10-3 大切な場所
魔女の楽園へと向かう水上機へと乗り込んで、マークはドキドキと高鳴る鼓動を必死に押さえつけた。
トーマスは別の機体で、エリックの部下と共に後からついてくるという。
コッツウォールからロンドへ戻り、新聞社の社長やテニスン達に事のあらましと謝罪を述べてから三日。
マークは、いよいよだ、と自らを鼓舞する。緊張でどうにかなってしまいそうだった。
エリックが手慣れた手つきで操作を開始すれば、水上機は軽やかに浮上する。
あっという間にロンドは小さく背後へと遠ざかっていった。
ユノの島から戻ってきたときに見たロンドと全く同じはずなのに、華やかさとにぎやかさが同居して、内側からキラキラと輝きを放っているように見える。
自由を謳歌する人々の声が聞こえるような気がするし、今日は空も晴れているからか、どんよりと薄暗い雰囲気はどこにもない。
ロンドの町並みを見送ると、やがて眼下はゆらめく青へと変わる。
ロンドからユノの島へと向かうのは初めてのこと。
マークは方角だけでも覚えておこう、と小さくなった時計塔と太陽の位置を見比べた。
「そういえば、初めてお会いした時は……銃を向けてしまったんでしたね」
エリックが不意にマークへと声をかける。彼は、苦々しい過去の記憶を振り返るように、すみません、と付け加えた。
「魔女のことを知る人なんて、自分以外にはいないのではないかと思っていました」
申し訳ないことをしたと顔をしかめるエリックに、マークはブンブンと首を振る。
「いえ! そんな! 僕も、そう思っていましたし!」
わたわたと慌てふためくマークは、度がつくほどのお人好しのようで、だからこそ、この国をここまで変えられたのかとエリックは素直に合点する。
初めて会った時から、マークは銃を突き付けられても、魔女の命を軽んじたりはしなかった。ユノのことを、魔女のことを、心の底から大切に思ってくれている。
あまり蒸し返すような内容でもない。そのせいか会話は続かず、マークはどこか落ち着かない様子で、そわそわと周囲を見回した。とはいっても、すでに海上に出てしまっていて、眺めるものと言えば、海か空。一面の青が広がっているだけ。
落ち着かない気持ちを紛らわせようと、マークはその青が変化していく様をつぶさに観察した。
ユノに会えるのだ、と思うと、期待は膨らむが、それと同時に不安で胸が押しつぶされそうになる。
島へ戻ると言ったユノを追いかけて、島まで来てしまったことを、彼女はどう思うだろうか。もしかして、ユノもアリー達と同様に寿命を迎えようとしているのではないか。
ユノに限ってそんなことはない、と自らを奮い立たせてみても、そんな嫌な予感がぬぐいきれないのは事実だった。
急に行っても驚かせてしまうだろうから、と手紙を書いた。
以前、ユノの住む家――とびら屋の前に郵便ポストがあったことを思い出し、シエテのテレポートの魔法ならば、手紙もあの郵便ポストに届けられるのではなかろうか、と考えたのだ。
マークの推測は正しかったらしく、シエテに頼めば、渋々といった様子で引き受けてくれた。
残念ながら、その手紙の返事はまだ受け取れていないが……。
「マークさん、緊張してます?」
エリックに軽く話しかけられたことにすら気づかない程度には、緊張していた。
ユノがマークの到着を受け入れ、歓迎してくれると聞かされていたとしても、緊張はしていただろうけれど。
出会った時から、ずいぶんと長い時間共にし、苦楽を分け合い……最後の最後には、感極まって抱きしめあった仲だ。
だというのに、マークとユノは最後の別れを告げてから、顔も合わせていないどころか、会話すらしていない。
少なくとも、意識しないでいる方が難しく、マークは変な気合が入って空回りしてしまいそうになるのをこらえるのが限界だった。
本の収入で少し良いスーツをあつらえ、きっちりとそれを着こんできたことでさえ、今は後悔している。
「エリックさん……」
