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万年筆と宝石  作者: 安井優
三つ目の扉 新聞社

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3-15 タイムリミット

「良い雰囲気のところ悪いんだけど、ワタシからもいいかしら」

 マークとユノの世界を現実へと引き戻すのはジュリの声。二人は慌てて、取り合った手を離す。

 ジュリは自分とユノにかけていた魔法をとくと、華やかな深紅の瞳を二人へ向けた。


「何も、二人に水をさそうって訳じゃないのよ。ワタシだって応援してる。でも、だからこそ聞いておいてほしいことがあるの」

 ジュリの声色がいつになく真剣で、ユノは思わず息を飲む。マークもまた、冷静さを取り戻して、ジュリを見つめた。


 ジュリの瞳と髪色にそろいのルージュはため息をこぼす。

「まったく嫌になっちゃうわね」

 独り言のように吐き出されたその言葉は、ロンドの冷たい空気に溶けた。


「司法裁判官が、こそこそと動き始めてるみたいなの」

 ジュリは足を組み、そこへ(ひじ)をついた。手の甲にあごをのせて、視線を落とした姿は(うれ)いを帯びている。ジュリが元々持つ色香(いろか)はさらに濃くなり、マークの目は嫌でも吸い寄せられる。


 ユノはマークとは別の意味で、ジュリをまじまじと見つめる。

 ユノの知っているジュリは、豊満な体と情熱的な性格を(あわ)せ持つ魅力的な女性だ。気取った風もなく、いつも豪華絢爛(ごうかけんらん)な笑みをたたえていて、豪快な明るさとパワーがある。


 だからこそ、ユノは驚いたのだ。

 ジュリがこんな風に思いつめた顔をしているところを見るのは初めてだった。

 ――司法裁判官が動き始めたともなれば、当然のことかもしれないが。


 魔女にとって、司法裁判官はいわば死刑台への案内人。そんな彼らが動き出したとなれば、いくらジュリでも笑みを浮かべる余裕はない。

 ユノにだって、それくらいは分かっていたが……それでも、ずいぶんとそんな物騒な話から離れていたせいか、妙に現実のこととして受け止められなかった。


「誰がそんなことを」

 ユノよりマークが先に現実を受け止め、彼はあからさまに不安と怪訝(けげん)を表に出す。

「早すぎます。ありえない」

 ジュリが嘘をついているとは思えないが、マークがイングレスの地に戻り、執筆を始めてからはまだ一か月と立っていない。原稿すら完成していないのだ。


「エリックよ。軍に通達書が来たらしいの」

「通達書?」

「えぇ。先日の、グローリア号の件でね」


 大型旅客船が沈んだとあって、世間では相当な騒ぎになったという。マークは当事者だが、ロンドにはおらず、そのころの新聞記事は見ていない。


「どうして、グローリア号の事件が今更」

「さぁ。それについては分からないけれど……大方、お偉いさま方が、魔女の呪いだとでも言ったんじゃないかしら」

 ジュリの物言いにはあからさまな苛立(いらだ)ちが含まれている。自らの赤毛を軽く後ろへとあしらって、ジュリは大きくため息を吐いた。


「事件については、軍が調査を行ったの。その資料の開示をしろ、と今になって通達書が届いたらしいわ。運行ルート、天候、それに乗客のリストと見つかった遺体の身元確認書もね」


 今度はユノではなく、マークが息を飲んだ。

「乗客リストと、遺体の身元確認書」

 ユノも復唱して、ハッとジュリに視線を向ける。


「まだ遺体の確認が取れていない人もいるから、すぐにとはいかないでしょうけど……マークくんが生きてるってわかったら、何を言われるか」

 司法裁判官のことだ。三人とも、彼らが何と言うかは容易に想像がついた。おおよそ、三人が想像した通りのことを口にするだろう、とも。


 エリックは――軍は、もう通達に応じたのだろうか。グローリア号の乗客全員の身元確認が取れるまでに、何日を要するだろう。マークにたどり着くまでには?


