3-9 色づき始めて
長話になったな、と社長はタバコの火を灰皿でもみ消した。
「元々、君の十年の勤続祝いに休みを出したんだ。しばらく休んでから、出社すると良い」
マークの体調を気遣ってか、社長は軽くマークの肩をたたく。
「いえ。そういうわけには。すぐにでも取り掛かりたいんです」
一度家に戻るつもりではあったが、明日からは出勤し、本を作る作業に当てたかった。もちろん、新聞配達でも、推敲でも頼まれればなんでもやるつもりではあったが。
そんなマークの言葉に、社長は肩をすくめた。マークの勤勉さは、社長が一番よく知っている。本人が望むなら、と社長はそれ以上マークを止めることはなかった。
「あぁ、そうだ」
部屋を出ようとするマークを引きとめ、社長はマークの手に握られた原稿用紙の束を見つめる。
「良ければ、私にも君の小説を読ませてはくれないか」
マークは二つ返事で了承し、原稿用紙を置いて「それでは」と新聞社を後にした。
もちろん、合い鍵と金を机から取り出すため事務所へは戻ったし、その際には今まであまり会話のなかった同僚たちといくらか話もしたが。
魔法にかけられた、というマークの問題発言については、誰も触れることはなかった。
皆、言論統制のしかれたイングレスの息苦しさを感じてはいるようだったが、それに触れれば最後。自分に飛び火するのが目に見えている、というところだろう。
マークは家へと向かって、雪の降るロンドの街を足早に歩く。
島で暮らした二週間あまりで、体が寒さを忘れてしまったらしい。そういえば、ロンドの冬は毎年こうだったな、とマークはかじかむ手をこすった。
今頃は、新聞社で社長がマークの原稿に目を通してくれているのだろうか。新聞記事を何千、何万と読み込み、今も自ら現役で記事を書き、推敲をするそんな社長が面白いと言ってくれれば、少しばかりは希望も持てるというものである。
対して、同僚たちは、自分の噂話でもしているかもしれないな、とくしゃみを一つしたマークは思う。グローリア号が沈没して、やはり頭がおかしくなったんじゃないだろうか、などと会話をしている様子が容易に想像できた。
そして、マークは一人これからのことを考えて、はぁ、と小さく息を吐いた。その息は白く立ち込め、風にさらわれて闇夜へと消えていく。
本にする、と息巻いたはいいものの、まだまだ課題は山積みであった。
肝心の物語は、本にするほどの分量もない。内容だって、社長の言うとおり、確認や編集をしてもらわねばならないだろう。
表紙、製本、印刷……。それらを司法裁判官たちに見つからないよう準備し、発行して、初めて販売できる。しかも、売りだしただけでは意味がない。
より多くの人に読んでもらい、共感してもらわなければ。
「出版社への協力か……」
マークは、さんざん足を運んだ大きな出版社での出来事を思い出して、胃が痛む。髪の薄くなった編集長の顔が思い浮かんで、吐き気をもよおしてしまいそうなほどには、トラウマになっていた。
自分の書いた物語が燃やされていく絶望感を思い出し、マークはぶんぶんと頭を振る。
だが、空から降る白い雪が、燃やされて灰になってしまった物語を思い出させた。
「今度こそ、本当に裁判ものだ」
せめて、本が出版されるまでは。その後は、もうどうなってもいい。
出版社への協力は社長に任せた方がよさそうだ、とマークは一度頭を切り替える。マークが最優先すべきことは、物語を書くことだ。
幸いにして、ユノのおかげでいくつかの短い物語を書き上げることは出来たし、そうでなくてもアイデアだけはたくさんメモが残っている。
(そういえば、エリックさんはジュリさんとの恋物語を書いてほしいと言っていたっけ)
空軍パイロットと魔女の恋。なんとも魅力的な物語になりそうである。
(空を飛ぶ魔女なんかがいても、面白いかもな)
マークが出会っていないだけで、きっとこの世界のどこかにいるのだろう。
