154日目(4)
154日目(4)
地上からおよそ十二、三メートル。
――津衣菜にとっては、『前回』の半分以下の高さ。
地面は巻き寄せられる感じじゃなく、ぶわあっと、せり上がる様に二人へと迫り。
そして。
『ごんっ』とか『がんっ』とかいう、人間が落ちて来たとは思い難い音を響かせる。
梨乃は均された土の上で、少しだけバウンドし動きを止めた。
視界の先に、衝撃で引き離された津衣菜が、別の方向へ転がって行くのが見える。
丸まった体勢のまましばらくぴくりとも動かず、硬直しているみたいだった梨乃。
突然、彼女は上半身だけを起こした。
「ククク……クカカカッ」
掠れた金属的な笑い声を、僅かに開いた口から洩らす。
「一瞬ビビったけどよ、あそこから落ちて何ともねえ……これが死体か」
梨乃は数回ぎこちなく膝を曲げ伸ばしした後、地面を踏み締めてよろよろと立ち上がる。
周囲を見回すと、そこは倉庫の裏手にあるアスファルトも張られていない更地だった。
倉庫の向こうからは今やはっきりとサイレンやエンジンの音、足音と怒声が響き渡っていた。
だが、更地の向こう側からは、波音しか聞こえてこない。
二十メートルばかり先には、船影もない朝焼けの海岸線が広がっていた。
「おまけに、どこも折れてねえのかよ……全く便利じゃねえか、クククッ!」
梨乃の視線は、数メートル先で倒れたまま動かずにいる津衣菜で止まった。
「おい、てめえ生きてんのか? いやまあ、死んでるけどよ」
ゆっくりと足を踏み出し、津衣菜に声をかけながら近付く。
さっきの梨乃と同じ様に身体を丸め、ややうつ伏せになった津衣菜。
梨乃は彼女を爪先で蹴り、仰向けに転がした。
「ぶっ!?」
津衣菜を見下ろす梨乃の口から、噴き出し笑いが漏れた。
「ぷ……ぶひゃひゃひゃっ! そう来るか!? これじゃあ、もう追って来れねえよな」
嘲笑いながら尋ねる梨乃に、津衣菜は答えない。
彼女の首のギプスは首の後ろと喉の二か所で粉々に割れていた。
彼女の顔はぐにゃりと伸びた首の先で、あり得ない方向を向いていた。
その表情も開いたままの目も、外部の刺激に何の反応も見せない。
瞳孔の光は虚ろで、目の前を全く見ていない様だった。
「おい、本格的に死んだのか、違うのか……どっちでもいいけどよ」
もう一度梨乃が津衣菜を蹴ると、捻れた首のまま、うつ伏せの姿勢に戻った。
倉庫の方から『がしゃんっ』という鋭い音が二度続けて響いた。
バイクが車に接触したか追突されたかして転倒した音だと、梨乃には分かる。
どちらの――凶蘭会なのかラビリンスなのか、警察の白バイなのかすらも、分からなかったが。
「じゃあな……お前はムカつくけど、それなりに面白かったよ」
梨乃は津衣菜から後ずさって離れる。
二歩ばかり下がった所で、もう一度彼女へ尋ねた。
「もしかしてよ、お前と結構仲良くやってたんじゃねえのか、『私の知らない私』は」
首を反らして倉庫の角へ目を向ける。
車の姿は見えないが、無数の赤い回転灯の光は建物の陰から射すのが見えていた。
県警の間抜けどもは倉庫正面側だけを囲んで、全てを押さえたつもりでいるらしかった。
倉庫裏手では、だだっ広い更地にパトカーの一台も警察官の一人も姿が見えない。
梨乃は自分に残された勝機にほくそ笑む。
「私は……行かなくちゃなんねえんだよ……行ける所まで、最後の一瞬まで」
津衣菜に背を向けると、梨乃はよろよろと倉庫の向こうへと歩き出す。
百メートルばかり先に、更地の手前で途切れている敷地駐車場のフェンスがあった。
梨乃はその先を目指している。
フェンス外に待機している車を奪って、もうひと暴れしてやるつもりだった。
更地を一人歩く梨乃は、ふと耳を澄ませ虚空に視線を向ける。
