7-10 貴重な関係性
だんだんと日の時間が長くなってきた、と感じたその日。
教会の片づけを終えて、後は戸締りをするだけとなったトーマスに声がかかる。
「トーマスさん」
聞き覚えのある若い男性の声に振り返れば、そこには全身から噴き出した汗をぬぐうエリックが立っていた。
マークの本の内容が評判を呼び、ユノやジュリの魔法がさらに輪をかけて本の売れ行きを好調にしていただけに、彼の――軍人であるエリックの慌てようには、トーマスも思わず顔をしかめた。
良いニュースを持ってきたわけではない。それだけは確かだった。
「ジュリさんは、どちらに」
「今日は、大聖堂か……そうでなければ、大聖堂の隣にある塔にでもいらっしゃるかと」
「塔……」
言われてエリックは、背後にそびえたつ真白の塔を見つめる。
「何かあったのですか」
司法裁判官が動き出したか……それとも、あえてジュリを指名するということは、ジェイムズの過去について、何か進展があったか。
トーマスの推測は当たり、エリックは「ジェイムズ最高裁判官のことが分かりました」と苦々しく告げた。
- --- - ・・・・ ・ ・-- ・・ - -・-・ ・・・・
一分どころか一秒も惜しいと表情に出すエリックを、魔女協会へ案内するのは容易かった。
「私は後から追いかけますので」
まさか、こんなことで使うことになるとは思わなかった、とトーマスは教壇の下に広がる穴を見つめる。
エリックは半信半疑でごくりとつばを飲み込んだが、さすがは軍人とだけあって、覚悟を決めるのは早かった。
「魔女協会の書庫に着くはずです。誰かがいれば、トーマスに許可を得ていると言ってください」
トーマスが言い終わるや否や、エリックはその穴の中へ滑り落ちていく。
トーマスも、教会の戸締りを急いで終わらせて、大聖堂の方へと足を進める。
ジュリが魔女協会にいないとなれば、エリックを教会から送りこんだ意味もなくなってしまう。トーマスは魔女協会ではなく、塔の階段を駆け上がった。
普段、走るようなことも、激しい運動をするようなこともない。だが、有事の際には動けるように、と鍛えていた甲斐があった。軍人ほどではないにしろ、人並みには動ける。
出来る限り静かに歩くように。そう聖職者になったばかりのころに仕込まれた足音も、今は関係なかった。トントンと螺旋階段を蹴りつける音が、塔いっぱいに反響する。
開けた視界に、夕暮れと同じ赤色が揺れる。
ジュリだ。
息を切らしながら彼女の名を呼べば、ジュリは驚いたように振り返って、深紅の瞳にトーマスを映した。
「どうしたの? 珍しいわね」
驚きは一瞬のうちに、いつもの妖艶な笑みへ。夕日の光が彼女の背から差し込んで、真っ赤な髪のフチが黄金にきらめく。
もしも、これが彼女と初めて出会った瞬間だったとしたら、きっと恋に落ちていたであろう。
トーマスは息を整えて、端的に告げる。
「エリックさんがお越しですよ。ジェイムズ最高裁判官のことが分かった、と急いでおられました」
トーマスの背中側には、深い夜が迫ってきている。黒い修道服がその闇に溶け、彼の存在を曖昧にぼかした。
ジュリは、そんなトーマスに、あっけなくいなくなってしまった『彼』を重ねる。
『彼』もまた、トーマスが今、夜空の濃紺に姿を隠しているように、イングレスの国の片隅で姿を隠した。それが、世界の理だったとでもいうように。
一瞬のためらいの内に、トーマスは体をひるがえして階段を降りていく。ジュリはそんなトーマスの後を追った。
二人分の足音が、ジュリの思考の邪魔をしない程度に空気を震わせた。
もう、いなくなってしまった『彼』のことは、吹っ切れたつもりでいた。マークに物語として書いてもらったし、その結末にときめきもした。
マークの本がある限り、何度でもジュリは彼と恋が出来る。
それなのに、どうしてそんなタイミングになって、あの忌々しい裁判官と、『彼』の接点が見つかるのか。
幸せになってはいけないと、まるで誰かに言われているみたいだ。
それに――
