4-17 原稿用紙の外側に
新聞社では、マークとユノが追い込みに入っていた。
マークは残り二つ物語を書き上げれば、本に出来るだけの原稿用紙をそろえることができる。ユノは今やっている推敲が終われば、ひとまずは手が空くといったところだった。
だが――
「マークさん、大丈夫ですか?」
ユノは修正用の赤いインクをつぎ足しながら、マークの方へと視線を向けた。
マークの深いため息は、これで何度目か。
はじめのうちは数えていたが、あまりにも多くてやめてしまった。気にしないようにしよう、と努めてはいたものの、ユノでさえ気が散ってしまうほどだ。
マークはもう一度深いため息をつくと
「すみません……うまく、言葉が見つからず」
とその表情に疲れをのぞかせた。
ただでさえ、ほとんど寝ずに書き続けている。それなのに、司法裁判官のことや、魔女たちのこともあるのだ。そんな状況の中で、集中や緊張を持続させよ、と言う方が難しい。
マークは元々新しいアイデアを次から次へと出せるタイプでもない。原稿用紙と長い間にらめっこし、何とか一つ、二つ、と物語を書いてきたのだ。
右手も、ロンドの冷えた空気のせいか、疲れのせいか、震えて言うことを聞かない。油断していると、万年筆を落としてしまいそうだった。
マークはしばらく白紙の原稿用紙を見つめて、どうしたものか、と天を仰ぐ。
「一度、休憩された方がいいんじゃないでしょうか」
ユノの言うことはもっともだ。このまま書き続けても効率は悪くなる一方で、改善される兆しなど見えない。だが、司法裁判官がいつここへやってくるか、と思うと気が気でなかった。
物語を、本を完成させる前に、捕まってしまうくらいなら、いっそこのまま物語を書き続けて死んだほうがいい。
「顔色も良くないですし、お茶をお持ちしましょうか?」
「いえ。僕に構わないでください。大丈夫ですから……」
マークはぼんやりとかすむ視界を振り払うようにかぶりを振ると、ぎゅっと万年筆を握りしめた。
困ったのはユノだ。
かまわないでくれ、と言われても、今のマークをそのまま放っておくのはいささか危険すぎると思うのだが、これといって良い案があるわけでもない。
マークが焦っていることはよくわかっている。
ユノだって、司法裁判官がもうすぐそこまで迫ってきている、と聞かされて、早くしなければ、と先ほどまでは思っていたのだから。
しかし、それも先ほどまでのこと。
唐突にアリーのテレパシーが、ユノの脳内に入り込んできてはっきりと述べたのだ。
「司法裁判官たちの時間は稼ぐわ。だから、焦らずに本を完成させてちょうだい」
はじめは全く意味が分からなかった。
「どういうことですか?」
アリーにテレパシーを返せば、ブッシュと呼ばれる司法裁判官の資料保管庫へ潜入し、資料を盗み出して司法裁判官の目を引く、というのだ。
――なんと危険なことを。
だが、その言葉はもう聞き飽きた、とでもいうように、アリーは言い切った。
「大丈夫よ」
心配する暇も与えず、アリーのテレパシーがそこで途切れる。
アリーがそう言うのなら、それを信じるしかない。魔女協会を設立し、多くの魔女を救ってきた彼女の言うことなら。
ユノもそう自分に言い聞かせるしかなかった。
(アリーさんを信じて、一度休もう。そして、一番良い状態で本を完成させる。それが、今の私たちに出来ることだわ)
ユノはそんな風に考え――だからこそ、マークにも「休憩をしよう」と声をかけたのだ。残念ながら、届かなかったが。
いっそ、マークに伝えてしまおうか。
ユノは、でも、と開きかけた口をつぐんだ。
自分のために魔女が危険を冒していると知ったら、マークはどう思うだろう。自分を責めるかもしれないし、最悪の場合、物語を書くことをやめて、魔女協会へ乗り込むかもしれない。
それでは、アリー達の気遣いを無駄にしてしまう。
魔女だって、人を救いたいのだ。
過去のイングレスでそうあったように、互いに支えあって生きていきたい。
マークに話すのは、全てが片付いてからでもいい。
