3-7 新聞社
トーマスに見送られ、大聖堂を出たマークは、ロンドの冷たい夜風にあたりながら、次なる目的地へと足をすすめた。
マークが以前働いていた新聞社である。
自宅へ戻ろうにも、マークはアパートの鍵を持っていない。なんなら、エリックに借りた金も大聖堂まで、と言ってしまったせいで底をつきかけている。
それらすべての問題を一気に解決してくれるのが、新聞社だった。
マークは、新聞社の机の引き出しに、アパートの合鍵を一本入れていた。大した金額ではないが、いくらかの小銭やら紙幣やらも入れていたはずだ。何かあった時のために、という備えが役に立った。いや、まさかその『何か』が船の沈没だとは思ってもみなかったが。
マークは大聖堂から数キロはあるだろうという距離をひたすら歩く。自転車で新聞配達をしていたおかげで、ロンドの地理には詳しい。どの道を通って、どのように歩いていけば新聞社へたどり着くか、ということだけは容易に想像できた。
はぁ、とマークが息を吐き出せば、その息は白くくゆる。それだけで、ユノと過ごした常夏の島がもう懐かしいと思ってしまう。
波の寄せる音も、ガソリン車が通り過ぎる音へと様変わりしてしまって、見上げれば空を埋め尽くすようにまたたいていた星々も、今はうっそうとした曇り空。
「どうして、あの島は夏だったんだろう」
ロンドはやはり冬である。とすれば、イングレスから遠く離れた場所にあの島があったか、それともあの島自体に何か特別な魔法がかかっているのか。
考えても仕方のないことだが、新聞社までの道のりは長い。ほかにすることもなく、マークはそんなことを考えて、ただひたすらに足を動かした。
暗闇の中、時折すれ違う人々は皆、どういうわけかせわしなかった。
「あの島とロンドじゃ、時間の流れ方がまるで違うみたいだ」
マークは独り言をこぼして、後ろに大きくそびえたつ時計塔を見つめた。すでに大聖堂を出てから十五分が経過している。
――ユノの島には、時計も、カレンダーもなかった。
再びユノと暮らした二週間ほどのことが頭の中を駆け巡る。
「楽しかったな」
素直にそう思えたのは、果たしていつぶりだろうか。
-・ ・ ・-- ・・・ ・--・ ・- ・--・ ・ ・-・
それから、さらに歩くこと四十五分。午後十時の鐘がロンドの街中に響き渡る。
古びた建物の正面で、マークはようやく足を止めた。
「ついた……」
新聞社は、最後に見た時と同じままで、なぜかホッとした。
石膏を固めただけの味気ない壁と、その壁へ取り付けられた左回りの時計。
黒い自転車が入り口の左脇に数台無造作に止められており、その自転車がぶつかった跡が扉にあって――そのせいで、扉を開けるのにコツがいるところも変わっていない。
ガコン、とあえてレールから外すように扉を軽く持ち上げてからスライドさせれば、無遠慮な金属をこすったような音が響く。
もちろん、常に人手不足で余裕のない新聞社の人間にとっては、そんな音はもはや日常茶飯事のこと。誰一人として顔を上げるものはいなかった。
――唯一、扉を正面に見るようにして、奥に座っていた社長を除いては。
「マーク!」
社長の大きな声は、どうやら新聞社の人間にとっては顔を上げるに足りえるものだったらしい。もちろん、マークも、社長のそんな大きな声は初めて聴いた。
社長は、夢じゃないのだろうか、と目をこすり、まばたきを繰り返す。やがて、目の前にいる青年が、海の底へと沈んだはずの、マーク・テイラーであると確証を得る。カーキの癖毛に柔らかなフォレストグリーンの瞳、猫背気味の立ち姿。
社長は丸メガネの奥にいっぱいの涙を浮かべ、マークへと駆け寄った。
以前の社長からは想像もできない情熱的なハグを受け止め……いや、正確にはかわすことが出来ずに、マークは抱きしめられるがまま
「た、ただいま戻りました」
と小さく声をあげた。
マークには、社長がほんの少しだけ、最後に見た日から老けているように見えた。
