7-12 最後の一冊
教会へと訪れる人の数が増え、ユノの魔法はますます好評となって、すっかりロンドでも『とびら屋』の名が広まった。
新聞社が新聞配達と共に無料で配った本についても、後日返金があったり、新聞社への寄付という形で金が振り込まれたりと、嬉しい誤算もあった。
小さな教会も、今ではすっかりセントベリー大聖堂よりも訪れる人が多い。
マークはそこで、夢見心地にトーマスと本を売りさばいていった。
作者であることをひた隠しにしてはいるものの、やはり本を買って行ってくれる人々の顔ににやけが止まらない。
何より、教会の小さな一室で、ユノの魔法に感動し、喜び、満足げに帰っていく人々の顔に、マークの顔はますます緩んだ。
眉も目じりも、頬でさえ、ゆるゆると下がっているのだから、誰がどう見てもとろけている、という表現になる。
もちろん、そんなマークを責めることは誰も出来ない。むしろ、マークのことを知っている人からすれば、彼と同じくらい幸せだと思う。
トーマスが、先ほどからその幸せを噛みしめつつも冷静なのは、この後……何分か、何十分後かに訪れる最高の瞬間に備えているからだ。
教会のあちらこちらに山積みにされていた本は、その山をすでに崩して丘となり、そろそろ平地にならされてきている。
すでに夢うつつなマークは気づいているか分からないが、トーマスはひそかにその瞬間を待ちわびていた。
教会の開け放たれた扉から、うっすらと差し込む光。
ラジオの天気予報では、今日は曇りのち晴れと、珍しく雲の隙間から太陽がのぞく天気だと言っていた。
やがて、そんな光の中から、子供が現れてそっと教会を覗き込む。
美しい瞳をしていた。
深く、顔を覆うようにかぶったローブの影でも、隠し切れないほどにまばゆく輝く瞳だ。
「ねぇ」
カナリアのさえずりのような声も、ピンクがかったオレンジ色の柔らかなその毛束も、希望に満ちて輝いている。
子供の後を追いかけて、慌てたように駆け込んできた女性は子供を見つけると、そっと抱き寄せた。小さな声で「離れないで」とささやく。
トーマスとマークは、瞬時にその子供が魔女であることを理解し、母親らしき女性を見つめる。
女性はここまでの地獄のような道のりで、すっかりくたびれていたが、目の前の男二人が穏やかな笑みを浮かべたことで安堵したようにゆっくりと息を吐いた。
魔女の子供を連れてここまで。どこから来たのかは分からないが、それはもう恐ろしい道中だっただろう。
子供は、意にも介さず、再び母親の手をすり抜けてトーマスとマークの方へと駆け寄る。魔女は普段、外に出ることすら許されていない。初めての世界に、興奮しない方がおかしいのだから仕方がない。
母親の顔が反射的に青ざめる――が、トーマスが「大丈夫ですよ」と先手を打った。
「教会は皆を受け入れます」
人も、魔女も。
女性にとって、その言葉がどれほど嬉しいものだったか。
ポロポロと涙をこぼすと、先ほどまでは本に興味津々だった子供も母親の異変に気が付いて「おかあさん? どこか痛いの?」と母親の足に抱き着いた。
「いいえ。違うの……嬉しいのよ」
母親は、子供の頭にかぶせていたローブをそっと取り払う。シェリーカラーの、こっくりとした穏やかな春色の髪がふわりと揺れた。
瞳と揃いのそれが、少女の存在を際立たせる。
「お外でとっちゃダメって言ってたのに、いいの?」
「えぇ……ここでは、いいのよ。ここでは、あなたはあなたでいられるの」
母親はゆっくりと少女を抱きしめて、柔らかな髪を撫でる。
生まれてきただけで、罪に問われてしまうその命を、慈しむように。
「本は、まだ……?」
ひとしきり涙をこぼした後、母親はようやく少女を抱きしめる手をほどいて、トーマスとマークを見つめる。
二人は互いに顔を見合わせた。
なんという偶然なのだろう。
最後の一冊――まるで、その本は、この少女を待ちわびていた、とでもいうように。
母親の手から離れ、少女はまるで本に呼ばれたかのようにそっとスカイブルーへと歩み寄る。小さな、まだ赤子のふくよかさが残る手で、少女はその表紙に触れた。
