4-16 夢と未来
「明日の午後三時にしましょう」
作戦決行を告げたのはメイだった。メガネの奥にたたえたエメラルドグリーンは、いつもの柔和なものではなかった。強い意志と少しの緊張が混ざる、冷静で聡明な瞳。
「ジュリとディーチェちゃんは、裏門から入って、正面へ回ってちょうだい」
「どうして?」
なんとも不思議な指示だ、とディーチェが首を傾げれば、メイは曖昧に微笑んだ。
「それが、夢を見るということなの」
正門を通れない理由、裏口から入れない理由、おそらくそれは色々あるのだが、メイにわかるのはその事実だけだ。
だが、それが正しい選択肢であり、安全な未来なのだ。
未来と違う行動をすれば、そこから先の未来は変わる。メイの指示は絶対であり――それを一歩でも間違えれば、ジュリやディーチェの安全は保証できない。
未来を見たからと言って、それがすべて変えられるわけではない。変えられない未来には、変えられないだけの理由がある。
「三時の鐘が鳴ったら、裏門を通過する。それから、二人は正面へ回って、正面玄関から中へと入る。エントランスから、二階へと続く正面階段を上ってすぐ右の部屋へ入るの。そこへ入る前に、司法裁判官二人とすれ違う」
「司法裁判官と二人もすれ違うなんて」
信じられない、とディーチェの顔は青ざめるが、ジュリは冷静だ。
「扉を開けるのはどっち?」
「ジュリよ」
メイは、まるで何度もその場面を見たかのように、迷いもなくきっぱりと答えた。
「そこから先は資料室になってるわ。書棚は、年代とアルファベットの順に並んでる。書棚の三つ目で、二人は立ち止まる」
「三つ目ね」
「前から来た別の司法裁判官と接触を避けるためよ。相手に気づかれる前に、三つ目の書棚の陰に隠れる」
メイの言葉を一言一句聞き逃さぬよう、ジュリはイメージを膨らませる。
メイの見た未来からずれるほど、未来は大きく変化する。だからこそ、小さな失敗でさえ許されない。
「書棚から、一八三二、ビーのファイルをディーチェちゃんが引き抜く」
「一八三二、ビー……」
「えぇ。青い背表紙よ。それで、司法裁判官をやり過ごして……ディーチェちゃんが、その後、そこに魔法をかける」
「ファイルに?」
「そう」
いくらテレポートが魔力を持つものへ転移するとは言っても、転移するのはシエテだ。当然、その場へシエテが転移できる空間が必要だ。いくら細身とはいえ、書棚の――それもファイルとの隙間から登場だなんてそんな無茶な、とディーチェは目をまたたかせた。
「大丈夫。そのファイル、無駄に大きいの。いろんな資料が入ってるおかげでね」
メイは肩をすくめて笑う。ディーチェも、メイがそういうなら従う他ない。
「それじゃ、それをどうすればいいの?」
ディーチェが質問を変えれば、メイは小さくうなずいて続きを口にする。
「四月二日の新聞記事を開いて、ディーチェちゃんは、そこへ魔法をかけるの。そして、そのページを開いたまますぐそばにある椅子の上へと置く」
「それで終わり?」
「そう、そこからシエテが転移して、二人を魔女協会へ送っておしまい」
まるで童話を読み聞かせるようなメイの口ぶりに、ディーチェも胸をなでおろす。
「なんだ、簡単じゃない」
ふふん、と自慢げなディーチェに、ジュリは小さくため息をついた。
「本当に大丈夫かしら」
ジュリだって、とりわけ難しいことは何もないと思っている。
だが、だからこそ――何か予定外のことが起きるのでは、とも考えてしまうのだ。
ただ行って帰ってくるだけだ、と言った彼が、帰らぬ人となったように。
「ジュリ?」
ディーチェの清々しいほどのアイスブルーに見つめられ、ジュリは軽く首を振った。
「なんでもないわ」
考えすぎは良くない。
メイが見た夢に間違いがあったことなど今まで一度としてないのだから。
アリーも、メイの話を聞いてその難易度に胸をなでおろす。
「大丈夫だと思うけれど、ジュリとディーチェは気を付けてね。何かあったら、すぐに私たちを呼んでちょうだい」
「わかったわ」
二人の返事にアリーは微笑んで、それから、と人差し指を立てる。