ユノは、意を決して原稿用紙に向かうマークの後ろに立った。マークはゆっくりとユノを見上げ、すっかり淀んでしまったグリーンの瞳をさまよわせる。
「やっぱり、休憩にしましょう」
ユノに出来ることは、マークを説得することだけだ。ブッシュへとみんなが潜入することは伝えずに、なんとかマークを休ませなくては。
それこそが、一日でも早く素晴らしい本を完成させるために、ユノへ与えられた重要な任務だった。
普段は全てを包み込むような穏やかな夜空色の瞳が、今日はどこか冷たさを秘めている。マークは彼女の瞳をそんな風にとらえて、出来る限り視線を合わせないように、とますます縮こまった。
猫背をさらに丸めて、昔の自分に戻ったみたいだ、とマークは眉を下げる。
そうしてマークが息をひそめ、ユノの視線から逃れているうちに、ユノの方が諦めたようにため息をついた。彼女は何も言わずマークから離れると、そのまま部屋から出て行ってしまう。
マークの視界の隅に映ったバイオレットのローブが、少しだけ物悲しそうに揺れた気がした。
マークは今度こそ怒られてしまいそうなほどに長く深いため息をつく。ユノがいなくなったことへの安堵も入り混じって吐き出され、マークは顔をしかめた。
決して、ユノが悪いわけではない。だが、休むくらいならまだこうして原稿用紙と戦っている方が幾分かマシだった。
新聞社で記事を書き始めたころのことを思い出す。情報の命は短く、忙しないロンドの時間に置いて行かれぬように必死だったあの頃。次から次へと入ってくる情報をひたすら紙に書き写した日々。
歴史と伝統を守れ。社長の言葉が耳にこびりついた。
「歴史と、伝統を守れ……」
マークは、ふとユノが座っていたソファの方へと視線をやり、赤いインクの目立つ原稿用紙の束に目を止める。魔女と人が共存している「今」を書いた物語だが、近頃は、自覚するほどスペルミスも多く、ユノが苦労をしているほどだ。
魔女と人との架け橋になるような物語を――
マークは、その誓いを思い出して、今の自分を見つめなおす。
(僕は、そんな物語を書けているだろうか)
くしゃくしゃに丸めてゴミ箱へと放り投げた原稿用紙を拾い上げて、もう一度その文章に目を通す。
(いや、駄目だ……こんなんじゃ……)
もっと、素晴らしい物語を書かなくては。
マークは、再び原稿用紙を丸めてゴミ箱を見やり――息を飲んだ。
いつの間にか、足元に真っ青な芝生が広がっている。
「これは」
爽やかなハーブの香りが立ち込め、細かな草が何千、何万とその葉を揺らした。
「カモミールは、安眠を促すそうですよ」
扉が開いたことにすら気づかなかった、とマークはその声の方へと振り向く。ユノが差し出したティーカップからふわりとハーブ特有の青々しさを含んだ湯気が上がっていた。
周囲に広がる青空と、どこまでも続く草の海。いつの間にか、部屋の真ん中に置かれていた革張りのソファは、ふかふかとした雲のような見た目に変わっている。
マークが座っていた木製の椅子も、目の前の机も、白樺のあたたかなオフホワイトに塗り替えられていた。
「ほら、もうこれでお話も書けないでしょう?」
言葉とは裏腹に、ユノは少しだけ申し訳なさそうな表情で笑う。彼女の後ろで、真っ赤な風船が空を飛んでいく。続いて、黄色や、青、色とりどりの風船が。
「ずるいです」
叶うわけがないのだ。マークは、ユノの魔法に魅せられてしまっているのだから。
マークがユノの手からティーカップを受け取ると、ユノはようやく満面の笑みを浮かべた。
ふわりとひるがえったバイオレットのローブが、軽やかに踊る。
「世界は、原稿用紙の外側にも広がってるんだって、忘れないでください」
私が、ずっと隣にいることも。
マークは、ふっと息を吐いた。自然と笑みがこぼれて出た吐息。
「いつも、ユノさんが僕に世界をくれる」
マークが言えば、ユノは照れくさそうにはにかんだ。
――もう一人じゃないのだ。二人なら出来る。
互いに顔を見合わせて、笑いあう。そんな二人の間をあたたかな春の風が駆け抜けた。




