5-4 ブラックカース
ディーチェは『一八三二B』と書かれたファイルを探して、目をせわしなく上下左右に動かした。
(青色のファイル……青色のファイル……)
青の背表紙を見つけては、その年代とアルファベットを確認する。
どうしてこんなにファイルがたくさんあるのか、と声を上げてしまいたくなるほど、書棚にぎっしりと詰まったファイル。
青と一口に言ってもその色合いは様々で、薄い青から、濃い青まで。
ディーチェは見落とさないよう、丁寧にその背表紙の文字を追いかけた。
ディーチェがファイルを探している間、ジュリはといえば、書棚の奥に置かれた椅子と、その隣に飾られた真っ赤なバラが咲き誇る花瓶を見つめている。
(ジュリも手伝ってくれたっていいじゃない!)
焦るディーチェはそんな風に彼女をにらみつけるも、背中を向けているジュリに届くはずもなく。
ジュリは、あろうことかその花瓶から一本バラを引き抜いて、香りを楽しんでいる。引き抜くと同時に、チャポン、と水の揺れる音がして、静かな書庫にそれが響き渡った。
ディーチェの胸が、ドキン、とはねる。
司法裁判官が音につられてこちらへ来たら、どうするつもりなんだ。
ディーチェがジュリへ再び鋭い視線を送ると、ようやくジュリは視線に気がついたのか
「ごめん、つい」
とウィンクを一つして、引き抜いたバラを胸元のポケットにしまいこんだ。
さすがにこれ以上はディーチェが本気で怒ってしまう、とジュリもディーチェとは反対の方向からファイルを探す。
青の、一八三二、ビー。
書棚と同じであれば、ファイルも年代とアルファベット順にきっちりと並べられているだろう、とジュリは目星をつける。
年代が若いのはジュリの近くにあるファイルで、おそらく、ここからたどっていけば、とジュリはディーチェの方へと半歩足を動かし、文字を追う指先を止めた。
「ここにあったよ」
ジュリがディーチェを小声で呼び、ディーチェはどこか不服そうな表情でジュリのもとへと駆け寄る。
真剣に探していた自分より、バラなんかにうつつを抜かしていたジュリの方が先に見つけるなんて、とその瞳が雄弁に語っていた。
ファイルを引き出すのはディーチェの仕事。
幸いにもそのファイルは、ディーチェの身長でも手の届くところにあり、ジュリの手を煩わせる必要もなかった。
ディーチェがゆっくりとそのファイルを引き抜くと――
「わっ!?」
想像していた以上の重さに、ファイルがディーチェの体の方へと滑りこんでくる。ズシ、と手に重みを感じた後には、ゴトン、と音がして、ファイルが床に落ちた。
「あ……」
落ちた拍子に開かれたページ。ディーチェの顔から一気に血の気が引いていく。
(どうしよう、アタシ……!)
メイの夢から違う行動を起こせば起こすほど、未来は変わってしまう。
うっとうしいと思うほどに聞いた言葉がディーチェの頭の中を駆け巡り、ディーチェは祈るような気持ちで新聞記事の上に書かれた日付に目をやった。
――四月、二日。
ディーチェは極度の緊張から一気に解放されて、再び泣き出しそうになってしまう。
「よかった……」
ポツリと本心をこぼせば、ジュリも安堵のため息をついて
「ほんと、ドキドキさせてくれるじゃない」
といつもの口調でディーチェの頭を撫でる。
これにはさすがのジュリも肝が冷えた。
どんな過程があっても、メイの見た夢の通りに『今』が帰結したのなら、それはそれで好都合だ。結果的に、同じ未来なら、そこまで大きな問題にはならないはず。
これで後は、ディーチェが魔法をかければ終わり。
だが、ディーチェは新聞記事にかざした手をおろした。
「どうしたの?」
ジュリはしゃがんで、ディーチェを覗き込む。ディーチェの視線は新聞記事に縫い付けられたまま。
ジュリも、ディーチェの見ている新聞記事に視線をやって
『ブラックカースは魔女の呪いか』
と書かれたその見出しに動きを止めた。
人々が街中で倒れこんでいるイラストがでかでかと描かれているだけでも目を引くというのに、イラストに描かれている人々が皆、黒く塗りつぶされている。
「何よ、これ……」
