9-7 大切な人が生きていること
マークがリリベットとの握手を交わした後、リリベットとシトリンは顔を見合わせた。その表情には、ほんの少しの寂寞と緊張が浮かぶ。
「もっとゆっくりお話したかったけど、私たちの仕事はこれからだから」
シトリンは、そういうとマークをもう一度抱きしめた。
「今度は、王城にも遊びに来てね。イングレス一の作家、マーク・テイラー様」
妹から、他人行儀にそんな風に呼ばれるのは気恥ずかしい。耳元でささやかれた妹の愛おしい声に、マークは頬を染めながらも微笑した。
回した手に少しだけ力を込めて、マークも
「わかった。それじゃぁ、また今度。枢密顧問官様」
と妹へ最大の賛辞を贈る。
抱きしめていた腕をほどけば、シトリンはその美しい満月のような瞳と、鮮やかなオレンジの髪をキラキラとまたたかせた。
また今度がある幸せを、噛みしめるように。
それから、リリベットの隣へ並ぶと、枢密顧問官としての美しい所作で礼をする。
リリベットは、王女としての責務を果たさなければならない。
裁判所の外で歓喜の声をあげる人々に、この国で起きていた本当のことを話さなければならず、そして何より、今後のイングレスを背負っていくという立場として、国民にこれからの未来を示さなければならない。
シトリンは、そんなリリベットの枢密顧問官として、彼女の腕となり、足となって働く日々が始まるのだろう。
マーク達の戦いが終わると同時に、新たな仕事を始めなければならない人々や魔女がいることもまた事実だった。
時計の針が、どちら向きに進んだとしても、世界は動き続けている。
マークは、光の方へと向かっていく二人の女性の強くたくましい後ろ姿を眺める。
(いつか、二人のこともお話に書かなくちゃ……)
スーツの右ポケットへと手をつっこんで、万年筆を探す。
「マークさん」
ユノに呼ばれてマークが振り返れば、彼女は万年筆とメモ帳を差し出していた。
随分と用意の良いことだ、と思うが、もうしばらく一緒にいるのだから、この癖も見抜かれているのだろう。
ユノからもらった万年筆と、差し出された真新しいメモ帳に、マークは再びボロリと涙をこぼした。
ユノと出会えていなければ――
そう考えれば、今ここにいることの素晴らしさを、どうして噛みしめずにいられようか。
命を投げ捨てたマークを助けてくれた魔女。
マークに再び物語を書く力を与えてくれた少女。
魔女との出会いを、本の完成を、そして、妹との再会まで、マークを導いてくれたユノ。
「ユノさん」
マークは、妹を抱きしめるよりも大切に、優しく、丁寧に彼女を抱きしめた。
ユノは、突然のマークからの抱擁に驚いたように目を見開いて、それから、差し出していた万年筆もメモ帳も、そっと自らのローブの内ポケットへとしまいこむ。
マークに、自らも腕を伸ばしてもいいのだろうか。
手をさまよわせた挙句、ユノは背中に生暖かい魔女たちからの視線を感じて、もうどうにでもなれ、とぎゅっと目をつむる。
腕を伸ばして、マークの背中にその手を回せば、歓声と驚き、祝福の言葉があちらこちらから上がった。
けれど。
――あたたかい。
マークとユノは、すぐに外界の音など消え失せてしまったとでも言うように、互いの体温を確かめ合う。
流れた涙がお互いの肩を濡らしても、それすらあたたかく感じるほどだった。
どちらともなく、穏やかな心音が混ざり合っていくような感覚が、二人にはひどく心地よい。
夢でも、幻でもなく、ここにいる。
二人には、ただそのことがたまらなく愛おしかった。
ゆっくりとマークがユノの柔らかな髪に触れる。夜空を溶かし込んだような、夕焼けを混ぜ込んだような――いや、世界の始まりそのものを表すかのような、彼女のミディアムボブに、一度でいいから触れてみたかったんだ、とその感触を確かめる。
絹のように滑らかで、陽だまりのように柔らかいその髪が、指の隙間からこぼれていくのでさえ惜しい。
