5-19 一夜明けて
一夜明けて、ロンドの街を飛び交うのは、昨夜のブッシュでの騒動。
『ブッシュで不審火! 原因は最高裁判官?』
『裁かれる天秤。その真実とは』
『最高裁判官ジェイムズ、銃刀法違反で逮捕』
マークはその新聞記事を丁寧に読み進めた。
一体、何が起きたのか。魔女が司法裁判官を殺したと話題になったのがつい数日前のこと。それが、たった数日でこんなことになっている。
世間が元々司法裁判官をよく思っていないことは知っていたが、たった一つの火種が、全てを変えてしまったようだ。
新聞も、ラジオもテレビも、匿名ながら大多数の代弁者。ここぞとばかりに、司法へと石を投げつける。イングレスの国で、百年もの間抑圧され、くすぶり続けてきた不平や不満が爆発した瞬間だった。
魔女が、司法裁判官に置き換わって。
いずれこれも、鎮火されるのだろうが――とにかく、魔女たちは勝利を手に入れたらしい。
新聞をマークに手渡した同僚が、ニカリと笑う。
「今までは魔女に対しても、別になんにも思ってなかったけどさ。マークが必死になるのを見て、いつの間にかすっかりこっち側だ」
同僚はマークも上機嫌だろうと、マークの肩をたたき……なんとも複雑な面持ちのマークに目を丸くした。
「嬉しくないのか?」
「い、いえ。その……」
嬉しくない、と言えば嘘になる。少なくとも、これでしばらくは司法裁判官がグローリア号事件を嗅ぎまわっていると気にしなくていいだろう。魔女のみんなも無事だ。裁判官も一人、エリックによって逮捕されたという。
だが。
マークは、その裏に隠された様々な魔女たちの画策を想像して、素直に喜ぶことは出来なかった。
自分のせいで、魔女をこの事件に巻き込み、危険な目に合わせたのだ。まだ、本も出来ておらず、本当に魔女と人とをつなぐ物語が完成したとも言えないのに。
そのことを信じて疑わないどころか、そのために命を賭けてくれている彼女たちを思えば、果たして本当に良かったと言えるのだろうか。
「難しい顔するなよ。マーク、これは大きな一歩だ。ここまででかくなりゃ、さすがに王族たちだって俺たちの声を無視できない。俺たちは、より多くの声を届ける武器になれる」
ポンポンと軽く肩をたたかれ、マークは小さくうなずく。
理解しているつもりだ。
今まで、不平や不満を押し込めてきた国民たちでも、一斉に声を上げれば、国一つ変えることは容易いはずだ、と。
同僚は、マークの目に少しの光が戻って安心したのか、ようやくマークの表情を観察する視線を、手元の新聞に戻した。そのまま新聞を取り上げて綺麗に折り畳む。
「追い風だ。マークに、風が吹いてるって思うよ」
少し照れ臭そうな彼に、マークもようやく小さな笑みを浮かべた。
ガコン、と新聞社の扉が開く音がして、マークと同僚が揃って顔を上げる。
「おはようございます」
すっかり見慣れてしまった普通の人と同じ髪と目を持つユノの姿。
「おはよう」
同僚はユノにも、マークにしたように明るい笑みを向け、それから「良かったな」と声をかけた。
曖昧な笑みで同僚に頭を下げるユノは、やはりマークと同じような神妙な顔つきだった。嬉しさを内包しながらも、戸惑いや、不甲斐なさを混ぜ込んだような。
「ユノさん、おはようございます」
意を決してマークがいつも通りに声をかければ、ユノも少しだけ緊張したように
「おはようございます、マークさん」
といつものささやかな挨拶を返す。
「ちょうど、今朝の新聞を見たところです」
マークが先に口を開けば、ユノは「えぇ」と相槌を一つ。それから、すっかり馴染みの部屋になってしまった社長室へと体を向け、
「なんだか、素直には喜べなくて。色々……色々、ありましたから」
と言葉を付け加えた。
社長室の扉を開けようとするユノの手を、マークは咄嗟に引き留めた。
「あの」
ユノがゆっくりとマークの方へ視線を向ける。色は違えど、ふわりと揺れるミディアムボブは同じ。
「今日は、ユノさんが好きな場所へ行きましょう」
マークの言葉に、ユノは少しだけ驚いたような顔をした。当たり前だ。まさか、マークにそんな風に誘われるなんて思ってもみなかったから。
