5-20 いつだってひたむきに
パタパタと降り出した雨が、ロンドに春が近づいていることを教える。
曇り空の多いイングレスでは、雨が降ったり止んだりすることはさして珍しくもない。晴れている方が珍しいくらいだ。
けれど、今マークの目の前に広がっているのは、常夏の楽園。
雨の音は不釣り合いなはずだが、なぜか波の音のようにも聞こえるから不思議だ。
「こういうのも、悪くないですね」
のんびりと海を見つめるユノもまた、同じことを考えていたらしい。
マークは自らの小指へと視線を落として、それから少し離れた先、砂浜をたどって、ユノの小指を見つめる。
運命の糸なんて、そんな大それたものではないけれど、確かに二人の間には目に見えぬ何かがあるような気がした。
「最後から二つ目のお話は、ユノさんと一緒にいるうちに、書こうと思ったものです」
ポツリと、独り言のようにマークが言えば、ユノは少し驚いたようにマークへ視線を向ける。マークの視界の端に、彼女の澄んだ瞳の輝きが映り込んだ。
「うまく、書ける自信がなくて……ずいぶんと時間がかかってしまいました」
まだ、納得のいく出来ではないが、そろそろユノにも推敲をしてもらわなければならない。どこかでマークも踏ん切りをつけなければ、いつまで経っても本は完成しないまま。
今は、その『どこか』になり得るだろうと思う。
「ユノさんが、主人公のお話です」
マークはまるで子供に読み聞かせるように、ゆったりとした口調で物語を紡ぐ。
「彼女は、夜明けの魔女と呼ばれています」
「夜明け?」
ユノは、マークの言葉に首をかしげた。
珍しい髪の色も、瞳の色も、夕暮れ時や夜と形容されることが多かった。名前にトワイライトと入っていることも、無意識にそんなイメージを抱かせるのかもしれない。
――何より、魔女という自らの立場が、夜の始まりを表しているような。
ユノは、ジュリの魔法にかけられて、傍目には茶色く見えるであろうその髪をゆっくりと光に透かす。
「どうして、夜明けなんですか?」
ただ、純粋な興味からそう尋ねれば、マークはフォレストグリーンの瞳をやんわりと細める。
説明するまでもない、と言っているようにも見える横顔。まるで、ユノが夜明けの象徴であることが当たり前みたいな。
マークがどうしてそんな表情を出来るのか、ユノには不思議でたまらない。
「どうしてでしょうね。でも、ユノさんと一緒にいると、世界の始まりが見られるような気がするんです。僕らが寝て、起きて、新しい一日を始めるみたいに。特別なことではなくて、でも、とても美しい瞬間が見られるような」
ふわりと、新緑が芽吹くように柔らかくあたたかな言葉がマークの口からついて出る。
そう。彼女を、こんな風に形容できるようになるまで、どれほどの時間が必要だったか。
それでもなお、ユノという少女を表すには足りない。
マークは、当たり前の日常を尊ぶことを知った。魔女と出会って初めて、そのことに気づいた。
マークもまた、ユノと出会って、新しい世界が切り開かれたのだ。
ロンドの曇り空に慣れてしまっていたことも、イングレスの息苦しい空気に慣れてしまっていたことも――一日、一日をただ消費していただけだったことにも。
マークの感覚が麻痺して、当たり前のように感じていた全ては、どれも美しく、大切で、かけがえのないことだったのだ。
それを、ユノはただその生きざまで教えてくれた。
「だから、僕はユノさんを夜明けの魔女として書きました。はじまりの魔女みたいに」
やはり、必然だというようにさらりと言ってのけたマークを、直視することは出来なかった。
恥ずかしさと、嬉しさと、困惑と。そんな様々な感情が混ざり合うのは仕方がないことで、それゆえ、ユノの顔が複雑怪奇に歪んでしまうのも仕方のないことだった。
いつか、マークと交わした「本を作る」という約束が、まさかこんなことになるなんて。
ユノはすぐさまこの会話を終わらせてしまいたくなるほど、くすぐったい気持ちで膝を抱える。バイオレットのローブがゆらりと揺れて、砂浜の白に影が落ちる。
膝と膝の間にそっと顔をうずめて口元を隠せば、ユノの鼓動はゆるやかに弱まった。
「ありがとう、ございます」
渋々絞り出された声には、自分をそこまで評価できないがゆえに、納得ができないという色合いが含まれた。
