4-3 わがまま
メイは、言葉とは裏腹に落ち着いていて、穏やかだった。彼女の周りだけは、時間の流れがゆっくりと進んでいるかのようにも思える。
「もう長くはないからこそ、マークさんにお話を書いていただきたかったんです」
エメラルドグリーンの瞳は、まだこんなにも美しく輝いているというのに、本当にいなくなってしまうらしい。
「こんなことを言うのはおこがましいかもしれませんが」
メイはその瞳をマークへと向けたまま、ためらいがちに話を続ける。
「私が見ることの出来ない未来でも、魔女たちには笑っていてほしいんです。だから、少しでも魔女と人とが手を取り合えるようなお話があれば、と思って」
マークは、メイを直視することが出来なかった。
メイの奥に降り続けるロンドの雨が様々な形に変化していく様子を、ただひたすらに目で追った。
メイは、そんなマークに気づいているのだろう。
「突然、こんな話をしてすみません。ですが、マークさんには話しておく必要があると思って」
話を一度切るように、メイはティーカップをゆっくりと持ち上げた。ゆるやかな湯気の向こうに、たたえたままの笑みが見える。
「きっと、マークさんはこれからたくさんの魔女と出会い……そして、魔女との別れを経験することになるでしょう。悲しい別れも、多くあるはずです」
「どうして……」
マークの、言葉にならない思いが、たった一つの疑問になってこぼれる。
「覚えていてほしいんです。私たち魔女を主人公にしてくれたことが、どれだけ魔女を救っているか。マークさんが、私たち魔女に永遠の命を与えてくれた。私たちに、魔法をかけてくださっているんですよ」
透き通る海のような、豊かなエメラルドグリーンが、柔らかに細められた。
メガネの透明なガラス一枚を通しても、その輝きが色あせることはない。
「私のことを、物語にしてくださってありがとうございます」
メイがいなくなってしまうのは、明日、あさって、そんな近い未来のことではないだろう、と思っていた。
きっと、一年、二年、いやもっとそれ以上先のことだろう、とマークは思っていたのだ。
それなのに、目の前のメイはまるで、明日にでも消えてなくなってしまいそうなほどに美しかった。
「……トーマスさんや、シエテさんは……」
「知っていますよ。アリーと、ジュリも。ユノちゃんとディーチェちゃんには、内緒にしておいてください」
メイは母親のような慈愛に満ちた笑みで、そっと肩をすくめた。
「わがままでしょうか」
誰がメイをわがままと言えよう。
マークが「分かりました」と返事をすれば、メイはもう一度「ありがとうございます」と頭を下げた。
トーマスから話を聞いたとき、人生を預かるような気分だった。それがまさか、本当に人生を預かることになるとは。
あの時、漠然と嫌な予感がしていたのは、これのせいだったのだろうか。
マークは、一つ、二つ、たっぷり深呼吸をする。
雨の香りが鼻をくすぐった気がしたのは、マークの思い過ごしか――それとも。
メガネのフチに隠れてはいるが、メイの瞳の端にうっすらと涙が見えた気がした。
「メイさん、僕に出来ることはありませんか」
「え……?」
「等価交換をしましょう。僕は今、メイさんから人生をいただきました。だから代わりに、僕から何か一つ、メイさんにお返しをしなくては」
メイは驚きに目を見開き、それから困ったように眉を下げた。
「それは、なんともずるい等価交換ですね。私ばかりが、与えてもらっているようで」
誰よりも優しく、たくさんの未来を与えてきたであろう彼女が、最後くらいは何かを与えられてもバチなど当たるものか。
マークの頑なに譲ろうとしない姿勢を察したのか、メイは
「困りましたね」
と笑う。彼女は少し考えるように、部屋に置かれている植物や、壁を伝う雨模様や、家具や、色とりどりの街路灯へと視線を移動させた。
「……それじゃぁ」
メイが口を開いたのは、マークがティーカップの紅茶を空にした時のこと。
「シエテを、笑顔にしてあげてください」
メイのその言葉に、今度はマークが「困りましたね」と笑った。
あの気難しい、触れてしまえばこちらが傷を負ってしまいそうな、シエテという魔女を、よりにもよって託されることになるとは思いもしなかった。