きっちりと七対三に分けられてセットされたダークブラウンの髪もツヤを失っているような気がする。
目じりに刻まれたしわや、骨ばった手は、同じはずなのに。
「あぁ……なんてことだろう……私は……」
社長の声は震えていて、マークも、そして周囲の人間も少し驚いた。
いつも冷静で、伝統や礼節を重視し、穏やかで、ともすれば保守的とまでいわれているような堅物の男のそれとは思えなかった。
「よく、無事で帰ってきてくれた」
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
「謝罪はよしてくれ。謝りたいのは私の方だ。グローリア号が沈没したと聞いたとき、私は……」
社長の声はそこで途切れ、代わりにマークの肩口が濡れる。
――あの、社長が泣くなんて。
それこそ、新聞の記事にしたいくらいの大ニュースである。マークがぎょっと社長を見れば、彼は「すまない」とマークから離れて、顔をそむけた。
慌ててハンカチで顔を拭いた社長が、再びマークを見つめる。
「正直、信じられない」
涙の伝った跡が社長の頬に残っていて、マークまでなぜか泣いてしまいそうだった。
僕もです、と言いかけて、マークは言葉を変える。
「魔法に、かけられたんです」
瞬間、周囲はどよめいた。あんなにも喜びの色を浮かべていた社長の顔も一変し、眉をぴくりと動かす。
「……何が、あったか聞いてもいいかい」
社長の声が静かな新聞社に響く。マークがうなずけば、社長はマークを奥へと促した。
マークは、もうこれ以上、現実から目を背けることは出来なかった。新聞社には、後にも先にも、必ず協力してもらわねばならないのだ。そのために、社長にはいずれ話すことになる。それならばいっそ、今打ち明けた方がいい。
普段は社長と数名の社員しか入ることの許されない部屋へ通され、マークは指示されるがままソファへ腰をかけた。
革張りのソファが、ギシ、と小さく音を立てる。
「沈没したグローリア号からは、いまだ誰一人として生きて戻ったものはいない。軍も捜索を続けているが、この国に帰ってくるのは皆、死人ばかりだ」
社長が話を切り出し、マークはうなずいた。
おそらく、海に投げ出されでもしなければ、マークもそうなっていただろう。船の中に押し寄せた海水で、溺死していたに違いなかった。
「グローリア号が沈没してから、今日で半月。マーク……君は、一体どうして」
「すべてお話します。ですが、その前に一つお願いが」
マークが社長を見据えると、メガネの奥で社長のブルーの瞳が揺れた。
「聞くだけならかまわない。その願いを叶えることは……必ずしも約束はできない」
社長らしい一言だった。
老けたように見えていたのは、外見だけで、中身は社長のままである。その外見だって、見慣れてしまえば、こんなものだったかもしれない、とマークは思う。
「私には、この新聞社を守る義務がある。そして、新聞はこの国の伝統と歴史を守る」
ひいては、国を守ることにもつながる。
それは、先代の社長――つまり、社長の父親が新聞社を設立した時に言っていたことだ、と社長は昔から何度も口にしていた。
マークも、それは十分承知している。
この国で起きていることを正確に記録することが新聞の役目であり、それが歴史を作り、伝統を作り、そして国を国たらしめる。
このイングレスが、そうであるように。
だからこそ、新聞にしかできないことがある。
マークはそう、考えている。
「この国で……イングレスで起こっている真実を、本当の歴史を、僕は書きたいんです。物語として、語り継いでいきたいんです。それを、お手伝いしてはいただけませんか」
フォレストグリーンの瞳がこんなにも美しく輝いているのを見るのは初めてだ、と社長は、目の前に座る青年に息を飲んだ。
十五の――まだ社会が何たるかを知らなかった、かわいそうな少年。
社長の中でマークは、ずっとその時のままだった。
つい、一瞬前までは。




