5-2 ブッシュ
鉄道を乗り換えてさらに二十分。
ディーチェはブッシュの最寄り駅に降り立って、大きく息を吐き出した。
「もう二度とごめんね」
思わず独り言をついてしまうほどには、苦痛な道のりだった。
ブッシュにほど近いとあってか、司法裁判官の制服を見て顔をしかめる者の数も随分と減った。もちろん、いささか目立つ服装であることには変わりなく、それも四人集まっているともなれば多少の視線を感じはするものの。あまり珍しい光景ではないようだ。
アリー達四人の目にも、ちらほらと制服を着こんだ同類――司法裁判官の姿が映る。彼らも人間で、当然ながら、食事や休憩を必要とするらしい。十五時前ということもあってか、カフェのテラスでティータイムとしゃれこんでいる者も見受けられた。
「いいご身分だな」
シエテの悪態に、ジュリも肩をすくめる。人間に好意的なジュリでさえ、やはり司法裁判官を受け入れるのは難しい。割り切れない気持ちが心の奥底に揺らめいてしまう。
「誰しも休息は必要だから」
それだけを言うにとどめて、ブッシュまでの道のりを黙々と歩く。
ブッシュは、最寄駅から徒歩十分ほど。
大聖堂よりも時計塔に近い位置にあり、時計塔がいつもよりも大きく見える。十五時の鐘までは後十五分ある。
メイの見た夢が、未来から今へと近づいていく。
時計塔のふもとにある王族の宮殿から、放射状へと大きな道路が走るロンドの街で、唯一、きっちりと格子状に道が整備されている司法裁判官たちの領域。
あまりにも似たような景観が続くせいで、先ほども同じ場所を通ったのでは、という錯覚を引き起こす。
アリー達は事前に頭へと叩き込んだ地図と、自らの位置を確認しながら、通りを何度か曲がり――
「ついた……」
目の前に現れた無機質な真四角の建物を前にして足を止めた。
今までの建物とは明らかに違う構造で作られているそれは、『近代建築の幕開け』として、新聞の見出し一面を飾ったこともあるほどだ。
石膏とガラスの組み合わせが、周囲の景観からは異常なほどに浮いている。
切りそろえられたかのような建物から、唯一突き出している玄関。
その上部には『情報センター・ブッシュ』の名を関するきらびやかなゴールドの看板と、司法裁判官を意味する天秤のマークが目に付く。
シエテの舌打ちには、皆聞こえないふりをした。
幸いにもブッシュの前は大通りになっていて、建物を遮るものはない。威厳を示すようにあえてその場所を選んで建てられたのかもしれなかった。
何かあれば、すぐにでも駆け付けられる。
今から潜入を試みるジュリ達魔女にとっても、権力を誇示するような立地は好都合だった。
「ジュリとディーチェは裏口へ。私とシエテは、この辺りで待機しているわ」
そんなブッシュを一望できる近くのカフェをアリーが指させば、ジュリとディーチェは口を結んでうなずいた。
シエテも念を押すように、「気をつけろ」と二人に軽く手を上げる。
「わかってるわよ! そっちこそ」
「ありがとね、シエテ」
二人はシエテの言葉を受け取ると、いよいよブッシュへと足を向けた。
ブッシュの裏口は、正方形の建物をぐるりと半周回ったところにある。本当に裏口だ。司法裁判官たちの性格を表してるのか、それともデザイナーが生真面目なのか。
(これが近代建築だなんて、笑っちゃう)
時代錯誤もいいところじゃない、とジュリは呆れる。
他を寄せ付けまいとするその建物のたたずまい。己の正義を突き通さんとする堅さ。決まったものの中にはめ込まれることが美しい、とでもいうようなブッシュの造り全てが、今のイングレスの窮屈さをよく表している。
「ほんと、退屈な人たち」
それすらも愛おしいと思えるようになる日が来るのか。
ジュリにさえ、そんな未来は想像がつかなかった。
ディーチェはディーチェで、ギラリと曇り空に反射するガラス窓を見つめて、威圧的な存在感を放つブッシュをにらみつける。