マークが原稿を放り出すようには思えなかった。むしろこんなことがあって、マークは最後のお話を書き上げなければと燃えているのではないか、とさえ思っていたくらいだった。
それが、フタを開けてみれば、「今日はユノの好きな場所へ行こう」と言う。
「いろんなことがありすぎて、僕も気持ちがまとまっていないんです。皆さんの思いに報いるためにも、物語を書かなくては、と思ってはいるんですが……」
マークのはにかむ顔を久しぶりに見た、とユノは思う。島にいた時は、あんなに色々な表情を見たのに、戻ってきてからのマークは難しい顔をしていることの方が多かった。
複雑とはいえ、やはり嬉しいことに変わりはないのだろう。それはユノも同じだ。
素直には喜べなくても、ただ、この嬉しさをしまいこんでおくにはもったいない。
はにかんだマークの表情につられてか、ユノの肩の力も抜けたような気がする。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
ユノは、柔らかに微笑んで、ドアノブに手をかけた。
久しぶりの魔法だ。
魔女が新しい世界を切り開いた今日へ贈る、特別なとびら。
「オープンセサミ」
ユノが小さく呟くと、カチャン、とドアノブの回る音が響き渡る。
いつも聞いている社長室の扉の音とは思えないほど軽やかなその音は、魔女の門出を祝福するかのよう。
扉から少し離れたユノの代わりに、マークが今度はドアノブを握る。
「オープンセサミ」
唱えた呪文の向こうから、微かに波の音が聞こえた気がした。ユノの魔法に、音はついてこないのに。
――海だ。
マークは、開け放った扉の向こうにきらめく波に目を細めた。
特別な場所ではない。けれど、見覚えがある……いや、間違えるはずのない場所。
まっさらな砂浜。渚の碧。遠くに見える水平線と、そこから沸き立つ入道雲。
「全てが始まった場所です」
ユノは、どこまでも遠くを見つめた。
先ほどまで心の中にあった複雑な感情が、マークの中からも、ユノの中からも自然と消えていく。
穏やかに凪ぐ海が、静かに揺らめく波が、ただ二人を包む。
「マークさんに会って、生きる意味を思い出した気がしました。両親の命を譲り受けたことも、私がすべきことも」
ずっと孤独だった。傷ついたり、争ったりすることはないけれど、その分掴めなかったものも多くある。
「私の、魔女としての新しい日は、ここから全て始まったんです」
漂着していたマークを見つけ、ユノの足は無意識に動いていた。あの瞬間だけは、人間への恐怖なんて、微塵も感じなかった。
ただ、ユノ自身も、魔女ではなく一人の人間として、目の前の人を救いたかった。
「そして今日、アリーさん達が……新しい世界を切り開いてくれた」
ユノは昨日までの自分と決別するように、きっぱりと口にする。
人は何度でも生まれ変われるという。死んでも、また生まれ変わって、新しい人生を歩むというように。
マークも、そんなユノの言葉にうなずく。
「今度は、僕たちの番ですね」
何度も交わした約束。口にせずとも、互いの思いが通じるような感覚が、確かに二人の間にはある。
魔女たちが、苦しみながらももぎ取った新しい世界。
それを、素直に喜ぶことは出来なくても、一生忘れないように心の内にとどめておくことは出来る。
ユノとマークが、出会った日を思い出すように。
「最後の二つの物語を、聞いてもらえませんか」
不意に、マークが口にした言葉は、今までユノが尋ねても返ってはこなかった答えだ。
「このとびらの、等価交換に」
そこでその言葉を出すのはずるい、とユノは笑う。
「一つのとびらに、二つの物語では、等価交換ではなくなってしまいます」
「いえ、二つですよ。僕らが出会った日の思い出と、このとびら。ユノさんは、その二つを僕にくれましたから」
「もう、ずるいです」
作家らしい言葉遊びにユノが頬を膨らませれば、マークは声を上げて笑う。
子供みたいな純真さで、美しく輝くフォレストグリーンに、ユノもつられて笑い声をあげた。




