5-16 素敵な一夜
いくつかの、めぼしい資料とそのありか。そして、ブッシュ内部の地図に、天秤のオブジェについての歴史とその構造が書かれた資料を見つけたのが、事件から三日目の夕方のこと。
なんとか、エリックとの約束の時間に間に合った、とジュリは大聖堂へと戻った。
トーマスやアリー達と会話をすることもせず、一目散に部屋へと駆け込む。次なる支度をしなくては、と普段ほとんど使わない便箋とペンを取り出した。見つけた資料、得られた知識。それらを忘れぬうちに書き留めておく。
メモをコートの内側へしまい込み、さらにそこへマッチ箱と、護身用の、と言えばいくぶんか聞こえの良い銃を滑らせる。
さすがに夜間は司法裁判官も帰宅していて、ブッシュ内部はもぬけの殻となっているはずだが、あの男――ジェイムズがそう易々と侵入を許してくれるとは思えなかった。
ジュリは少しの仮眠をとり、夜に備える。
今夜が過ぎれば、全てが終わる。マークの本を完成させるまでの時間稼ぎには、十分すぎるほどの時間が取れる。
休むのは、その時にでも休めばいい。
ユノに頼んで、あの常夏の島でバカンスにいそしんだって、文句は言われまい。
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ガコン、と礼拝堂の奥に備え付けられたテレポートの扉を開けた時、
「どこへ行くの?」
と声がかかった。
ジュリは、ゆっくりと振り返って声の主に笑みを浮かべる。いつも通りの、華やかで明るく、それでいて大人の優雅な雰囲気を纏った極上の笑みを。
「夜更かしは良くないわよ」
ジュリの視線の先に見えるのは、ブッシュへ潜入した時とは比べ物にならないほど、強く輝くスカイブルーの瞳。
礼拝堂を包む暗闇の中でも、それはさざめき立っている。
「それは、アタシのセリフだわ」
近頃、毎晩遅くまでどこへ行っているのか。ディーチェの知らないところで、ジュリが画策しているのは知っているが、その詳しい内容については、誰に聞いても分からない。
「アタシも連れて行って」
――子供の成長は早い。
そんな言葉がジュリの頭をよぎり、そんなことを考えてしまうほど、自分は大人になってしまったのか、とも思う。
ディーチェがまだ小さかったころのことさえ、昨日のことのように思い出せるというのに。
「どこへ行くかも知らないのに?」
「知らないわ。でも、ここで待っているだけは嫌なの」
あえて意地悪な質問をぶつけたのに、真っ向からはね返された。それも、ジュリが彼を失って以来、思い続けてきたものと同じ感情で。
ジュリは、もう一度そのどこまでも勝気なスカイブルーの瞳を見つめる。
「アタシだけ、何も出来ないのは嫌。みんなと一緒にアタシも戦いたい。もう、子供じゃないんだから!」
子ども扱いをしていたことまでばれているとは。ジュリは「困ったわね」と素直に苦笑してみせた。
ディーチェを、一人の魔女として扱う時が来てしまったようだ。
それは喜ばしい知らせでもあり、残酷な知らせでもあった。
まだ、先のことだと思っていた。ブッシュに潜入した後のことを思えば、ジュリのその予想もあながち間違ってはいなかったはず。
それでも、少女たちは大人になっていく。ジュリ達の――大人たちのことなどつゆ知らず。
置き去りにされたくなくて、自ら進んで前を歩いた。それは、ディーチェも同じだというのか。反面教師にしてくれればどれほど気楽だったろう。
どうせ短い命だ。生き急ぐ必要などない。できれば、ジュリの命が尽きてからにしてほしかった。
「ほんと、子供って自分のことばっかり」
こっちの気も知らないで。血の繋がった妹のようにも、わが子のようにも思えるディーチェを戦場に送り出し、傷つく彼女の姿を見たい魔女などいるものか。
「ディーチェちゃんを守るワタシの身にもなってほしいわね」
咲き誇るバラのような深紅の瞳から、はらりとひとひら舞い落ちた涙。音も立てずにジュリの頬を濡らしたかと思えば、数瞬後には消えていく。
「ジュリは、嘘が下手ね」
