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万年筆と宝石  作者: 安井優
五つ目の扉 ブッシュ

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65/139

5-10 振り切って

 マークが残る一つの物語に頭を抱え、ユノが二度目となる推敲(すいこう)に入ったころ。

 部屋の戸を慌ただしくノックする音が聞こえて、二人は顔を上げた。


「マーク! いるか?」

 同僚の声だ、とユノを制してマークが扉を開ける。

「どうしたんですか」

 焦りを帯びた同僚の顔が目について、マークは眉根を寄せた。


 何か、魔女にかかわる事件があったのか――

 マークがそう質問するよりも早く

「ブッシュで事件だ。司法裁判官が二人、魔女に殺されたって」

 と同僚の口からついて出た嫌なニュース。


「え」

 声を発したのはユノだ。だが、それ以上は言葉にならず、代わりにユノの顔から血の気が引いていく。

 魔女が、司法裁判官を殺した。

 そんな言葉に、平然を装ってなどいられない。


 ユノの落としたペンが、カツン、と音を立てて床へ転がる。ペン先からじわりとにじんだ赤いインクが、まるで鮮血のように広がった。


「それは、本当なんですか」

 マークも信じられない、と同僚を見つめる。ブッシュといえば、司法裁判の資料を大量に収めている書庫で、そこに魔女が現れた、ということですら信じがたい。

 それだけでなく、魔女が司法裁判官を殺すなんて。


 ユノは、体中を目まぐるしく駆ける混乱を必死におさえこみ、なんとか呼吸を繰り返す。

 確かに、魔女にとっては因縁の敵。だが、司法裁判官を殺すなんてことはあり得ない。そうわかってはいるものの、その証拠は何一つとして持っていない。


「マークさん……」

 か細い声に呼ばれ、マークはユノの方へと視線を向ける。ユノの顔は真っ青で、マークも、そしてこの事件を持ち込んだ同僚でさえも、慌ててユノに駆け寄った。


「大丈夫ですか!?」

「私は……でも、みんなが……」

「大丈夫です。魔女が人を殺すなんて、そんなことは信じられません。きっと、何かの間違いです」


 マークは「失礼します」とユノの体を抱え込んだ。

「きゃっ!?」

 短い悲鳴とともに、ふわりとユノの髪から柔らかなココナッツの甘い香りがする。この場には不釣り合いなそれが、マークの気持ちを少しだけ落ち着かせた。


「大聖堂へ行きましょう」

 まずは、他の魔女たちのところへ行かなくては。魔女の仕業ではないことは、彼女たちが一番よく知っているはずだ。

「すみませんが、新聞記事は頼みます! どうか、魔女のせいだとは書かないでください!」


 マークは同僚にそう声をかけて頭を下げると、ユノの体をしっかりと両手で抱えたまま新聞社の外へと向かう。

 ユノは、混乱と困惑の中にいて、今の状況を何一つとして理解できていない。


 建付けの悪い玄関扉をなんとか開けた時、

「わかった! 気を付けていってこい! 俺たちも調べるよ!」

 と後ろから同僚の頼もしい声が聞こえ、マークは振り返る。もう一度だけ頭を下げれば、

「早く行け!」

 と逆に()かされてしまった。


 マークはユノをおろして、新聞社の外に止まっていた黒い自転車のスタンドを蹴り上げる。

「ユノさん、後ろに乗ってください」

 マークの声に、ユノもハッと我に返ると、おずおずと自転車の後ろにまたがった。


 通常は新聞をくくりつけている後ろの荷台は決して乗り心地の良いものではないだろう。だが、今は手段を選んではいられない。一刻も早く、大聖堂へと向かわなければ。

 ユノもその気持ちは同じようで、マークの背中にきゅっとしがみつくと「お願いします」と存外はっきりとした声が聞こえた。


「しっかり捕まっててくださいね」

 マークが言えば、ユノの手がゆっくりとマークの腰に回る。これが通常時なら、なんとときめく体験だろう、と一瞬マークの頭にそんなことがよぎるが、それどころではなく。

「行きます」

 マークはぐっとペダルを踏みこんで、大聖堂へと自転車を走らせた。


 自転車の二人乗りは罰則の対象。ヤードに見つかれば、かなりの罰金を支払わなければならないが、今日はどうやらブッシュの事件に忙しいらしい。

 ヤードの少ない道を選んで走ってはいたマークも、これなら、と大聖堂への最短ルートに切り替える。


 ロンドの冷たい風がマークの手を突き刺し、ユノの(ほお)を撫でていく。それがまた、体の外側からじわりじわりと心を冷やしていくようで、二人の気持ちを駆り立てる。

 早く、魔女に会って真実を確かめなくては。


「マークさん」

 いつもよりも近くで聞こえたユノの声に、マークは「はい」と小さく返事をする。彼女の息が背中に当たるようで、少しばかりくすぐったい、と思ってしまうのも、この状況でなければどれほど良かったか。