だが、メイの人生との等価交換なのだ。それくらいであるべきかもしれない。
「シエテさんとは、どういう関係なんですか」
「そうですね……彼女とのことを、一言で表すのは難しいです。友達、仲間、家族……どれをとっても、足りない」
メイはマークのティーカップへ紅茶を注ぎ、揺れた水面を見つめた。
「シエテは、ああ見えて、とても優しいんですよ。繊細で、怖がりで、全てを一人で抱え込んでしまう。とにかくがむしゃらに、今を生きています。私と一緒にいるのも、私の命がもう長くないと知ってからのことです。私が――魔女がいなくなることが、とても怖いんでしょう」
メイの口から語られるシエテは、マークの知っている彼女とは少し違う。
人間が嫌いで、マークのことも、トーマスのことでさえ、刺すような視線でにらみつける彼女とは。
「彼女は人のことが嫌いなんじゃなくて……魔女を傷つける人から、魔女を守れない自分が嫌いなんです」
メイは子供っぽく微笑む。
「シエテには、内緒にしてくださいね。きっと恥ずかしがりますから」
それから、と付け加えて、メイの表情はすぐに真剣なものへと戻る。
「彼女は魔女を守るために、自分を犠牲にして生きてきました」
言われてみれば、人嫌いのシエテが、人と手を取り合って生きていきたい、という魔女協会の設立者であることは、マークには理解しがたいことだ。
「より多くの魔女を守るために、人と手を取り合うことを選んだ、ということですか?」
マークが尋ねれば、メイは笑みを浮かべる。それは、少しだけ切なくて、少しだけ、シエテのことを憂いているような。そんな笑みだった。
「そうですね。シエテの場合は、魔女をより多く助けるため、仕方なく魔女協会に身を置いているんだと思います。あるいは……」
メイはそこで言葉を切って、マークの方へ視線を投げかける。
「どうして魔女が短命か、マークさんは知っていますか?」
魔女は、魔法という特別な力を持つがゆえに短命。それは、魔女に関して比較的よく言われている噂の一つである。
「魔法のせいだ、と聞いたことがありますが」
脈絡のない質問にマークが答えれば、メイは小さくうなずいた。
「そうですね、魔法の力があるがゆえ。そう言われています」
今の話と何の関係が、と言いかけたところで、メイが続きを口にする。
「魔法を使えば使うほど、魔女の命は短くなる。それが、私の見解です」
「命と引き換えに、ということですか?」
「はい。そして、シエテはそれを知っていながら、魔女を助けるためにテレポートを駆使しているんです。今も。魔女を助けるには、自分の魔法が一番適しているから、と」
遠く離れた場所へでも瞬間移動できる、テレポート。
確かに、魔女の居場所さえわかっていれば、シエテの魔法ほど、魔女を救える確率の高い魔法もないだろう。
メイの夢見も、アリーのテレパシーも、ジュリの変化の魔法も。どれも便利だが、有効な手段にはなりえない。
「私も、多くの夢を――未来を見てきましたが、シエテが魔法を使用する回数は、それをはるかに上回ります。今のままでは、シエテもそう長くはないでしょう。彼女はまるでそれを望んでいるみたい」
だからこそ、彼女を幸せにしてあげたい。
メイの呟きは、祈りのようだった。
それを叶えられるのは、神様でも、ましてやはじまりの魔女でもなくて、まだ自称作家の青年マークなのだとメイは笑う。
「私が見えた未来は、もうそう多くはありません。その先のことは、何も分からない。けれど、シエテが笑顔になる日がくればいいと思うんです」
もちろん、トーマスや、アリーや、ジュリ。魔女のみんなが。
メイはそう微笑んで、ティーカップへと口をつける。まるで、なんてことのない、ちょっとした話でもしたかのように。
「トーマスとシエテを、呼びに行きましょうか」
メイは空っぽになったティーカップをそっとテーブルへと戻して、立ち上がる。
「どこにいるか、わかるんですか?」
「もちろん。そういうものなんです。私たちって」
言葉がなくても通じる相手を、なんと表すのだろうか。
これから先、マークにもそういう人は現れるだろうか。
揺れるブラウンのショートヘアを追いかけて、マークもまた、メイの部屋を後にした。