 マークが生きていることは、すでに新聞社の人間は知っている。社長や同僚が、わざわざマークのことを誰かに話すなんてことはないだろうが、裁判官に尋ねられでもしたら、答えないわけにもいかない。


 漠然と迫るタイムリミットが設定され、マークの頭の中を様々な情報が(さく)そうする。

 頭が真っ白にならないだけ自分はまだ冷静でいられているはずだ、とマークは嘆息した。少なくとも、ユノがチラリと不安げにマークへ視線を送ったことが感じられる程度には、落ち着いている。


 以前なら、きっとパニックになっていただろうな、とマークは自分の手を見つめた。インクに汚れている手が誇らしく、マークに勇気を与えてくれる。


(だけど……何があっても、僕がやるべきことは決まっている)


「わかりました。もしまた何かあれば、教えてください」

 それから、とマークは視線をユノに向ける。

「どうしてもユノさんのお力をお借りしなければいけないみたいです。本当ならば……そんなことはしたくなかったんですが」


「なんでも言ってください」

 ユノは即答した。

 魔女裁判にかけられてしまうかもしれない、と思えば怖くて仕方がなかったが、だからといって「やっぱり島に帰る」なんて言えるはずがない。

 ――マークさんを助けたい。


 ユノの瞳にまたたく星々のきらめきが、マークと、そしてイングレスの暗闇を優しく照らす。

(ユノさんには助けてられてばかりだ)

 いつか、彼女に恩返しができる日がくるのだろうか、とマークは苦笑した。


 なんでも、と言うのなら。マークは思い切って口を開く。

「ユノさんには、僕の原稿のチェックをお願いしたいんです」

「チェック?」

 ユノは、想定外だ、とでも言うように目を見開いた。


「誤字や脱字がないか、表現が分かりにくくないか……そう言った確認をしてほしいんです。本来なら、僕がやるべきなんですが、あまり時間もないみたいなので」

 社長が、出版社の人間をいつ連れてくるかも分からない。それまでに出来ることは、どんな些細(ささい)なことでもやっておきたかった。


 だが、マークのその依頼には、さすがのユノもすぐには首を縦には振らない。

「それって、とっても重要なことなんじゃ」

「そうですね。正直、僕も新聞記事の推敲をいまだに満足に出来たことはありません。すごく大変な仕事でもあります」

「そんな仕事を、私が……」


 ユノが困ったようにジュリへと視線を投げる。ジュリは、他人事だと思っているのか、それとも可愛い妹のようなユノのことを思ってなのか、先ほどまでの真剣な表情をたおやかな笑みに変えて「大丈夫よ」とウィンクをとばす。

「ユノちゃんになら、出来るわ」


 マークも、そんなジュリの言葉を受けてうなずく。

「ユノさんにだから、お願いしたいんです」

 たくさんの本を読み、純粋に物語を楽しむことの出来るユノは、かつてのマークと同じ。くしくも、マークが推敲(すいこう)を任された時のように、時間と人手が足りていないことまで。


 ユノは一度目のまばたきの後にたっぷりと息を吸い、二度目のまばたきと共にゆっくりと息を吐き出した。

「……わかりました。どれだけお役に立てるか分かりませんが、やってみます」


 今度こそ、互いに手を差し出してかたく握り合えば、ジュリは「それじゃぁ」と立ち上がる。

「ワタシはお暇するわ。司法裁判官のこともみんなに知らせておかなくちゃいけないし。ユノちゃん、帰りは連絡してちょうだい。また迎えに来るわ」


 ひらりと手を振ったジュリの後ろ姿に

「「ありがとうございました!」」

 マークとユノの声が重なり、ジュリはケラケラと笑った。

「お似合いなお二人さんね」


 ジュリのボリュームのある腰までの赤い髪が、短くさっぱりとした赤みがかった髪になり、深紅の瞳はこげ茶色の瞳へ。女性の体は男性のものに変化する。

 何度見ても不思議な魔法は、ユノの世界を作る魔法にも少し似ているかもしれない。

 空間を変えるか、見た目を変えるか、という違いはあるものの。


 残されたマークとユノは、ジュリから残された言葉を意識しないように、あえて視線をそれぞれ別の方向へ向けた。

 ユノは、原稿用紙の散らばった床へ。マークは、窓の外に広がるロンドの街へ。


「あ」

 その空気を破ったのは、マークの一声。

 (くも)り空と混ざり合った白が、形もないままにふわりふわりと落ちていく。今年何度目かの雪が、ロンドの街に降り始めたのだった。


「雪を見るのなんて、いつぶりでしょう」

 常夏の島で暮らしているユノにとって珍しいその光景は、ユノにいくつかの幼少期の思い出をよみがえらせる。


「お母さんと、お父さんに会いたいな」

 ポツリと呟かれた独り言が、マークの耳に染み付いて離れなかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 35/35 ・共同作業! これですよこれ。FOO! [気になる点] いやーん。言論統制が徹底しすぎてつらい [一言] >>曇くもり空と混ざり合った白が、形もないままにふわりふわりと落ちて…
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