5-21 一番幸せなお話を
マークは自らの存在と、そして隣にいるユノの存在を確かめるように、砂浜の上に落ちた影を手でなぞる。
「僕の過去の話は、以前しましたよね」
砂浜のあの柔らかさが懐かしく、指に触れた冷たいフローリングがむなしい。まるで、今の自分のようだとマークは苦笑する。
「妹さんに、魔女の疑いが……」
「そうです。そして、両親と共に裁判へと連行されました」
何度聞いても悲しいお話だ。ユノは、どうしても自分のことに重ね合わせてしまう。
「ですが」
マークはそう前置きして、遠く、水平線を見つめた。そのまっすぐなフチの向こう側に、まだ見たことのない世界を求めるみたいなまなざし。
「僕は、直接、家族が死んだところを見たわけではありません」
マークの言葉に、ユノは息を飲む。
――確かにそうだ。ユノの両親だって、魔女裁判に連行されたのは、ユノが魔女協会へと保護されてからのこと。
その後のことは、何も知らない。
ただ、魔女裁判にかけられれば死刑だと聞いていたし、過去の新聞にもそのようなことが書かれていたから、そう思い込んでいただけだ。
両親はもう、死んでしまったのだ、と。
それを確かめるのが怖くて、自らの両親が魔女裁判にかけられたであろう時期の新聞記事を読んだこともない。両親の墓の場所も知らない。親戚がいたかどうかも知らず、ただ、イングレスの国から隔離された。
いや、自ら望んで、イングレスの国から目をそむけた。
「だから、もしかしたら、と思うのです」
マークも確信しているわけではない。むしろ、物語らしく……都合の良いように現実を捻じ曲げているだけだという自覚はある。
それでも、ユノたちと共に過ごし、魔女たちの物語を書き綴る中で、自らの人生もそのようにとらえたって良いのでは、とマークの心に希望が宿った。
ユノもまた、マークの言葉にうなずく。
「私も、マークさんと同じ夢を見てもいいですか」
家族が生きているという希望を、抱いても良いのだろうか。
マークは、ユノからの質問に逡巡を見せる。ほとんどゼロに近い可能性を、今更になって彼女に押し付けるべきではない、と分かっていた。
期待させて裏切るなんて、そんなことを……これ以上彼女を傷つけるようなことをしたい訳ではない。
けれど、ユノの方は、まったくそんなことを気に留めてなどいなかった。
たとえ、本当に殺されていたとしても、マークを責めるつもりもない。ただ、一時でも夢を見せてもらったことに、感謝するだろう。
「残酷では、ないでしょうか?」
中途半端な優しさは、時にひどく人を傷つける。
マークは、自らの人生を、失った家族のことを、物語の中でハッピーエンドとすることをためらっていた。
ユノが、それを望んだとしても。
「事実は事実のまま、書き上げるべきだとわかっているんです。この物語は、ただの自己満足だから」
マークは自らの手のひらを見つめ、そっと両手を握る。
手のひらからこぼれてしまったたくさんのものを慈しむように。
――いまだ失っていない多くのものを、これ以上失くしてしまわないように。
「物語の良いところは、物語であること……なんですよね?」
ユノの声に、マークは思わず隣の少女へと視線を移した。瞬間、視線がぶつかって、二人の間に星が散る。
「亡くなってしまった人ともう一度会いたいと思うのは、自然なことでしょう? それが、物語でなら、かなえられます」
「読み終えた後に、現実を嘆くことになっても、書くべきだと?」
「現実逃避が出来るから、物語は面白いんです。マークさんが、そうして本に助けられたみたいに」
いつか、そんな話をしたな、とマークは懐古した。
きっとそれは、両親を亡くし、孤島暮らしとなった彼女も同じだったのだろう。
過去の悲しみを一瞬でも忘れられるなら、その物語は良い物語だと言えるだろうか。
「マークさんのお話に助けられる方も、たくさんいるはずです」
