7-9 本を希望に
マークとユノ、そして社長は女性を前に背筋を正した。彼女の一挙手一投足を、息を飲むように見つめる。
王女様付の枢密顧問官。
その女性の姿を、三人はただまじまじと見つめる以外には出来なかった。
洗練された服飾品、無駄のない所作、静粛ながら親しみやすさが同居した雰囲気。
アンバーの髪色と、瞳を覆い隠す色眼鏡がなければ……まさに完璧を体現している。
彼女は、アリーとは別次元の異質さを醸し出していた。とはいえ、相手は枢密顧問官。髪色のことや色眼鏡のことなど当然聞けるはずもなく、顔を隠すために違いない、とマークはなんとか自分を納得させる。
「突然、押しかけるような真似をして申し訳ありません」
枢密顧問官は、深く頭を下げたのち、ピンと背筋を伸ばして三人を平等に見比べる。
「職務上、名乗ることが出来ない非礼をお許しください」
名乗りよりも、身なりを……とは言うまい。色眼鏡越しのまっすぐな瞳には、申し訳なさと枢密顧問官としての誇りが見え隠れしていた。なんとも器用な芸当だ。
枢密顧問官は、出された紅茶には手を付けず、単刀直入に切り出した。
「あなたが、マーク・テイラーさんですね」
作者が本名を使っているとは限らない。だというのに、女性はまるでマークを知っているとでもいうかのように、マークだけを見据える。
「は、はい。ぼ、僕が、マーク・テイラーです」
いきなり指名された緊張と不安で声が裏返ってしまいそうになる。明らかに挙動不審なその態度は、嘘をついている、と思われてもおかしくはなさそうだ。
だが、枢密顧問官は顔色一つ変えずに、「ご評判はかねがね」と相槌を打っただけ。マーク本人に興味があるわけではないらしい。もし万が一のことがあった場合に、この本を書いたものがどんな人物なのかを確かめただけ、というようだった。
何かを確かめるようなまなざしで頭の先からつま先まで見られたような気がするが、マークの脳内はほとんど真っ白になっている。
「王女様が、テイラー様の書かれた本を、ぜひ読んでみたいとおっしゃっております。もし、テイラー様がよろしければ、一冊、我々にお譲りいただけませんでしょうか」
一冊どころか何冊でも、と社長が前のめりになるのを抑え込んで、「もちろんです」とマークもうなずく。
だが、不安要素は消えない。いくら王女が、今の国王と違って優秀であり――道徳心にあふれているからといって、王族は王族。
少なくとも、祖父である前国王が制定した魔女裁判の法律や、現国王の言論統制など、どちらの制裁対象にもなり得る本だ。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
マークが恐る恐る枢密顧問官の方へ視線を投げかけると、枢密顧問官は無言で首を縦に振る。
「その……この、本の内容については、どこまでご存じなのでしょう」
枢密顧問官は表情を崩すことはなく答える。
「禁書であることは承知しております。市勢でひそかに広まっているということ。そして、魔女が出てくる物語であること」
それから、と言葉を付け足した。
「最後の物語についても」
魔女裁判で、家族を引き離されてしまったことについて、批判や言及をしたわけではない。だが、捉えようによっては、そうともとれる。
罪のない両親と妹を亡くし、どうして裁かれなければならないのか、と訴えているように感じる人だっているだろう。
もしかして、と思った時にはすでにマークの顔は青ざめていた。
やはり、王族として、魔女裁判にかけるつもりではないだろうか。魔女裁判と言論統制、そのどちらの罪で裁かれるのだろう。
自分だけで済むのだろうか。今、同席している社長や、ユノは、無事でいられるだろうか。
マークの思考を読み取るように、枢密顧問官は努めて穏やかな声色で切り出した。
「ご安心ください。王女様は、あなた方を責めるつもりは一切ございませんので。むしろ、王女様は、この国の現状を嘆いておられます。この本で、何かが変わるかもしれない、と希望さえ抱いておられるのです」
マーク達は、聞き間違えではなかろうか、と耳を疑った。
王女様が――王族が国の現状を嘆き、そして、マークが書いたこの本を希望にしているというのだから。