 ユノは、路面の凹凸に合わせて揺れる自転車から振り落とされないようしっかりとマークの腰に手を回したまま、彼の頭頂で揺れるブラウンの癖毛を見つめる。

「絶対、大丈夫ですよね」

 明るく、励ますつもりで言ったのに、思っていたよりもその声色が暗くなってしまった。ユノは声に出してから後悔してしまう。


「大丈夫ですよ」

 マークのはっきりとした返事に、逆に励まされてしまうくらいで、ユノはただうなずくにとどめた。

 マークは前を向いているから、ユノの小さな相槌(あいづち)など見えていないが。


 大丈夫、と言う割に、自転車はぐんぐんとスピードを上げていく。

(マークさんも、やっぱり焦ってるんだわ)

 ユノを元気づけようと、なんとか精一杯気丈に振舞ってくれているのだ。ユノは、マークの優しさを感じて、その背中に体を預ける。


 ドクン、ドクンと心臓の音が重なって、マークのあたたかな体温が伝わって――ユノの心は自然に落ち着いていく。

(大丈夫。アリーさんも、ジュリさんも、シエテさんも、メイさんも。ディーチェちゃんだって。みんな、みんな大丈夫)


 ユノは祈るような気持ちで、そっと目を閉じた。

 魔女は、人と手を取り合って生きていきたいと思っているのだ。いくら司法裁判官が相手でも、絶対にその命を奪うようなことはしない。

 冷静になれば自然とそう思えて、ユノはゆっくりと息を吐く。


 せわしなく行きかう人々も、二人乗りに気づいて怪訝(けげん)な顔をする人も、ロンドの街を縦横無尽に走るガソリン車も。

 誰が何といおうと、真実は絶対に曲げさせない。

 魔女は、人を殺したりなんかしない。


 ユノは、「あ」と声を上げた。曇り空の遠くに、天を切り裂くようにしてそびえ立つ大聖堂の塔が見える。

 新聞社との行き来でずいぶんと見慣れたものだが、それでもこうして姿が見えると、一気にユノの気持ちも晴れやかなものに変わっていく。


「まだ、もう少しかかりますが、見えてきましたね」

 マークも同じような気持ちなのか、安堵したような、心を落ち着かせるような、そんな息を長く吐き出して、信号機の前で自転車を止めた。

 赤から青に変わるまでの一分、一秒でさえ、なんだか今は惜しい。


 二人はそれから、目の前に見えているのに、近づけはしない大聖堂へと向かって長い間自転車を走らせた。

 大聖堂へとつくころには、マークの息は絶え絶えで、ユノは何度か「おりましょうか」と声をかけたくらいだ。


「ついた……!」

 結局、マークは大聖堂につくまでユノをおろすこともなく、自転車のスピードを落とすこともなく走り続けた。

 新聞配達を長らくやっていたのだ。いささか体力は劣ったが、それでもこんな時に弱音を吐くほどなまってもいない。


「急ぎましょう!」

 マークは大聖堂の手前にある公園に自転車を止め、ユノもまた、マークと共に大聖堂へと駆け出した。


 いつもなら少しばかりは信者や観光客のいる大聖堂も、不思議なほどに静かで、ユノとマークの心に再び嫌な予感が走る。

 だが、それをも振り切って、二人は人がいないのをいいことに、パイプオルガンの裏へと滑り込んだ。


「オープンセサミ」

 ユノの呪文が扉を開ける。

 カチャン、と鳴り響いた開錠音は、魔女たちのこれからの世界を指し示すようにも聞こえた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 65/65 ・ココナッツいいですね。髪なので食べちゃダメですけど ・スタンドとペダルの描写、私は忘れがちなんですよ。 [気になる点] 二人乗りが重罪とは。とんでもない町ですね [一言] …
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