キラキラと輝くピンクゴールドの瞳が、スカイブルーを、シルバーの文字を、そして、真珠色の宝石を写しとる。
「おかあさん、これ欲しい」
少女の口から零れ落ちた心の底からのわがままが、母親を笑顔にさせる。
「えぇ。もちろんよ。大切に……大切に読みましょうね」
母親は、多すぎるほどの代金を支払って、全て献金扱いになると聞きました、と微笑んだ。
ちょうど、ユノの魔法を楽しんだ人々がぞろぞろと一室から出てきて、少女は思わず母親の後ろに隠れた。
魔女の本能とでもいうのか、本能的な動作だったが、人々は皆可愛らしい少女の姿に微笑みを浮かべただけだった。
人と、魔女が手を取り合う世界を。
そんな瞬間が、当たり前のように通り過ぎる。
マークは、その光景に息をのんだ。
最後の一冊が魔女の手に渡り、教会の中でとはいえ、魔女に人が微笑みかけた。まるで、物語のような奇跡が次々と起こるのだから、もしかしてこれは長い夢かもしれない、と思う。
少女が遠慮がちに手を振って、大切そうに本を抱きしめる。
母親が再びローブをかぶせてやれば、少女は一度だけマークの方を振り返った。
「宝物にするね! お兄ちゃん!」
花が咲き誇るような笑みだった。
記憶の中の幼い妹が、ふっとマークの脳裏によぎって、思わず涙があふれそうになる。
妹の瞳は、少女のものよりも濃い、スコッチのような、いや……美しい太陽のようなアンバーの色合いだったはずなのに。
少女の背中が見えなくなるまで大きく手を振り続けたマークに、トーマスもそっと笑みを浮かべる。
最後の一冊が売り切れたら、素直にマークと喜びあおうと思っていたのに、すっかりあの少女に取られてしまった。
何も知らぬユノが、部屋の扉をパタンと閉めて、マークとトーマスを交互に見やる。それから、視線をさまよわせて
「本、売り切れたんですね!?」
と声を上げた。
魔女に全ておいしいところを持っていかれてしまったな、とトーマスはますます苦笑する。
マークはユノとワイワイと喜び、トーマスにもその無邪気な笑みを向けた。
成人男性のそれとは思えないほどにふわふわとした笑みが、見ているものの心まで温かくさせる。
「トーマスさん! 本当にありがとうございます!」
ガバリと音がしそうなほどに腰を深く折って下げられた頭の癖毛が揺れる。ぴょこんと跳ねたそれがまた、彼の持つ人の好さを表しているような気さえする。
「感謝されるようなことは、何も。私はただ、場所を提供したにすぎません。すべては、ユノさんたち魔女のみなさんのお力と、何より、マークさんの本が素晴らしいからですよ」
トーマスの言葉に、再びガバリと音がしそうなほどに勢いよく顔を上げたマークが
「いえ! この場所がなければ、僕の本はこんなにも多くの人に届きませんでした」
とフォレストグリーンの瞳を輝かせた。
マークの瞳は、ジュエルアイではないものの、ロンドでもかなり珍しい瞳の色。命の芽吹きを知らせる、爽やかで、あたたかな色合いは、まさに新しい時代を切り開く人物に相応しい。
トーマスは、その瞳にまぶしくて目を細めてしまう。
何か少しでも、役に立てたのなら良かった。
素直にそう思えば、少しばかり肩の荷がおりて心が軽くなる。
意識はしていなかったが、やはり司法裁判官とのことが頭をかすめなかったわけではないし、緊張はしていたのだろう。
本の発売から十日。
新聞社でも最後の一冊がなくなったその日、社長はついに彼の名前を新聞の見出し一面に大きく書き記した。
『ロンドの不況に春風――マーク・テイラーの奇跡』
それはある意味、司法への挑戦状でもあった。
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございます!
本の販売を行っていた第七章もこれでおしまいです。
次回からは、いよいよラストに向かう第八章。マーク達の行く末をどうかあたたかく見守っていただけましたら幸いです*