ディーチェがジュリを見つめれば、ジュリは「子供には甘いのよ」と呟いた。
「守ってくれなくてもいいわ。ジュリの、重荷になりたいわけじゃないから」
「あら、心配してくれるの?」
「べ、別に! ジュリが心配だからついていくんじゃないわ! ただ、自分が何もしないのが嫌なだけよ!」
ディーチェはキッとその目をつり上げて、ジュリを上目遣いににらみつける。シエテの冷酷な視線に比べれば、可愛らしいものだ。
「後悔しないのね?」
ジュリが最後にもう一度だけ、とディーチェに問えば、彼女は満月のように輝くブロンドのツインテールを揺らして自信満々に答える。
「ここでジュリに負ける方が、よっぽど後悔するわ」
ディーチェの普段と変わらない子供らしい物言いに、いつの間にかジュリの方が安心させられている。
(ほんと、嫌になっちゃうわね)
ほんの少し前に感じていた緊張はどこへやら。恐るべき若人のパワーである。
ジュリは、覚悟を決めるように深く息を吸い、観念したように長く息を吐いた。
「行きましょうか」
たったその一言で、ディーチェはパッと瞳を輝かせる。
――置き去りにされるくらいなら、共に朽ち果てる方がマシだ。
そう感じているジュリと、その姿は瓜二つ。見た目も、性格も、考え方も、人との接し方だって違うのに、どうしてこんなところだけが似てしまったのだろう。
ジュリは、そっとディーチェの頭を撫でて、その手が離れる瞬間を愛おしく思う。
「とびきり素敵な一夜にしましょう」
ジュリは鮮やかなウィンクをディーチェへ投げかけて、テレポートの扉へ手をかけた。
「行先は?」
ディーチェが尋ねれば、ジュリは先ほどまでとは打って変わって、サラリとその答えをくれる。
「ブッシュよ。二階の書庫、書棚の近くにあったバラの花瓶。覚えてる?」
書棚のそばに置かれたバラの花瓶。忘れるはずがない。ディーチェが焦ってファイルを探していたというのに、ジュリがうつつを抜かしていたあの。
「まさか!」
「魔力のこもったものと、人が出入りできる空間さえあれば、テレポートできる」
でしょう? と笑ったジュリを見つめ、ディーチェは絶句した。
魔力のこもったもの、と言われディーチェは思い当たるものに行き行く。ジュリがテレパシーのために持っていた指輪。
彼女の小指には、今、確かにその指輪はなく。
あの時、書庫に響いた水の音は、バラを抜き取った音ではなく……ジュリが指輪を花瓶に落とした時の音だったらしい。
「ワタシは、あんまりテレパシーを使うこともないのよ。だったら、あそこへ置いてきた方が、何かと便利でしょう?」
ジュリはしてやったりと目を細めた。
一体いつからこうなることを予想していたのかは分からない。いや、ただ単に、念には念を、と置いてきただけかもしれないが。
「さすがに、夜に出入りするのは怪しまれるでしょう? 大丈夫よ、花瓶は大きかったし、ちょっと濡れることになるかもしれないけど……出入りは出来るはず」
ディーチェは、ジュリという魔女のしたたかさと狡猾さを実感し、自分の幼稚さをさらに恨めしく思う。
(いつか、ジュリみたいになりたい)
まさか、本人には口が裂けても言えないけれど。
「先に行って、ディーチェちゃんを待ってるわ。そろそろ行かなくちゃ、待たせても悪いし」
ジュリはそういうと、軽々とテレポートの扉を閉めた。
ディーチェがまばたきを一回すれば、その美しい紅は消えてしまう。
「待たせても……?」
最後のセリフが妙にディーチェの胸に引っかかる。とはいえ、それくらいのことで二の足を踏んでいてはいけない。
ディーチェは軽く頭を振って、テレポートの扉を開けた。
「行くわ」
自分自身への決意表明。
ディーチェは、テレポート先を脳内にしっかりと思い浮かべて、小さく呪文を唱える。
グラリと脳が揺さぶられるような感覚と、全身がまるで大きくねじられているかのような感覚に襲われる。
だが、それも一瞬のことで、次の瞬間には、ディーチェの目の前には、あの忌々しい書棚があった。




