4-8 郷愁
ジュリは、夜に染まるロンドを見下ろす。ユノも、彼女の隣で眼下に広がる街並みを見つめた。
道路を往来するガソリン車のライト。家から漏れ出る電灯に、夜道を照らす街路灯。遠くに見える海だけが、ロンドの夜の始まりを告げるように暗い。
ロンドの街は、島暮らしの長いユノにとっては、あまりにも明るくて騒がしすぎる。
けたたましく鳴り響くクラクションにユノが驚くと、ジュリはいつも通り、ケラケラと笑った。
「ジュリさんの、お気に入りの場所ですか?」
「そうね」
ジュリは、他の魔女に比べれば、自由にロンドの街を出歩ける。その分、もっと多くのことを知っていると思っていた。
「意外かしら」
ユノの考えを見透かしたように、ジュリは肩をすくめて笑う。変化の魔法をといたジュリの、ボリュームのある赤毛が揺れた。
「もっと、素敵な場所をたくさん知っているかと」
「素敵な場所ならね。ロンドは――いいえ、世界は広いもの。ユノちゃんの島だって大好きよ」
ジュリは深紅の瞳に、華やかな夜のロンドを映したまま呟く。
「でも、ここが一番ね」
ロンドの生まれではないユノには分からない。だが、ジュリはロンドで生まれ、ロンドで育った。郷愁めいたものだってあるだろう。
華やかなジュリにも、都会のロンドにも、郷愁などという言葉はあまり似合わないような気がしたが。
「ここへ来ると、鳥になった気分になるの。自由で、どこへでも行けそうな」
ジュリはゆっくりと手を伸ばして、風を撫でるように指を優しく動かす。
「贅沢な話よね。ワタシが一番自由なのに」
怒らないでね、とジュリはウィンクを一つ。
「向こうに、軍の基地があるの。知ってる?」
ジュリは明確に指を伸ばす。その先、遠くに小さなまばゆい光がいくつも明滅を繰り返していた。
「海軍と空軍の基地よ」
ユノは、塔の上から見下ろしても広大なその敷地に、軍とはずいぶん大きな組織なのだな、と思う。だが、それ以上のことは分からない。ユノの視線が、規則正しく並べられたランプに目が吸い寄せられてしまうのも、仕方がないことだった。
「あの光ってるところが飛行場。飛行機が夜でもちゃんと帰ってこれるように、ランプをつけてるんですって」
ジュリは何気なくそう言ったが、その深紅の瞳はどこかほの暗かった。
「マークさんを迎えに来てくださった……」
ユノが記憶をたどると、ジュリがうなずく。
「そう。エリックのいるところよ」
ここから、あの島まではどれくらいかかるのだろうか。すっかり暗くなってしまった海は、その果てすらも見えない。
ユノは、ぼんやりとその様子を眺めて、それからジュリを横目に盗み見た。
やはり、いつもの華々しさはない。
「……ジュリさんが愛した人って、どんな人なんですか」
ユノの質問に、ジュリははるか遠くまで続く海よりも、さらに先へと目を向ける。
「優しくて、明るくて、勇気があって。誰よりも恰好の良いパイロットよ」
「パイロットって?」
「飛行機を操縦する人のこと。彼は優秀なパイロットだった」
ジュリの言っている『彼』は過去形で、同じく飛行機を操縦していたエリックをさしているわけではなさそうだ。
ジュリはユノの方をチラリとも見ずに、ただロンドの街を眺めている。冷たい冬の風が二人の間を通り過ぎた。日が落ちて、ただでさえ寒いのに、さらにぐんと気温が下がったような気がする。
ユノは空を見上げるも、ロンドの街が明るすぎるせいか、星はほとんど見えなかった。
「どうして」
ユノが再び疑問を投げかけようとすれば、吐き出された息は白く、ジュリは
「冷えてきたわね、戻りましょうか」
とユノの肩を抱く。
まだ、話は終わっていない。いや、ジュリの話は、まだ始まってすらいない。
ユノはそう思うのに、ジュリの手があまりにも冷たくて、彼女の提案を拒むことは出来なかった。
上りはあんなにも苦しい思いをした螺旋階段も、下りはあっという間。二人分の足音が沈黙をかき消してしまうせいか、うまく言葉も出てこない。
「ジュリさん……」
階段の終わりが見えて、ユノは引き留めるように彼女の名を呼んだ。