鏡面のように磨き上げられたガラスは、冷たさと鋭さだけを残して、粛々と等間隔に並べられていた。
やめるなら今しかない。
ここより先に進んだら、もう後戻りはできない。
ディーチェの背中に、ツ、と嫌な汗が伝う。
――怖い。
素直にそう思ったのは、一体いつぶりだろうか。
両親が、まだ幼いディーチェに向けた刃物のような輝きが、ブッシュの建物のあちらこちらに潜んでいるように見える。
ディーチェは自然と震える足を軽くたたいて、深呼吸を繰り返した。
「大丈夫?」
「えぇ。大丈夫よ。別に、大したことじゃないわ」
簡単なことだ。メイの言った通りに行動し、メイの言った通りに魔法をかけさえすればいい。その後はシエテがテレポートで魔女協会へと送り帰してくれる。
「簡単じゃない」
ディーチェの口ぶりは、ジュリへの返答というよりも、自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
ジュリは、軽くディーチェの背中をたたいて、
「そう、簡単なことよ」
と暗示をかけるように、彼女の言葉を繰り返す。
時計塔の針が、十五時へと向かって進んでいく。カチ、カチ、と六十秒ごとに長針が動く様を見つめる。
ディーチェには、その一分一分が異様なほどに長く、遅く感じられた。
次第にバクバクと音を速めていく鼓動。足の震えが手にまでいつしか伝搬し、ジトリと手汗が滲む。
普段ならハンカチでぬぐうが、そんなことにはかまってられず、ディーチェは服の裾でそっとその汗を拭く。
傍目に見れば司法裁判官の服だ。汚れたってかまわない。
「いこう」
ジュリの、いつもとは違う口調にドキン、とディーチェの鼓動がはねた。
同時に、十五時を知らせる時計塔の鐘の音がロンドの街中に鳴り響く。
ジュリは出来る限り冷徹な表情を作って、裏口へと歩いていく。ディーチェはその後ろを追いかけるように進んだ。
ジュリの背に隠れるようにして、無意識に身を縮めてしまう。
「お疲れ様です」
聞きなれない男の声に、ディーチェは思わず顔を上げる。緊張と、恐怖と、不安と。その感情を隠し切れないままに男を見つめると、どうやらブッシュの警備にあたっていた男のようだ。
ジュリは小さく会釈を返して、ディーチェの背をそっと押した。ジュリはディーチェを隠すように立つ。ディーチェを先にブッシュの中へ入れ、警備の目から遠ざける。
ディーチェもそんなジュリの優しさに甘え、足早に警備の男の前を通過した。
どうやら、警備の人間も、司法裁判官の服さえ着ていれば細かいチェックまではしないようである。司法裁判官も軍人ほどではないが、その全体数は多いだろうから、一々顔までは覚えていない、というのが正しいかもしれない。
だが、その先にある関係者用扉の前で、ディーチェは足を止めた。後ろからついてきたジュリも、同じように足を止める。
ガチャン、と不愛想な音が響いて、その扉が内側から開かれたのだ。
「っ!」
思わず緊張して立ちすくんだディーチェに、司法裁判官の――それも、自分たちが身にまとっているよりも上質そうなコートに身を包んだ男が視線を向けた。
黒縁のメガネの奥に見えるほの暗い瞳はダークブラウンとも、ブラックともつかぬ色合い。細く切れ長の目に宿った冷酷な意志。
吊り上がった眉はきっちりと整えられており、これまたダークブラウンの短髪もきっちりとスタイリングされていた。
「見ない顔だな、新入りか」
かけられた声は低く、地を這うように響く。ディーチェが恐怖に顔を青ざめると、ジュリがさっと前へ出て腰を落とした。
「……緊張で声もでないとは、感心だ」
その言葉は皮肉のようにも、自分自身への陶酔のようにも聞こえる。ジュリに倣って頭を下げたディーチェは忌々しい、と唇をかみしめた。
「新入りは表へ回れ。ここを使うにはピンがいる」
(ピン?)
男の言葉の真意が分からず、ジュリが顔を上げる。
瞬間――
男が笑みを浮かべ、ジュリの全身はゾクリと粟立った。




