8-6 侵入者
「やはりここにいたか」
軍服をひるがえして闇へと溶けゆく男をエリックが見つけたのは、空軍基地の三階。普段、マークや魔女たちに貸している一室だった。
何かを探していた様子だったが、侵入者は諦めたらしい。エリックが駆けよれば、窓ガラスの割れる激しい音がこだまし――直後フラッシュがさく裂した。エリックの眼前が一面の白に覆われる。暗闇に慣れていた目には、効果絶大だ。
「くっ!?」
油断した、とエリックが視界を取り戻したころには男の姿はない。
三階からだというのに、建物の下へと飛び降りたらしい。窓枠に、何かをひっかけたような跡がある。元々ここから逃走するつもりだったということか。
「逃がすな! まだ敷地内にいる!」
エリックの後を追ってきた部下たちに指示を出し、エリックはそのまま、侵入者の逃走経路を追った。幸いなことに、高いところから降りる訓練はエリックの得意とするところだ。
三階から生身で飛び降りたことはないが……建物の至る所に設置されている配管や、各階の出窓に足をかけていけば、降りられないことはない。
まずは、一歩足を外へ放り出し、窓枠のそばをはしる配管を片手で掴む。排水管のパイプに足を乗せ、そのまま腕力で配管側へと移動した。
足を滑らせれば終わり。一歩分しかない配管の上に体重を預け、エリックは急ぎつつも冷静に次の足場を探す。
雨どいを伝い、エリックは二階の出窓部分に取り付けられた屋根へと移る。屋根といっても、その幅は心もとない。そこから、更に配管をたどって、ようやく飛び降りることの出来る高さまで来た時には、雨が降り始めていた。
生憎とコンクリートに舗装されている道では、侵入者の足取りを掴むことは出来ないが、犯人が逃げるならおそらくこちらだろう、とあたりをつけて走る。
用意周到な犯人なことだ。後ろに、ジェイムズや貴族が絡んでいることは間違いなさそうだった。
――どうせ、この事件も賭け事の一種として楽しんでいるのだろう。
いわば、鬼ごっこだ。軍人と犯人という明確な役職が与えられているだけで、やっていることは子供のそれと変わりない。
どちらが勝つかを楽しんでいる貴族がいることは、ここ数日のゴシップ記事の内容からも良く知っている。
バシャバシャと、水を蹴る音が二人分になったような気がして、エリックは耳を澄ます。
やはり、読み通り近くにいるようだ。足の速さと土地勘の差が、エリックと犯人の距離を明確につめていた。
「とまれ!」
エリックが大声を上げれば、雨で視界の滲む暗闇に男のシルエットが浮かび上がる。
飛行機の離着陸に使われる滑走路は、逃げ回るには良い広さだが、遮るものがなく、身を隠すことは難しい。
赤い誘導灯が怪しげにゆらゆらと揺れている。路面がぬれたことで、誘導灯の光がアスファルトに乱反射する。見慣れているはずの場所なのに、エリックをどこか異国にでも迷い込んだような気分にさせた。
男は足を止め、ゆっくりとエリックの方を見つめる。
見知らぬ顔。空軍の所属ではない。諜報部隊か、それとも、海軍や陸軍の人間なのか。
まったく思い当たる節がなく、それゆえエリックには何の戸惑いもない。心おきなく引き金を引ける。
腰に携えていた拳銃を男に向ければ、男はニヤリと口角を上げた。
「俺を撃つのですか」
「あぁ。容赦などしない」
「俺は、同じ軍人で、ただ、この場に居合わせただけですよ」
「現行犯だ」
「エリック中尉以外に、俺の姿を見た者はいません。今度は、誤認逮捕どころの騒ぎではなくなりますよ」
命の危険があるというのに、妙に余裕があるのは、戦いなれている軍人ゆえか。男はにやにやとこの状況を楽しむように笑みをたたえる。
「罪のない軍人を、誤って殺したともなれば……軍人も、世間もどうなるでしょうねぇ」
嫌味なやつだ、とエリックはそれでも銃をおろさない。
ジェイムズに雇われていることは、間違いない。証拠などないが、エリックは直感する。