ジュリがくるりと振り向いたときには、変化の魔法で別人の姿になっている。この話はもう終わりにしたい、とでも言うように。
「ユノちゃんにも、魔法をかけてあげるわ」
ジュリは、ユノの姿もあっという間に別人へと変えてしまう。
「ありがとう、ございます」
ユノの戸惑ったような困惑交じりのお礼に、ジュリは目じりを下げた。
「そんな顔をしないでちょうだい」
ジュリはするりとユノの頬を撫でる。
――そんな顔をしているのは、ジュリの方だというのに。
ユノは、ジュリを見ていられなくて目を伏せる。ぎゅっと服のすそを掴めば、ほんの少しだけ、胸の痛みが治まるような気がした。
「……マークさんの、あのお話の続きは、どうなると思いますか」
うつむいたままのユノの質問に、ジュリは逡巡する。
ユノは、マークの物語について尋ねている。決して、自分のことではない。
頭ではそう理解しているのに、なぜか、心にうずまく思いは自らのことばかりだった。
願わくば、幸せになってほしい。だが、ジュリの知る限り、物語はハッピーエンドばかりではない。悲しいものも、理不尽なものも、不条理なものも。様々な物語が存在している。
マークが書いたあの恋物語は、現実ではきっと――
「二人は、魔女と人だから……。運命に引き裂かれてしまうかもしれないわ」
無意識のうちにそんな言葉がこぼれて、ジュリはハッと口をつぐんだ。顔を上げたユノは、ジュリの言葉に目を見開いていた。
今にも泣きだしてしまいそうな顔をしていたのは、一体どちらだっただろう。
ジュリは、止めていた足を無理やりに動かして魔女協会へと向かう。その速度は先ほどに比べればずいぶんと速く、後ろを追うユノの足音もつられて速まった。
「ジュリさん!」
ユノの声が、シンと静まり返った大聖堂に響き渡る。
ジュリは、振り返らなかった。
泣いているところなんて、見せられたものではない。
涙がこぼれてしまわないように、必死に顔を上へと向けて、鼻の奥に突き刺す痛みを押し殺す。
側廊へと曲がり、告解室へと続く狭い階段を上り――
「マーク、くん……」
ジュリは、そこにいた青年の姿に、足を止めざるを得なかった。
ジュリを追いかけたユノも、告解室の前でジュリが足を止めたのを感じる。残り数段を、息を整えてから上がり、二人を邪魔してしまわないように、と最上段で足を止めた。
「ジュリさんの話を聞きたくて。どうして、僕の話がダメなのか……具体的に教えてほしいんです」
マークは、原稿用紙の束をジュリの方へ差し出して頭を下げる。
「勝手にジュリさんをモデルにしたことは、申し訳なかったと思います。不快な気持ちにさせてしまったのならすみませんでした」
顔を上げたマークの美しいフォレストグリーンの瞳が、たじろぐジュリの深紅の瞳とぶつかる。
対照的な色のせいか、互いに避けることは出来ない。
「どうしても、とおっしゃるのなら、僕も無理には聞きません。今からでも、別の物語を書きます。でも……僕には、この物語を書かなくてはいけないような気がするんです」
マークの手が震え、原稿用紙がカサカサとこすれる音を立てる。
マークも、不安なのだ。自分の書いた物語を否定されてしまうことが、恐ろしかった。
咄嗟に動いたのはユノで、マークの隣に並ぶと、マークと同じように頭を下げる。
「ジュリさん、私からもお願いします。魔女と人が自然に手を取り合える、そんな本にしたいんです」
そのためには、ジュリが納得するような物語でなくてはいけない。
驚いたようにユノを見つめるマークをよそに、ジュリは盛大なため息をついた。
「とびら屋の魔女は、人がずっとカギをかけてきた心の扉まで開けてしまうのね」
そうこぼして、マークに視線を移し
「それとも、ワタシが知らないだけで、ここは物語の中なのかしら」
といたずらに微笑む。
「ほんと、あなたたちって最高だわ」
マークの物語に書かれた、魔女のセリフと同じ。
ジュリはそれに「たまったもんじゃないわね」と付け足して、告解室の扉を開けた。