ディーチェは思わず声を漏らし、イラストの下に続く本文へと目を走らせた。
-・・・ ・-・・ ・- -・-・ -・-
一八三二年、三月二十五日。
その悲劇は突如として始まった。
赤い彗星がロンドの上空を切り裂いたのもこの日のことであった――
イングレスから離れた小さな村、コッツウォールに住む人物が最初の発症者となった。
あれから一週間。瞬く間に広がったこの病は、今や、ロンドでも一日におよそ一万人の死者を出すほどに猛威を振るっている。
『ブラックカース』は、頭痛や発熱、嘔吐といった症状から始まり、一週間ほどで死に至る病だ。
感染源や感染経路はいまだ不明。だが、現在すでにロンドの街の二人に一人がこの病におかされていると調査員は発表している。
ブラックカースに感染すると、皮膚が壊死し始める。指先から、皮膚の黒化が始まり、やがて完全に硬直してしまうという。
四月一日時点では、すでにコッツウォールは封鎖されているものの、感染がとまる様子はいまだ見られない。
『ブラックカース』の感染者数は、昨日の時点でおよそ五万人を超え、うち死者数は三万二千人、重病者は九千五百人とのこと。
各村とロンド市内とを結ぶいくつかの橋や城壁には検疫が設けられており、往来には、調査員たちによるいくつかのチェックを受けることが必須となる。
専門家の中には、瘴気が街に満ちることで病が進行、拡大しているとの見方もあり、ロンドの街も封鎖すべきだとの声も上がる。
多くの人々がロンドの郊外へと避難しているが、検疫の影響もあり、今もなおロンド市内には多くの犠牲者が取り残されている。
なお、今回この取材を通じて、多くの人々が「これは魔女の呪いではないか」と口をそろえた。
魔女の持つ力についてはいまも多くの謎が残っており、ブラックカースはその一つではないか、とまことしやかにささやかれている。
-・-・ ・・- ・-・ ・・・ ・
「そんなわけないじゃない!」
ディーチェは思わず声を上げてしまった。
「ディーチェちゃん!」
ジュリに静かな声でたしなめられ、ディーチェは慌てて口を手で覆う。
ジュリがあたりを見回せば、幸いにも司法裁判官の姿はない。
「とにかく、今は魔法をかけて」
急かすように、ディーチェの方へとそのファイルを寄せれば、ディーチェは泣きそうな表情で小さく呪文を唱えた。
ディーチェの手からふわりと広がる光が、一瞬にして新聞記事へと吸い込まれていく。
新聞記事に描かれたイラストから、悲痛な人々の叫び声が聞こえるようで、ディーチェはすぐさま手を引っ込めた。
あとはこのファイルを、このまま椅子の上に置けば終わりだ。
これ以上は触りたくもない、と思いながらも、ディーチェは何とか最後の力を振り絞ってファイルを持ち上げる。
重さと恐怖から、手がカタカタと震えた。
書棚の奥に置かれた椅子の上に、ファイルをそっと広げておけば、ジュリとディーチェの脳内にアリーの声が響く。
『思っていた以上に時間がかかっているようだけど』
咎めるというよりは、心配にも似た口調だった。
ディーチェは、大丈夫よ、と脳内で出来る限り強く呟いた。自分に言い聞かせるためにも。
ジュリも同じように返事をして、今日は戻りましょう、と付け加える。
おそらく、シエテはディーチェ達を魔女協会へと送り帰した後、単独でブッシュへ潜入するだろう。
だが、今日、このファイルをシエテが手に取ることはやめておいた方がいい。
ジュリにはそんな予感があった。
メイのように未来が見えるわけではない。だが、少なくとも今日ではない――
もっと、余裕をもって、落ち着いて行動できる日にした方が良い。それも、シエテ一人で潜入させるのではなく、せめて二人で。
ジュリの考えを読み取ったのか、再びアリーからテレパシーが届く。
『わかったわ、今日は帰りましょう』
アリーのその判断に、ディーチェも、そしてジュリでさえも胸をなでおろした。
「まずはお疲れ様」
ジュリがディーチェの頭をそっと優しくなでると、ディーチェはいよいよ涙をこらえきれなくなったのか、その瞳を濡らして、ジュリの方へと体を寄せた。