「あなたもよ、シエテ。分かっているでしょう」
シエテは、アリーの視線につかまり、体をこわばらせる。
シエテの内側を――心に秘めた感情を写し取ったように、何色にも輝くダイヤモンドのようなアリーの瞳。それはまるで鏡のようにシエテのすべてを見透かしているのではないかと思うほどで、居心地が悪い。
シエテは
「大丈夫だ」
と小さく答えるにとどめ、フイとアリーから視線をそらした。
メイに、夢見は一度だけだ、と言ったことがばれているのだろう。
それでもシエテを咎めず、けれど忠告だけはしっかりとするアリーの優しさがチクリと胸を刺す。
「誰一人としてかけてはいけない。これは、ただの時間稼ぎなんだから」
アリーは再度念を押すように、凛とした声で言って立ち上がる。
「魔女らしくいきましょう」
その声に、ジュリは笑い、メイとシエテ、ディーチェはうなずいた。
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礼拝堂から去った三人の背中を見送って、アリーは小さくため息をついた。
「シエテに何を言ったの」
「あら、わかってるんじゃないの?」
メイはテーブルの上に両肘をつき、両手の甲に顎をのせる。いつものメイからは想像もできないほど子供っぽい仕草に、アリーは頭を抱える。
「ほんと。あなたが一番、タチが悪い」
メイはあら、とさらに笑みを深める。
「アリーには言われたくないわ。知っていて止めなかったんだもの。同罪でしょう」
アリーの切れる頭でさえ、返す言葉を迷ってしまうようなメイの物言いに、アリーもほとほと呆れる、と息をつく。
テレパシーのおかげか、アリーは多くの言葉と操り方を知っている。
だが、メイにはかなわない。
彼女の聡明さは、アリーをも上回る。
昔からトーマスと一緒になって、ありとあらゆる書物を読みあさり、過去を知り、そして多くの知識を吸収したせいか。
それとも、未来を知るその力のせいか。
「私たちは、百年も前から罪を背負っているらしいから」
アリーの返事に、今度はメイが呆れたように嘆息を一つ。それもそうね、とメイが相槌だけを打てば、アリーは「それにしても」と遠くを見つめた。
「よりにもよって、一八三二、ビー、ね」
メイもその言葉には苦笑するしかないようだった。アリーは、
「みんな、気づくかしら」
と目を伏せる。生まれながらに大きな傷を負ってきた魔女たちが、出来ればその傷を増やさないでほしい、と願ってしまうのも当たり前のことだ。
傷つくことには慣れている。傷つく覚悟も出来ている。
魔女は、皆そうして生きている。魔女協会だって、魔女の友人だって、いわば傷の舐めあい。それは、アリーも承知している。
だが――
「幸せに生きて欲しい、なんて私のエゴね」
幼いころのアリーは、そんなことなど何一つとして考えず、ただ魔女を幸せに出来ると信じて疑わなかった。だからこそ魔女協会を設立したのだが。
それが、今ではずいぶんと臆病になってしまった、とアリーは目を伏せる。
「それを言うなら、私のエゴでもあるでしょう」
メイはいつの間にか両手を組み合わせて、まるで祈りをささげるようにつぶやいた。
「大丈夫よ」
アリーは「そうね」とただうなずいた。
未来の見えるメイが言うのなら――夢見の魔女がそういうのなら、間違いはないだろう。
「魔女が幸せになる未来が、あなたに見える?」
「えぇ。見えるわ」
「優しい嘘ね」
「あら。分かってて聞くなんてひどいわ、アリー。でも、夢と未来は違う。夢なら、いつだって見れるわ」
アリーとメイは互いに視線を合わせて、まなじりを下げる。
「ねぇ、アリー」
「私は、あなたのお願いなんて聞かない」
「あら、残念」
「タチが悪いもの」
アリーはプラチナブロンドの長いまつげを数度揺らした。まばたきはまるでシャッターを切るように。
メイの笑顔を胸に焼き付けて、アリーはそっと立ち上がる。
――明日は、長い一日になる。
決してアリーは夢見の魔女ではないというのに、なぜだかそんな予感がした。