目の前の軍人の物言いは、あからさまにジェイムズの影響を受けたもの。
ならば――
「ジェイムズ最高裁判官が、軍人を射殺したことも、罪に問われるべきではないか」
エリックがはっきりと口にすれば、男はピクリと眉を動かした。
「何をおっしゃってるのです。虚偽の申告は、相手への侮辱ですよ」
「虚偽じゃない。れっきとした調査結果だ。すでに、元帥は知っておられる」
男の反応は苦々しいものに変わったが、それでも、依然として向かい合う。ジェイムズの忠実なしもべを辞めるつもりはないらしい。
「……やってみれば良いじゃないですか。結果は、明白ですがね」
先刻の笑みから一転。憎悪を露わにした瞳で睨みつけられる。
すぐにでも、発砲すればいい。だが、エリックがそうしないのは、この状況下ではあまりにも自らの立場が不利だから。
男はそれを知っているからこそ、気安くエリックを挑発していた。
バラバラと大きく降り出した雨が、次第に大粒になり、激しく二人をたたく。
ずぶ濡れになった軍服が重く、髪が顔に張り付く感触が邪魔くさい。足場も決して良好とはいえない。いつもより機動力が落ちている。相手も軍人で、その状況で互いに組み伏せあって勝てるかどうか。
エリックとて、中尉といえど空軍中尉。体術だけをとれば、陸軍の軍曹にすら及ばないだろう。
「やっぱり、エリック中尉は優しいんですね。空軍でのお噂はかねがね。快活で、誰にでも分け隔てなく気さくだと聞いています」
今の状況でこの言葉はただの皮肉だ。そうでなければ、ほめ言葉として受け取れたのに。
エリックは突きつけた銃口はそのままに、男を観察した。
先ほどの口ぶりからしても、空軍の人間ではない。軍服の胸元にあるはずの紋章は外されていて、所属は分からないが。
体格はがっしりとしていて、背丈は自分よりも大きい。靴のすり減り方は……陸軍と考えてよさそうだ。
やはり、体術をけしかけるのは得策ではない。逃走されるリスクもあるものの、出来る限り時間を稼ぎ、人数が揃ったところで一斉に取り囲んだ方が良い。
確実にこの男をとらえる方法は、それ以外浮かばなかった。
「なぜ、軍を裏切る」
「魔女を守るなんて、バカバカしいからですよ」
さらりと答えた男は、当然だ、と肩をすくめた。
「中尉ともあろうお方が、そんなことにもお気づきになられないとは」
男の瞳は濁り切っていて、その闇はどこまでも深かった。
「魔女が、我々に何をしてくれたというのです? 我々人間は、魔女のせいで生まれた時から自由を奪われているんですよ。閉鎖的で、息苦しいと思いませんか」
最後の言葉には、エリックも同意をせざるを得ないものの、自由を奪ったのは、魔女ではなく王族だ、と男をねめつける。
「俺は、この国の息苦しさを、魔女のせいだと思ったことなどない」
エリックははっきりと言い放ち、相手の心臓を狙う銃を再び両手で握りしめる。いつでも、引き金を引く準備は出来ている。
どうなったとて――自らの処罰が、どれほど恐ろしいものであろうとも――望まない未来に用はない。
エリックが引き金を引こうとしたその時、轟音と暴風が彼の意識を途切れさせた。
「時間切れです」
滑走路へ向かってどんどん降下していく小型機は、速度を落とすこともせず、今にもエリックにぶつからんとする勢いで着陸態勢に入る。
エリックは慌てて滑走路から周囲の芝生へと転がり込み……やがて、手品のように鮮やかに空へと消えていく男を見つめた。音がしてから、数瞬の出来事だった。
男を回収して高度を上げていく機体は、空軍のそれ。
まさか、同じ組織の中にもいたとは――
いつまでも滑走路へと姿を見せない部下たちは、一体何をしているのだろうか。あまりにも遅すぎる。
エリックは、せめて自分だけでもと機体に向けて銃を放つ。
だが、すでに月へ向かって飛びだっているその飛行機に、銃弾が当たることはなかった。




