5-15 心は燃え上がって
「ジェイムズ最高裁判官、ねぇ……」
ジュリは、名簿に書かれたその男の名を読み上げた。ブッシュの書庫は想像していた以上に広く、膨大な蔵書を抱えていた。
裁判にかかわる資料はもちろんのこと、多くの人間が所属している司法組織内部の会議資料、裏で繋がっている貴族や王族との様々なやり取りまで。
こんなことまで紙に残していいのだろうか、なんてジュリが思うほどには、価値のある文書の宝庫だ。
だからこそ、その男の名を探すのに少しばかり時間がかかってしまった。
誰かに聞けばすぐにでも分かっただろうが、一応、新入りの司法裁判官として潜入している手前、上官の――それもおそらく、この司法組織の中で知らぬものはいないだろうと思われるほどの有名人の名を知らない、というのは怪しすぎる。
殺人事件から二日。
昨日は、アリー達がロンドのありとあらゆる場所を走り回り、偽の情報を……王族の機嫌が悪く「魔女」という言葉だけでお怒りになられている、というなんともちんけな噂話をメディア関係者に持ち掛けてくれたおかげで、ずいぶんと『魔女によって』司法裁判官が殺されたという話は鎮火されつつある。
とはいえ、一度立った噂はなかなか消えることはなく、こればかりは人々の良識と、王族への尊大な畏怖を信じるほかない。
できれば一日でも早く、真実を公表してやりたいところだが。
人々が魔女に抱いている感情は恐怖であり、不満ではない。ジュリの知る限りでは、家族が不当な魔女裁判にかけられてしまったことに対する、同情や共感、憐憫という感情を抱いている者もいる。
司法裁判官に対しては、不当な裁判に憤りや不満を感じているが、命が惜しくて声をあげられない、といったところだろうか。
早いうちに、そんな感情を存分に活用させていただこう、とジュリは名簿を閉じた。
まずは、証拠を集めなければ。見つけたところで、トカゲのしっぽ切りかもしれないが、少しでもあの男の鼻を明かしてやりたい。
鎮火された情報とは裏腹に、ジュリの心は燃え上がっていた。
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「お、新入りさんはゴミ捨てですか? 勤勉ですね」
すでに顔見知りになってしまった裏門の警備の男たちに声をかけられ、ジュリはゴミ袋を抱えなおして頭を下げる。
(そうだわ、彼らなら……)
ジュリは意を決して、警備の男たちに「あの」と声をかけた。
「最近、この辺りでジェイムズ裁判官を見かけませんでしたか?」
「見かけたも何も、ジェイムズ様なら、毎日そこの裏口から出入りするじゃありませんか」
何を言っているんだ、とからかうように警備の男の一人が笑う。
「いえ、そうではなく……ゴミ捨て場に」
ジュリが小さく尋ねると、警備の男たちは全員顔を見合わせて笑った。
「あのジェイムズ様がゴミ捨てなんか!」
「そうですよ、新入りさん。口は慎んだほうがいい」
「誰かに告げ口されちゃぁおしまいです」
下品な笑い声に、「でも」とジュリは食い下がった。
「先日、ジェイムズ裁判官が履かれていた靴を捨てたいとおっしゃっていたので」
出まかせを一つ。かまをかけたが、これにかかれば儲けものだ。
「俺が捨てましょうか、と言ったんですが……自分で捨てる、と」
警備の男たちは、お互いに探りを入れるようにゆっくりと視線を交わし……それから、少し戸惑うような素振りでそれぞれに口を開いた。
「い、いや。どうだったかな」
「俺は、まぁ、その……その日は早く帰ったんで。妻が風邪でしてね」
あからさまに不審な挙動だが、ジュリは「そうですか」と話を切り上げる。
「ジェイムズ裁判官の靴がまだあるんじゃないかと思ったんですが。ほら、あれすごく良い靴だったでしょう? 俺、あの人に憧れてて……まだ残っているなら、どこの物かだけでも分かったりしないかな、なんて」
残念です、と小さく肩をすくめて踵を返そうとすれば、男の一人に呼び止められた。
「ちょ、ちょっと!」