ユノも、マークを真似るように、そっとそのカーキの癖毛を撫でた。
ふわふわとしていて、手によく馴染み、それでいて時折からかうようにぴょこりと跳ねる毛先。隅々まで、春の木漏れ日を写し取ったような穏やかな色彩が、指先からも伝わってくるようで気持ちが良い。
両親の愛情を多くは受けずに育った二人は、互いに、小さかったころの、無力だったころの自分をあやすようにその手を背中へと移動させ、ポンポンと柔らかに数度ノックした。
泣いている赤子の面倒をみるような、愛おしさで。
未知なる扉を開けるときのような、繊細さで。
「私、もう、子供じゃないですよ」
「僕なんか、ユノさんよりもずっと大人です」
二人はそれぞれに顔を見合わせて笑う。
「ずっと、こうしていたい」
そんな言葉は、一体どちらからこぼれたのだろう。
二人はふっと美しく目を細めて、もう一度強く抱きしめた。
ゆっくりと、相手の存在を自らの目で確かめるように、体を離す。
離れていく一瞬の時間、数ミリの空間。
そのわずかな間から、新しい世界の始まりを告げる光が満ちていく。木々が芽吹き、色とりどりの花が咲き誇る。
そんな魔法のような幻想的な光景が、二人の目には映った気がした。
マークとユノの、幸福に満ち溢れる空間を壊すことなど誰にもできるはずがなく。
ただ、皆が静かに彼らの様子を見守っていた。
互いに肩を寄せ合ったり、手をつないだり、顔を見合わせたりしながら、ただ、自らの隣で、大切な人が生きていることに感謝するばかりだった。
- ・・・・ ・ -・
裁判所の外は、王女リリベットの国政が始まることに色めきたつ。
対して、裁判所の中では、国王や貴族、そして司法裁判官たちを捕らえた軍人たちが、しめやかにその空気を壊さぬように、と撤退準備を始める。
どうやら、そろそろ余韻に浸っていられる時間も終わりが近づいているらしい。
裁判所の片づけもしなければならない。いつまでも、ここにいて良いわけではない。
マークには新聞社の仕事もある。魔女たちには、魔女たちのやるべきことがある。
裁判所は、戦場となった跡をあちらこちらに残したまま、時を止めた。ここの再建や、司法制度の見直し、ひいては国全体の改革が始まるのだろう、と予感させる。
かつて自らの仲間を苦しめた裁判所の変わり果てた姿に、魔女たちは、どこかせいせいしたような、晴れ晴れしい表情を浮かべる。
「全部、終わったのね」
ジュリがしんみりとした口調で告げれば、隣にいたアリーもプラチナブロンドの髪を撫でつけて、小さくうなずいた。
開け放たれた窓から吹き込む春風が、魔女たちの頬を撫でていく。
「きっと、面白いお話が書けるわね」
いつの間にかマークの隣に立っていたディーチェが、ふん、と顔を背けながら呟く。
「そうですね」
マークが素直にうなずけば、
「か、書いたら読んであげてもいいんだから」
と相変わらずの口調でディーチェは告げた。口調は剣呑だが、その声色は優しくて、彼女自身も戦いの終わりを喜んでいるようだ。
普段感情の見えないシエテも、今回ばかりは感慨深そうにつぶやいた。
「寂しくなるな」
消えそうなくらいに小さな声だったが、その声を皆が聞き逃すはずがない。
「ふふ、本当にあっという間だったものね」
シエテにしては随分と素直ね、とメイが微笑みかけると、シエテは「うるさい」と泣きそうな顔をメイに見せまいと首を振る。
寂しくなる、と言ったのは、メイや、アリーや、ジュリと――魔女協会との別れが近づいているからだ、なんて口が裂けてもシエテには言えない。
むしろ、寂しいと言っただけ十分だろう、と魔女たちをチラリと横目に見やれば、アリー達もまた泣きそうな顔で美しく微笑んでいた。
「新しい時代がくるもの。忙しくなるわ」
アリーが、新時代を告げる。
そこに、自らがいなくとも――