そうして、物語のことを考えているうち、マークは自宅へと戻ってきていたのであった。
家をあけていた期間は長くない。
だが、ロンドの街や新聞社を見て思ったように、自宅でさえも、長い間帰っていなかったように思えた。
鍵を回し、マークはドアノブを握りしめた手を止めた。
魔法の呪文を唱えて、この扉を開けたら――また、ユノに出会えるような気がして。
「オープンセサミ」
マークの口は、無意識のうちにその言葉を紡いでいた。だが、やはりドアノブが一人で回ることはない。
マークがゆっくりと扉を押し開けると、きしんだ音がアパートの廊下いっぱいに響き渡って、そうだった、とアパートの古さを思い出したのだった。
扉の向こうに広がるのは、殺風景な部屋である。電気をつければ、電球はパチパチと明滅を繰り返す。
(そういえば、切れかかってたんだった)
島でも同じことを思ったな、とマークは一人肩をすくめる。
テーブルとイス。インクの染みが残ったままの床。シンクの脇にはコップと皿がそのまま立てかけられていて、小さな紺の冷蔵庫はしゃれっ気もなく。
元々、クルーズの予定で冷蔵庫の中身はほとんど空にしていたんだった、と過去の自分の行いに安堵した。
コートやらスーツやらを脱ぎ、イスへと腰かければ、懐かしさと侘しさが押し寄せて、マークは深く息を吐く。
「今までの僕ならきっと、何も感じなかっただろうな」
シャワーを浴び、ベッドへもぐり、いつも通りの朝を迎えていたはずだ。
マークは、シャツのボタンを緩めて、テーブルの引き出しから原稿用紙を取り出した。
「魔女も、人も、笑顔になる物語を、書かなくちゃ」
ポケットから万年筆を取り出す。
(インクも、買いなおさなくちゃな)
ユノからもらった万年筆は新品同様だったが、中に入っているインクは残り少なかった。
ユノと出会い、それから多くの魔女や人と出会って、この二週間程度でマークの考え方は大きく変化した。
死を決意していたはずなのに、生きて、もう一度物語を書こうと思った。
誰かの役に立ちたいなどと考えたこともなかったのに、今は、みんなを幸せにしたい、と欲張りな願いを抱いている。
(僕も、前向きになったな)
他人事のように自分を分析して、マークはペンを走らせる。
原稿用紙に埋まっていく文字の羅列も、今までよりずっと明るい雰囲気のものが増えた。
これまでのマークが書いてきた物語は、イングレスの今を表すようなほの暗いものが多かった。マークの人生が、不幸続きだったからかもしれないし、マークの考え方がネガティブだったからかもしれない。
だが、ユノに出会ってからマークが書いてきた物語の多くは楽しく――今のイングレスの閉そく感を払拭するようなものばかりだ。
国を変えることなどできないと思っていた諦めが、ユノとの約束によって、変えなければならないという一種の正義感に取って代わったのを、ありありと感じていた。
マークがそろそろベッドに入らなければ、と思ったのは、結局、深夜の二時を知らせる鐘の音が街に響いたころである。
マークは、久しぶりに自分のベッドの感触を確かめて、明日の朝、再びユノがこのロンドにいないことを実感するのだろうな、と思った。
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翌朝。
マークは、新聞社へと自転車を走らせていた。
バスを使っていた新聞社までの道のりは、想像していたよりも短いものだったことに昨夜気づいたのである。
もちろん、金がない、という現実もあったが。
新聞配達の黒い自転車とすれ違い、マークは、過去の自分を再び思いだす。
ただ生きていくことに必死だった日々が、少しずつ色づき始めている。その予感を胸に抱いて。
だが。
マークの期待は、新聞社の目の前に止められたきらびやかなガソリン車によって、全て奪い去られた。
それは、まさに、マークの家族を奪い去った――司法裁判官が乗っている車であった。




