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万年筆と宝石  作者: 安井優
五つ目の扉 ブッシュ

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5-3 未来を信じて

 ジュリが思わず視線を外せば、男はザリ、と高級そうな革靴の先で道をこする。その音は、心臓を乱すノイズのように耳にこびりついた。

「せいぜい仕事に励んでくれ」

 気遣いともつかぬ言葉を残して去っていく男の背を、ジュリは苦々しく一瞥(いちべつ)する。


「なるほど。そういうこと」

 ディーチェがいる手前、強がるようにジュリは呟く。なぜわざわざ表へと回らなければならないのか理由が分かった、という風に。

 表へ回ろう、とディーチェを促せば、彼女は困惑をのぞかせた。


「どうして、ジュリはあいつに頭を下げたの?」

「お偉いさまだったから。司法裁判官も、軍人と一緒で縦のつながりを重んじているらしい」

 ディーチェの質問に、ジュリは簡潔に答えた。


 あの男のコート。胸元につけられたいくつかのピンバッジ。無駄な装飾。

 そのどれもがあの男の地位を的確に示していた。おそらく、司法裁判官の中でもかなり高位の人間だ。

 エリックのところへ行って確認をしておいてよかった、とジュリは安堵の息をつく。


 ディーチェは不思議そうに首をかしげる。

「縦のつながり?」

「上下関係……あるいは主従、だろうね」


 司法裁判官の役職がどのように定められるかは知らない。だが、王族や貴族との関わりを持ってして線引きされているということは、明らかだろう。

 王族や貴族の犬として使われている司法裁判官らしい制度だ。


 前日にジュリの姿が見えないと思っていたらそんなことを調べていたのか、とディーチェは目をまたたかせた。

 ディーチェには考えもつかなかった『司法裁判官の内部事情』とやらを軍人の男から仕入れていたのだろう。


 ジュリを疑っていたわけではないが、大丈夫だろうか、と心配していたのは事実だ。完全に余計なお世話だった。それどころか助けられた。何より、メイから聞かされたことだけで慢心していた自分が恥ずかしい。

