5-14 事態の収拾
メディアはせわしない。ことさら、魔女のことにおいては。
今朝の新聞はどこもかしこもブッシュで起きた司法裁判官の殺人事件のことばかり。新聞だけではない。ラジオから流れる話題も、テレビのニュースも。
皆、言論統制など忘れてしまったかのように「魔女」という言葉を口にする。
マークは、電話のベルと同僚の声が散々に鳴り響く事務所の奥で、ユノと共にただため息をつくばかり。
せめて、最後の物語を書かなくては、とは思うものの、その手が動くことはない。
目の前に座っているユノも同じようだ。すでに二度目となった推敲済みの原稿用紙に目を落としてはいるものの、手に握られているペンはピクリともしない。
偉そうなことを言っておきながら、結局、ユノは何も出来ないでいる自分を悔やむ。
「皆さん、忙しそうですね」
なんとか苦し紛れにそう口にしたが、会話の相手であるマークは心ここにあらず、といった風で、ぼんやりと首を縦に振った。
マークが勤めている新聞社は、司法裁判官の殺人事件を新聞記事に取り上げたものの、「魔女」については言及しなかった。
そのことについて、新聞を購読している読者からの様々な意見や情報が、新聞社に寄せられているのが現状だ。
なぜ、普段はあれほどまでに口にすることを嫌がるのに、魔女が事件を引き起こしたとなれば嬉々として皆口を開くのか。
マークはそれが理解できず、ユノも、あまりにも様々なことがありすぎた、と夢見心地だった。
「アリーさん達も、大丈夫でしょうか」
もはや独り言のようにユノが窓の外をちらりと見やると、マークはようやくその言葉に反応して、ピクリと眉を動かした。
アリー達は、ジュリの変化の魔法を使って、今朝から様々な新聞社やラジオ局、テレビ局に出かけているらしい。
今出来ることは、まずはこの事態の収拾だ、と言って。
ジュリがどこからか入手してきた情報をもとに、お偉いさまのフリをして「魔女」という文言を削除するよう求めているという。
人嫌いなシエテも、自らの失態を取り返すチャンスだと言わんばかりに、珍しく早朝から準備にいそしんでいて、ユノが新聞社へ向かうころには、すでにその姿はなかった。
早起きだったのはシエテだけではない。
いつもは最後まで寝ているジュリでさえ、今朝は早かった。
「ジュリさんも、新聞社に?」
朝食を食べながら、ユノが、すでに変化して別人となったジュリに尋ねると、
「ワタシは少し別の用事があってね」
とウィンクを投げかけられた。
別の用事が何なのかは、ユノには教えるつもりもないらしく、彼女はそのままユノの頬に軽いキスを一つ落として去って行ってしまった。
ジュリの行先を知る者は誰もおらず、アリーでさえ困ったように笑うだけだった。
そんな今朝のことを思い出していたユノを現実に引き戻したのはマークの深いため息。
「一新聞記者として、恥ずかしいです」
マークの声は珍しく腹立たし気だ。
「新聞というのは、起きた出来事を、正しく、客観的に、多くの人に届けるものです。それを、憶測や勝手な噂で騒ぎ立てるなんて」
社長がいたら、自分以上に腹を立てていただろう、とマークは続ける。その社長も、今は本を完成させることを最優先に、唯一の出版関係者である古い友人とやらを訪ねていて、ロンドにはいない。
イングレスのはるか田舎の小さな村に、この話が届くのはいつのことだろうか。
「僕は、記者としても、決して一人前とは言えません。ですが、いつもは言論統制だなんだと嘆いているくせに、こんな時ばかり」
言っても仕方のないことだとはわかっているものの、マークは悔しさに顔を歪ませた。
ユノは、マークがこんなにも魔女に寄り添ってくれているのだ、と改めて実感して、つい口元をほころばせる。
世の中の、顔も名前も知らない人たちが何を騒ぎ立てようと――目の前のマークさえ信じてくれれば、それでいい。
そんな風にも思える。
「だからこそ、私たちが本を完成させて、皆さんにわかってもらわなくちゃいけませんね」
ユノは、自らが今出来ること、すべきことを思い出したように、マークの手をぎゅっと握りしめる。