エリックから見せられた写真。諜報部隊として、出来る限り顔を見せないように、とエリックは言ったが、それならば初めから写真などに写らない方がいいのだ。それでも、彼は顔を背けながらも写真には写った。いや、顔をそむけたのではなく……もしかしたら、『彼』を見つめていたところを、写真に撮られたのかもしれない。
「ねぇ」
螺旋階段を下りる音が反響する。背中に投げかけられたジュリの声は、その隙間を縫ってトーマスに届く。
「そのままでいいから、聖職者として、聞いてほしいのだけど」
ジュリのリクエストに応え、トーマスは足を止めずに、後ろから聞こえる声だけを待つ。すぐに話が始まるのかと思っていたが、ジュリにしては珍しく少しばかり言いよどんだ。
聞いてほしい、と言われてから数十段は螺旋階段を下りたところで、ようやくジュリの声が再び響く。
「ジェイムズと彼は、友人だったのかしら」
額面通りに受け取れば、答えはイエスだろう。エリックがそう言っていたのだし、一緒に写真に写るほどの仲であることは間違いない。
もちろん、友人などという生易しい関係ではなく、たただの同僚だったかもしれないし、背を預けあう仲間だったかもしれない。しかし、写真の雰囲気から読み取るに、友人と形容しても差支えはなさそうだった。
もっとも、ジェイムズが敵ともいえる司法の組織に転職したのも事実。裏切りとも呼べる行為だと考えれば、ジェイムズにとっては端から友人ではなかったとも推測は出来るが。
「少なくとも、あなたの婚約者の方はそう思っていたでしょうね」
聖職者として答えるならば、この程度だろう。ジュリを傷つけず、質問の意図に正しく答える、という意味では。
「そう、よね」
ジュリはトーマスの言葉に小さく相槌を打った。不服、とは言わないが、納得はしていない、という様子の反応。そこから、彼女なりの答えを持っているのだろう、とトーマスは察する。ならばそれを導くだけだ。
「一方が、友人だと思っていても、もう一方が同じようにとらえているとは限りません」
ジュリは、トーマスが自分と同じ考えにたどり着き、そう答えたわけではないだろう、と思う。けれど、彼がその意見を受け入れようとしてくれている姿勢に、少しばかり安堵した。
突拍子のないことを言っても、トーマスなら聞き入れてくれる。アリーやメイやシエテ、そして他の魔女と同じくらい、この男は信用が出来た。
昔から、メイとアリーと共に過ごしてきただけのことはある。
だからこそ、貴重な関係性を壊すまいと恋に発展することもなかったわけだが。
「あの男が彼に対して、友情ではなく……愛情を抱いていたと思うのは、おかしいかしら」
ジュリがポツリとこぼせば、トーマスは一瞬動きを止めた。
同性愛は、イングレスでは認められていない。
だが、国が認めていないからと言って、それを本当にないことにすることには出来ないだろう。魔女のように。
トーマスは、少しの逡巡の後、再び階段を踏みしめるように降りていく。
「愛情、ですか」
なるほど、と独り言のようにつぶやかれた相槌が微かにジュリの耳にも聞こえる。
以前、ブッシュへ潜入した際、確かにあの男にそっちの気があるのか、とジュリは思ったことがある。
ジュリだと見抜いて言葉を投げかけたのか、それとも、見慣れぬ新人司法裁判官の青年に対して投げかけたのか、今では分からないが。
「そのあたりは、エリックさんの話を聞けばわかるかもしれません。……ですが、ジュリ、あなたは覚悟をしておいた方が良いかもしれませんね。知らない方が良いことも、この世にはある」
滔々と諭すように言って、トーマスは最後の一段を下り、ゆっくりとジュリの方へと振り返った。
かつて、愛する魔女から「もう長くはない」と聞かされたトーマスだからこそ、その言葉には説得力があった。ジュリはそれでも、足を止めることは出来なかった。
ただ、支えてくれる人がいるのなら、その優しさには甘えたい。
差し出された手を借りずとも、階段を下りることは出来るけれど――
ジュリはそっと手を重ねて、最後の一段をゆっくりと踏みしめる。