ジュリが首をかしげると、男は手招きをして、口元を隠すように手を顔へ当てる。
他の警備の男たちも、その男を咎めることはなく、むしろどこか面白がるような様子さえ見せていた。
結局のところ、秘密というのはそれが重大であるほど誰かに話したくなってしまうものなのだ。無知な相手にならなおさら。
「実は……ここだけの話なんだが……」
ジュリは、警備の男たちから得た情報に、パッと目を輝かせた。それは、作り物の表情ではなく、本心から出たもの。
男とはいえ、他の裁判官たちのように堅苦しくもなければ、どこか不思議な色香を纏ったその青年の表情に、警備の男たちもまんざらではなさそうだ。
「ありがとうございます!」
しっかりと頭を下げ、ジュリは高まった気持ちを隠さず軽い足取りで焼却炉へと再び歩き出す。もはや、鼻歌交じりにスキップでも踏めそうな勢いで。
ジュリは、明日、エリックと会うときには手土産が出来そうだ、と心を弾ませた。
が――
「やけに、楽しそうだな」
背中、というよりは頭上からかかった声に、ジュリはびくりと体を揺らす。振動が地面全体を伝って共鳴し、地の底から這うように響く低い声には聞き覚えがあった。
「ゴミ捨てとは感心だ」
先ほどの警備の男たちからかけられたものとほとんど変わらない言葉なのに、それがジュリの全身に悪寒を走らせる。
ジュリはゆっくりと振り返り、声の主を探して視線をさまよわせる。
曇天の拡散光を受けて鋭利に輝くガラス窓の並び。その一か所が開いていて、そこから黒縁メガネ越しの鈍い瞳と視線がぶつかった。
(わざわざ二階から、新入りに……?)
いくらジュリがお気に入りとはいえ、いささかその行動は最高裁判官にはふさわしくない。
やはり、警備の男たちが言っていた「靴以外のものも捨てていた」というのは本当なのだろうか。
焼却炉を見張っていたのかもしれない。
ジュリは神妙に頭を下げた。
まだ焼却炉のフタは開けてはいない。手元にはゴミ袋だってある。どれも、中身は魔女裁判の記事だ。ついでに燃やしてしまおうといくつかの書類を頂戴して、袋に詰めたのだ。捨ててしまわなければまずい。
まるでジュリのそんな焦りを読んだかのように、ジェイムズはフッと目を細めた。
「捨てておいてやろうか」
(ほんと、この男最悪だわ)
ジュリは内心でジェイムズに舌を突き出しつつ、表ではニコリと爽やかな笑みを浮かべた。
「お気遣い、ありがとうございます」
男にしては高く艶やかな声。ジェイムズに聞こえるように、と声を張れば自然と、地声が出てしまう。
ジュリはまずいと反射的に顔をそらして、一刻も早く焼却炉に、と体をひるがえした。
焼却炉を見張られているともなれば、中からゴミを漁って、ジェイムズのコートや靴を回収することも難しい。
順調だと思っていたが、結局振り出しに戻ってしまった。
忌々しい、と思う気持ちをなんとか抑え込んで、焼却炉のフタを開ける。むわ、と熱気と湿気の混ざった紙の香り。その中に、鉄さびのような鈍い匂いが立ち込めているような気がするのは、ジュリがこのゴミに隠された宝の正体を知っているからだろうか。
(いっそ、あの男への気持ちごと、全部燃えてしまえばいいのに)
わずかな苛立ちを込めて、思い切り焼却炉のフタを締める。ジェイムズが顔をのぞかせていた二階へと目を向ければ、すでに彼の姿はない。
好機かもしれないが……いつどこで見られているかもわかったものではない。ジュリも早々に諦めをつけ、次なる目的地へと向かう。
殺人事件が起きても、グローリア号の捜査を終わる気配はない。しかも、かなり身元調査が進んだと聞く。資料が一つなくなったことで、余計に火が付いたらしい。
ならばもう一度、今度はより多くの書類を拝借するまでだ。
それに、とブッシュのエントランスへと戻ったジュリは、天井に取り付けられた大きな天秤のオブジェを見つめる。
(魔女の仕業だと騒がれても、今度は文句もつけられないわ)
アリーに怒られるかしら、と肩をすくめ、ジュリは書庫へ続く階段を上った。