すでに青ざめている顔が、これ以上青くなるのかは分からないが……マークの顔は間違いなく、先ほどよりも青いだろう。
「そ、それは本当なんでしょうか」
先ほどまでとは違う疑問が、思わずマークの口をついて出る。
「疑いたくなるお気持ちも分かりますが、王女様に対して不敬とみなされますよ」
サラリと言ってのける枢密顧問官の顔はいたって真面目だ。このままでは、魔女裁判や言論統制ではなく、王族への不敬罪で裁かれることになるだろう。
彼女は、ようやくそこでティーカップに口をつけた。
「コッツウォールに行かれたんですね」
ふわりと立ち上がった湯気。そのラベンダーの香りから、どこの紅茶か分かったらしい。先日、マークとユノが買ってきたお土産の一つだ。
「出版社がコッツウォールに」
社長がようやく口を開くと、枢密顧問官は、あぁ、と理解を示して、ティーカップへと視線を戻す。
枢密顧問官は、コッツウォールに出版社があることを知っているらしかった。そして、ロンドで出版することが得策でないことも。
「王女様は驚かれるでしょうね。コッツウォールのことも、気にかけておられましたから」
枢密顧問官の独り言ともつかぬ声音に、マークたちは目を伏せる。
祖母を失った社長はもちろん、コッツウォールで起きた流行り病のことを知っているマークとユノも、あの町がいつか本当の意味で穏やかな光に照らされることを願う。
枢密顧問官は、ティーカップを音も立てずにソーサーの上へと戻す。どれほどそっと置いても、マークでは陶器の音を響かせてしまうのに、それを軽々とやってのけるあたり、王族付きとして、知識だけでなくマナーも叩き込まれている。
端々から滲む些細な言動は、彼女が本物の枢密顧問官であることを証明していた。
社長がユノに向かって目くばせし、ユノが出来る限り音を立てないようにソファから立ち上がる。
無論、音を立ててはいけないルールなどないが、あまりにも物音を立てない枢密顧問官に飲まれているのだ。
ユノは、社長室の棚に平積みされていた本を手に取ると、そっとそのスカイブルーの表紙を撫でる。
(どうか、王女様が気に入ってくださいますように)
祈るように、そう思いを込めてから、ゆっくりと枢密顧問官の方へ向き直った。
「こちらが、マークさんの書かれた本です」
体現できる限りの丁寧さで本を差し出せば、それを上回る無駄のない所作で、枢密顧問官に軽々と受け取られる。
「美しい装丁ですね」
ロンドには珍しい、明るい色の無地の表紙に、銀の箔押しで書かれたタイトル。
何より、タイトルの上に添えられた真珠のような美しい光沢のイラストが、枢密顧問官のお眼鏡にもかなったようだ。
枢密顧問官は表紙から背表紙、裏表紙へと本を一度ひっくり返して、それから中をパラパラとめくった。内容を確認しているというよりも、中に汚れや乱丁、落丁がないかを確かめているようだ。
最後のページまで紙がめくられると、本をパタンと閉じてしまう。
「ありがとうございます。支払いは後ほど、こちらの新聞社に」
流れるように言われ、そのまま彼女は本をアタッシュケースにしまいこむと立ち上がる。不思議なもので、やはりソファは音を立てなかった。
「それでは、本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。また何かあれば、こちらにお電話をさせていただきますので」
マーク達も慌てて立ち上がって頭を下げる。立ったままのユノは、枢密顧問官の手を煩わせないように、と社長室の扉を開けた。
「お忙しいでしょうから、見送りは結構です。すぐ外に車を止めていますし、玄関の開け方も分かりますので」
枢密顧問官はようやくそこでニコリと笑みを浮かべて、マーク達に頭を下げた。
マーク達も「ありがとうございました」と精一杯の気持ちを込めて、頭を下げる。
頭を上げた瞬間、色眼鏡越しの瞳が一瞬、きらめいて見えたのは気のせいか――
ふわりとどこからか風が吹き、マーク達の頬を撫でて通りすぎていく。
ぼんやりと彼女を見送るマークとユノの二人とは対照的に、社長は、必ず玄関扉を修理しよう、と決意するのだった。