 ディーチェは苦虫を()み潰したような表情でうつむく。


 ディーチェが、ジュリの背中に

「ごめんなさい、アタシ……」

 と呟けば、ジュリは一瞬だけ後ろを振り返り、パチンとウィンクを一つ。見た目こそ違えどその人好きする仕草はまさしくジュリで、ディーチェも少しばかり気が軽くなった。


「反省は後でいくらでもできる。今は、未来を信じて」


 前から聞こえた声に、ディーチェも小さくうなずいて、ブッシュの表側へと回る。

 この先は、脳内で何度もシミュレーションした通り。

 中へ入って、二階へ上がり――最初の扉を開ける。それだけだ。


 ディーチェは深く息を吸って、正面玄関を見つめた。

「いこうか」

 ジュリがフッと笑みをにじませる。この状況下で笑っていられるなんて、ジュリくらいだとディーチェは嘆息した。


 ジュリが扉の前へ立つと、ガラス張りの扉が自動で開く。さすがは近代建築。皮肉交じりにその扉をくぐり、ジュリとディーチェはいよいよブッシュの内部へと足を踏み入れる。

 大理石の床がやけに靴音を響かせて、二人の緊張をあおった。


 中を行きかう大勢の司法裁判官。

 白い壁、白い床、白い天井。そこに白い制服の男たちが大勢。

 目がチカチカしてしまいそうだ。


 エントランスは吹き抜けになっていて、嵌めごろされた窓ガラスから大量の日の光が差し込む。

 ともすればそれは大層美しい光景のようにも見えるが、ここは敵のアジトで――少なくともディーチェにはそんなことを感じている余裕などない。


「見て、あれ」

 ジュリにコソリと耳打ちされて、天井を見上げれば、その天井の中心には大きな天秤のオブジェがぶら下がっていた。


「あれが落ちてきたら大惨事ね」

 冗談めかして言うジュリの言葉に、ディーチェはまさかとジュリを見やる。

「嘘でしょう?」


 ディーチェは冗談か本気か分からないジュリの笑顔に

「先に行くわ」

 と足を進める。ジュリに構っていても、いいことなどない。とにかく、メイに言われた通りやりとげなくては。


 エントランスホールから二階へと上がる正面階段を見つけて、ディーチェはほとんど駆け足に近い速度で登る。

 ジュリは相変わらず、遠足にでも来たかのような足取りでディーチェの後をついていった。


 ジュリが次の扉を開けねばならないというのに、ディーチェの焦るような気持ちとは裏腹にジュリはゆっくりと階段を上がってくる。

 ディーチェの目の前にはもう指定された右の扉は見えているのに。


 その時、ちょうどその扉から二人の司法裁判官が出てきて、ディーチェは再びドキンと心臓がはねた。

 ディーチェに、司法裁判官の視線が突き刺さる。


 ディーチェの顔が青ざめているせいか、それともひきつっているせいか。

 男たちの(いぶか)しむような視線が無遠慮にディーチェを見つめる。ディーチェは(ひたい)に脂汗を浮かべた。


「お前、大丈夫か」

「新入りだろ? かまうなよ、むしろ緊張するよ。なぁ?」

 司法裁判官の男たちに声をかけられ、いよいよディーチェの呼吸は浅くなった。


 ――ジュリ!


 ディーチェが振り返った瞬間、ジュリがディーチェの隣を何気ない顔をして通り過ぎ、先ほど目の前の男たちが閉めたばかりの扉を開けた。

「何をしてる。こんなところで邪魔になるだろう。入るなら、早く中へ」


 いつもより厳格なジュリの口調に背中を押され、逃げるようにディーチェは扉の奥へと足をすすめた。

(何なの!)

 混乱と恐怖でディーチェがジュリをにらみつけると、ジュリは口元に人差し指を立てる。


「話はあとで。三つ目の書棚へ向かって」


 ジュリの声と共に、ディーチェが前へ視線を向けると、今度は前から別の司法裁判官の男が一人。

 ディーチェの足は、先ほどの恐怖を思い出してすくむ。


 大丈夫だから、とジュリがディーチェの背中を押す。

 ――そうだ、今は三つ目の書棚に。

 幸いにも、司法裁判官の男はまだこちらに気づいた様子はなく、何やら資料を探している様子で、書棚に書かれている年代とアルファベットを見ているところだった。


 気づかれないように、ディーチェは足音をひそめて三つ目の書棚へと向かう。

(一つ……。二つ……。あぁ、もう、どうしてこんなに書棚と書棚の間が遠いわけ!?)

 決して大した距離ではない。ディーチェの足にして数歩の距離である。だが、それすらも(わずら)わしいと思えるほど、今のディーチェは焦っていた。


(三つ目!)

 慌てて身を隠すようにディーチェが書棚の影へ入るのと、前から来た司法裁判官の男がその書棚の脇を抜けていくのはほとんど同じタイミングだった。

 後少しでも遅ければ、彼と衝突していたかもしれない。そう思うほどに。


 ディーチェは、はぁ、はぁ、とまるで全力疾走でもしたかのように荒い呼吸を整えて、書棚に背中を預ける。


「大丈夫?」

 ジュリに尋ねられ、もとはと言えばジュリのせいなのに、と半ば八つ当たりのようにディーチェは彼女をにらみつけた。


「どうして、さっきすぐに来てくれなかったの?」

 扉の前で、司法裁判官に話しかけられるなんて聞いてない。ディーチェが非難の色を強く表情に出すと、ジュリは困ったように眉を下げた。

「ごめんなさい。でも、二人の男とすれ違う必要があったでしょう」


 言われて、ディーチェは「あ」と声を漏らす。急速に体の熱が奪われていくみたいに、ディーチェの頭が冷静さを取り戻す。


 確かに、あの時、ディーチェは男たちがこの書庫から出てくるまで、誰ともすれ違わなかった。階段は無人だったし、廊下だって、すぐそこに入るべき扉があった。あのままジュリが扉を開けていたら、二人は男たちとすれ違うことはなかったのだ。


 だからジュリは、わざと時間を稼いだ。

 メイの夢を、描いた未来にするために。


「ごめんなさい」

 今日、二度目の謝罪を口にすれば、ジュリが優しくディーチェの頭を撫でる。

「いいえ、よく頑張ったわ」


 ジュリのあたたかな手の温度が伝わって、ディーチェは緊張から解き放たれた。

 まだ終わっていない。大したことなどしていない。簡単だ。そう思っていたのに、それがどれほど難しいことか分かった。


 ディーチェは泣きそうになるのをぐっとこらえて、夢の続きを始めなくては、とその瞳に強い決意を宿した。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 58/58 ・なんてこった。スリル満点。でも確かに夢ならしかたない。 [気になる点] あー、エントランス、ホコリがちょっとだけ舞ってそう [一言] さあ帰るまでが遠足ですよ
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