作られていると聞いたことがあります」
マークは新聞記者として、一度訪れたことがあると言った。
最低限のものしかないその町にある、チョコレート専門店。コッツウォールの美しい景観に惚れた女性が始めた店は、人々の間で瞬く間に有名となった。
新聞記者としてマークは取材に行き、そのチョコレートの味に衝撃を受けたものだ。
「いつか、行ってみたいです」
魔女が、当たり前のように外を出歩ける時代がくれば、そんな夢も叶えることが出来るだろうか。
ユノは、お皿の上にのせられたマンディアンを柔らかな瞳で見つめた。
「行けるかもしれませんよ」
すぐにでも、とマークの口から発せられた言葉。その意味が分からず、ユノはティーカップにお湯を注ぐ手を一度止めた。
ポットの口から滴ったお湯が、ティーカップに吸い込まれてちゃぷんと緩やかに揺れる。
「社長が、あんなに急いで帰ってきてくださったということは、もしかしたら、そういうことなんじゃないかと思って」
「そういうこと……」
ユノは、マークの言葉を反芻して、息を飲む。
「怖くて、まだ聞けてませんが」
苦笑するマークの声は、ユノの右耳から左耳へするりと抜けていった。
「……それって」
言いかけて口をつぐんだのは、マークと同じ理由から。
違ったら、と思うと怖くて口に出せなかった。
出版を、承諾してもらえた。
――そういうこと、なのだろうか、と。
ユノはティーカップに再びお湯を注ぎ入れ、
「社長さんが、待ってますね」
と、無理やりにその場を仕切りなおすことで、心の中にあふれてきた様々な思いを押しとどめた。