ユノの柔らかな声が、どこまでも続く海に吸い込まれていく。常夏の楽園に広がる鮮やかな色彩が、静寂を際立てる。
聞こえてくるのは、一定の間隔でその静寂を埋める時計のカチカチとした音だけ。
ユノはゆっくりと立ち上がり、
「お話を書きませんか? 最後の、マークさんにとって、一番幸せなお話を」
とマークの方へ手を差し出す。
作家が、読者のためでなく、自分のために物語を書くなんて。
作家失格だなと苦笑しかけたところで、失格どころか、自分はまだ作家にすらなれていないということに気づいて、マークはますます苦い顔を浮かべてしまう。
いつの間に、自分はこんなに傲慢な人間になってしまったのだろう。
まだ原稿用紙は白紙で、本にすらなっていなくて、物語は、始まったばかりで。なんだって、自由に書くことが出来るというのに。
それなのに、怖がっているなんて滑稽だ。
「そう、ですね。僕は素人です。出来るのはただ、自分の思いを正しく綴ることだけ」
ならば、自分らしく書くまでだ。
誰になんと言われようとも、自分の書きたいものを書き、その思いを一人でも多くの人に伝えるだけだ。
全員に伝わらずとも、たった一人、目の前の人に届けばいい。
マークはユノの手をそっと握って立ち上がる。
「最後まで、お手伝いしてもらえませんか?」
「もちろんです」
マークの質問に、ユノは即答して笑う。
「私は、マークさんのファン第一号ですから」
・-・ ・ - ・・- ・-・ -・
魔法がゆっくりと解けていく。常夏の楽園が、古ぼけた社長室へと戻ってしまうのがもったいないような気がして、マークは郷愁めいたものを感じる。
あそこはユノの帰るべき場所であり、決してマークの居場所ではない。この社長室の方が、よほど馴染みがあるというのに。
だが、視界の端に映り込んだユノは、マークとは対照的にどこか清々しく、安堵したような表情を浮かべていた。
まるで、ここがユノの居場所だとでもいうような。
ユノは、自らがそんな顔をしていることには気づいていなかったのか、
「ユノさんは、新聞社が好きですか?」
と尋ねるマークの質問に首をかしげた。
どうして急に、とユノの顔には書かれている。
とはいえ、マークの質問をないがしろにするつもりはないらしい。「うーん」と少し考え込んでから、ユノは小さく笑った。
「好き、というよりは……ここにいられることが嬉しい、ですかね」
生まれ故郷であるはずのイングレスの国では、生きることすら許されなかった。いや、そう思って、孤島暮らしを続けてきた。
だからこそ、今こうしてこの国で――ロンドの街で、まがいなりにも生きていることは、ユノにとってもこれ以上ないほどの幸せなのだ。
魔女のことを受け入れてくれた、新聞社の人たちや、社長、そして、マークと共にいられることが嬉しい。
人々が当たり前に享受しているであろう、この国で生きていく権利。それが魔女であるユノにも許されているこの場所が、たまらなく愛おしい。
「島は、いいところです。綺麗な海も、山も、空も、全部が揃っています。でも、一人きりだった。時々、お客様も来てくださいますが……あの島には、誰もいないんです」
だから、寂しいという気持ちが同居する。
新聞社は、いつ司法裁判官に捕まってしまうかという恐怖こそあるものの、寂しさを感じることはない。
必ず誰かがいる。生活の息遣いが感じられる。世界との繋がりを感じられる。
それだけで、十分だ。恐怖など、取るに足らない。
ユノにとっても、このイングレスの国が故郷なのだ。
マークは心の中で無意識にユノを魔女として扱っていることに気づき、咄嗟に頭を下げた。
「すみません、変な質問を」
謝罪の真意が伝わらないでほしい、なんて思うのは、マークのエゴだ。
ユノの、切なさと、儚さと、それからほんの少しの侘しさを混ぜ込んだ笑みが、彼女を大人に見せた。