少し戸惑ったようなお礼にも、マークは嫌な顔一つせず声を上げて笑う。いつもよりしおらしいユノが年相応の少女に見えて、マークには愛おしかった。
マークにとっては当たり前のことであり、褒めたつもりもなかったが、よくよく考えれば相当な褒め言葉だ。いや、褒めるというよりも、愛をささやいたという方が近いかもしれない。
ユノは、膝を抱えたまま、チラリと視線だけをマークに向ける。
「どんなお話ですか?」
その内容を聞けば、ユノも自分のことではなく、物語のこととして会話を楽しめそうだ。
「人々に、夢を与えるお話ですよ」
「夢?」
「みんなが寝静まったころ、夜明けの魔女が彼らの頭の中に夢を作り出してくれるんです。珍しい景色、見たことのない場所、知らない世界を」
サンタクロースみたいなものですね、とマークは付け足した。
「夢のプレゼントをするんですが、そんな中で、彼女は作家と出会います」
まるで、本当に自分たちのようだ、とユノは思う。
「彼は、スランプに陥っていたんですが、その夢を見て新しいお話を書き始めるんです。そうして、彼はまた本を出せるようになります」
マークが、ユノと出会って再び物語を書いたように。
その作家も、夜明けの魔女がくれた夢で、再び本を完成させることが出来て、めでたしめでたし、というわけだ。
「素敵なお話ですね」
子供から大人まで、みんなが思わず笑顔になってしまう物語。優しい、マークらしい雰囲気もある。
「早く、原稿を見たいです」
推敲ではなく、まずは一度きちんと目を通して、純粋にお話として楽しみたい。
ユノのキラキラとした瞳は、ただまっすぐで、それがまたマークの胸を打つ。
イングレスで魔女として生まれたにも関わらず、ユノはひねくれることも、人を疑うこともなく、いつだってひたむきに生きている。
それがどれほど難しいことか。それでも、ユノは、その道を選んだのだ。
夜が明ける。
その瞬間を、ずっと信じている。
ロンドの人々が、雲の隙間に覗く太陽の光を待ちわびるように。
ユノは、ただずっと、ずっと、イングレスの国の夜が明けるのを信じている。
「ユノさんは、やっぱりすごいです」
「へ?」
「一緒に、夜が明ける瞬間を見たい」
先ほどまでは穏やかなフォレストグリーンは、煌々と陽の光を浴びて羽を伸ばす枝葉のように青々と、凛とした強さを纏ってそこに。
ユノは、自らの胸がドキンと大きく高鳴った。顔に熱が集中して、膝にうずめていた顔をさらにうずめてしまいたくなる。
――マークさんの方が。
「マークさんの方が、私の何倍もすごいです」
何とか声を出したが、まるで拗ねているみたいになって、それがまたユノ自身の羞恥心を増幅させた。
意趣返しにもならないのか、それともマークが鈍感なのか。
彼は、ブラウンの癖毛をぴょこりと一度揺らしただけ。それも、恥ずかしさからではなく驚きで。
ユノは、そんなマークの反応が少しばかり気に入らず……けれど、その理由も分からないまま「本当に、すごいんですから」と念を押した。
このままでは心臓がもたない、とユノは早々に話題を変えようと
「最後のお話は、どんなお話なんですか?」
と無理やりに質問を投げかけた。
「僕のお話です」
間髪開けずに、マークが答える。
マークはやはり、さらりと、さも当たり前のことのように続けた。悲しい出来事のはずなのに。
「僕と、妹、そして両親の物語を、最後に書こうと思います」
ユノが、苦い顔をしてしまうのは、マークがそうしないからだろうか。
代わりに泣いたとて、マークが救われるわけではないのに。
ユノは、それでもこの話を聞かなかったことにするのは違うような気がして、質問を重ねる。
「どうして、そのお話を書こうと思ったんですか?」
ジュリがそうだったように、マークにとってもわざわざ過去の傷を掘り返すのは怖いはずだ。
「どうしてでしょうね」
その口ぶりは、先ほどユノを夜明けの魔女と形容した時と同じで。
「ただ、それを書かなくては、僕の夜は明けないままなんじゃないかと、そう思ったから、でしょうか」
マークはもう一度、はっきりとその言葉を口にした。
「僕は、ユノさんと一緒に夜が明ける瞬間を、どうしても見たいと思ってしまうんです」