思わず泣きそうな声でエリックを呼べば、ぎょっとしたようにエリックはマークの顔を覗き込んだ。
「マークさん!?」
いつもは芽吹きを告げるようなフォレストグリーンが、雨露に打たれたように湿っている。
「絶対に大丈夫ですよ」
正直、ユノのサプライズをジュリから聞かされていたエリックは、マークの気持ちに心から寄り添うことは出来ない。だが、何の問題もないことは、確信をもって伝えられる。
励ましの言葉をかけてもらいながら、マークはなんとか涙と緊張を飲み込んで、その瞬間を今か今かと待つ。
時間的にも、距離的にも、そろそろ島が見えてくる頃合いだ。
マークがようやく視線を前へと動かせば、「そろそろですよ」とエリックからも声がかかった。
島の全貌が見え、マークは思わず息を飲んだ。
まるで絵画のように美しいエメラルドグリーンの海に浮かぶ真っ白な砂浜。ヒスイのような森。
間髪おかずに『とびら屋』を表す漆喰のホワイトと鮮やかなブルーが目に飛び込んできて――マークの胸がぎゅっと締め付けられた。
約半月。過ごした、というにはいささか短い時間ではある。
だが、マークにとってそこは、人生の中で最も大切な場所と言っても良い。
「……つい、たんですね」
吐き出した声は、マークの意志に関係なく途切れてしまう。
全てが始まった、魔女の楽園。
エリックはあえてゆっくりと水上機を旋回させながら、島へと向かって降下していく。
彼の腕であれば、島の一周を回らずとも、とびら屋に近い渚へと着水することくらい出来る。だが、急ぐ必要はない。楽園の美しさを存分に堪能してからでも良い。
トーマスを乗せている後続機に合図を送り、エリックはマークの方をちらりと見やった。
マークはいまだ、ぼんやりとその島を見つめていた。
窓にびたりと張り付いて、だんだんと近づいていく小さな孤島を目に焼き付ける。まばたきすらもったいない、というようにその目はしかと開かれている。
声をかけるのはためらわれ、エリックは操縦に意識を向けた。
切望していた再会が近づいている。
マークは、ユノとの日々を思い返し、島々のありとあらゆる場所に記憶を重ねる。
砂浜に打ち寄せる波しぶきにも、揺れるヤシの大きな葉にも、とびら屋のテラスに広がる花のマゼンタにも。
まだ、ユノは生きている――
テラスにはためく洗濯物は、つい今朝がた干されたものではなかろうか、とマークは目を止めた。白くひるがえるタオル、紫のローブ。
マークは、彼女が生活している欠片を見つけて、ぐっと唇をかみしめた。
「降下しますね」
はかったかのように、エリックがマークへと声をかける。
ユノがここにいる。ここで、生きている。
それが分かっただけで、マークの気持ちは随分と晴れやかだ。首を縦に振る力は、今までよりもずっと強かった。
水上機が降下を始めると、やがて海面には大きな波が立った。波同士が不規則にぶつかりあって、白いしぶきを上げる。
いよいよ目の前に、懐かしいとびら屋が――
「ユノさん……」
聞こえるはずがないのに、マークは思わず彼女の名を呼んだ。
水上機がバラバラと音を立てるのに合わせて、とびら屋の玄関先にまで垂れ下がった花や、周囲の木々が大きく揺れる。
漆喰に埋まった青い枠やガラス窓もガタガタと揺れ、マークは、いつかエリックとジュリが島へやってきた時のことを思い出した。
あの時は、ユノと二人で突然のことに驚いたものだ。
エリックもまた、ジュリと共にこの島へ降り立った日のことを思い出したのか
「懐かしいですね」
としんみりした口調で呟いた。
この島から全てが始まったのは、マークだけではない。
ザブンと着水の衝撃がマークの体を揺らし、やがて、静かになった。
先に軽々と水上機から降りたエリックから差し出された手に引かれ、マークもまたその地に足をつける。
靴越しにも、柔らかな砂浜の感触に足が沈む。
この感覚も懐かしい。
マークがそっと砂浜のオフホワイトのまぶしさに目を細めた時、温かな南国の風がココナッツの香りをふわりと運んだ。