「マークさんが怒ってくださって、私は嬉しいです」
殺人事件の世間への対応は、アリー達が何とかしてくれるだろう。もし、なんともならなかったとて、この話題も時間が経てばやがて忘れられていく。
魔女がイングレスの地から、今まで忘れ去られていたように――
ユノは、そっと手を離し、ペンを再び握りなおして「よし」と呟いた。
覚悟は決まった。これから先、何があっても、もう決して取り乱したりはしない。自分に出来ることを精一杯にやるだけだ。
魔女のことをわかってもらうには、そうした小さな積み重ねを地道に続けるほかない。
「私は、必ず本を完成させます。そして、魔女と人とが手を取り合う世界を作るんです」
だから、こんなところで立ち止まっている訳にはいかないのだ。こんな風に、他の魔女の陰に隠れて、命が保証されている今だからこそ、出来ることをやらなくては申し訳も立たない。
これは、アリー達との等価交換なのだ。魔女の未来と、魔女の命との。
ユノの決意に、マークも落ち込んでいる場合ではなかった、と目の前のまっさらな原稿用紙に視線を向ける。
まだ、何にも染まっていない真新しい世界。
これが最後の物語だ。
万年筆を握ったまま、じっと原稿用紙を見つめているマークに、ユノは以前から気になっていたことを問いかける。
「最後のお話は、もう決まってるんですか?」
先日は、残り二つほど書けば終わりだというのに浮かばない、とマークは嘆いていたが、近頃そんな声も聞かなくなった。
むしろ、何かを思案して原稿用紙に少しペンを走らせては、ぐしゃぐしゃと丸めてゴミ箱へ捨てている姿を見かけることの方が多い。
そうしている時は大抵、マークの中にもう決まった筋書きがあるのだ、とユノはここ一か月ほどの付き合いだが知っていた。
おそらくそれを、頭の中に思い浮かべているような形に出来ないのだろう。書いては、消し、悩み、書いて、また消す。それを繰り返しているうちに、原稿用紙は使い物にならなくなる。
マークが、残り二つの内、一つをほとんど書き終えていることも知っていた。だが、マークはまだ何かが気に入らない、とでもいうように、ユノへ推敲を頼んでは来ない。
だから、ユノも聞くのは控えていたのだ。「最後の物語は何を書くのか」と。
だが、一人ではなく二人なら、出来ることもあるかもしれない、とユノの心にそんな思いが芽生え――
「聞かせてほしいです。マークさんの、最初の本の、最後のお話」
つい、せがんでしまった。
マークは黙り込む。
最後の物語はもう決まっている。……いや、正しくは、最初から決めていた、というべきか。
しかし、いざ書こうとすると、どんな言葉を使っても、どれほど美しい表現を並べても物語は味気ないものになっていってしまう。
そして、一番の問題は、その物語の結末をマークが決め切れていないことにある。
だからこそ、ユノの質問にも答えることは出来るが、答えたくはなかった。
口にしてしまった瞬間、自分が思い悩んできた長い時間が、ちっぽけで、面白みのない出来事になってしまいそうで。
神妙な面持ちで悩みにふけるマークに、ユノは慌てて作り笑いを浮かべた。
「……こ、答えたくなかったらいいんです! ただ、その、何か困っていることがあるのなら、お役に立てることはないかな、と思っただけで」
「すみません。悩んでいることには、悩んでいるのですが」
マークも、自分よりもずいぶんと年下の彼女に、どうしてこうも気を使わせてしまうのだろう、と嘆息する。
きっと、ユノなら親身になってマークの話を聞いてくれるだろう。何か、良いアイデアはないか、一番良い結末はないか、と思考を巡らせてくれるに違いない。
「ただ、これだけは、僕がけじめをつけなくちゃいけないんです」
必ず、完成はさせますから。
マークはそう呟くと、原稿用紙の束をまとめて、壁際に置かれた執筆用の机に向かう。
数歩と足を動かせば触れられる距離。声をかければ届く距離。
それなのに、ユノはなぜかマークの背中がずいぶんと遠いもののように見えて、ぎゅっとローブを握りしめた。