波の音に混じって、それとも別の音が海岸の空気に満ち、震わせている。
日の出と共に鳴き始めたらしい、蝉達の大合唱だった。
その養育施設では、到底解決しないだろう過重労働と、上司のパワハラで、指導員達は超ストレスの塊となっていた。
そして、その上司である主任は、サディストでペドフィリアのド変態野郎だった。
このクソみたいな国でも、意外とレアな位のフルコース。
これで、私達がどんな生活を送る事になるのか、誰にでも分かるだろう。
とぼとぼと無言で歩く梨乃の意識を、ドス黒い染みの様な言葉と記憶が横切る。
台所、物陰から覗く血の海。
何度も父親に突き立てられる包丁。
血まみれで薄く笑う母親。
加害者の子供、殺人犯の子供。
無表情な大人に手を引かれ、あちこち移動させられて辿り着いた。
小さな病院みたいな建物。
『犠牲者』は、殆どシフト制だったよ。
毎週火曜日にはハゲの職員にタコ殴りにされ、木曜日にはデブのババアに熱湯か油を掛けられ。
月曜日、水曜日、そして日曜日には、『主任』が――
私は、主任の『手伝い』をしていた。
あいつが目を付けた子供とバレずに二人っきりになれる様に。
その子供が抵抗出来なくなる様に。
あいつがやることしやすい環境を整えてやったりして――
仲間を売り渡して、自分の回数を減らしてもらってたのさ。
――つっても、『週に一回』を『十二日に一回』にしてもらった程度だけどな。
勿論、施設の他のガキにばれて、奴らから袋叩きにされた事だってあったさ。
まだ、私より体の大きくて力の強い、年長者はいっぱいいたからな。
だけど、やがてそんな事も無くなって行った。
――誰一人、私には逆らえなくなって行った。
ガキだけじゃねえ。
13歳の時には、指導員の殆どが。
15歳になる少し前、遂に、『あいつ』が。
私の言いなりになった。
恰幅と外面ばかりが良い、施設の外でも中でも、顔だけは穏和な笑顔を絶やさない『あいつ』
最初に会った時は、まだ四十前だった。
発作的な暴力と支配欲に取りつかれ、コントロール出来ない衝動で引き攣った怒り顔。
情欲にだらしなく歪んだ顔も、覚えている。
年月が流れ、50に近付いたその顔が、怯え媚びた、忠犬の顔になって行くのも。
私と凶蘭会は恐怖も与えたけど、あいつにふさわしい、ご褒美を兼ねた仕事だって与えてやった。
私にとって邪魔な奴、気に入らない奴らの中には、小さい妹や娘を持っている奴もいたからな。
そう言えば、私の死後、あいつはすぐに捕まって拘置所内で死んだらしい。
本当は、ずっと前から、私は『彼』に憧れていた。
勿論、カッコイイと思っていた訳でもなければ、彼の何かを尊敬していた訳でもない。
私はただ、『彼の様になりたかった』
彼の立っている場所に、自分も立ちたい――そういう『憧れ』だった。
暴力と権力で他の多くの人間の優位に立ち、力をひけらかす事で彼らを支配し、搾取し、凌辱し、自分のあさましい欲求をいつまでも満たし続ける。
私は、自分自身がそういう絶対的な搾取者に――最悪最低の蛆虫になりたかった。
それこそが、この世界に生まれ落ちて、唯一幸せになれる、笑顔を持てる立場なのだ。
私は『それ』になりたいと、毎日毎日、強く一心に願い――
その夢を叶えた。
「私はこの世界で、自分の願いを叶えた。私は……生きたい様に生きる事が出来たんだよ、分かるか」
目の前に誰かがいるかの様に、小声で梨乃は尋ねる。
波と蝉の声だけが、彼女に答えた。
潮の香りも、地面からの熱気も感じない。
だけど彼女の鼻は、嗅ぎ慣れた油と血の匂いをずっと探している。
それを見つけようと、左手でせわしなくポケットを漁り、使い慣れたスパナとナイフを軽く順番に握った。
「せっかく『やり直せる』のなら、もう一度生きられるのなら……同じ事をするに決まってんだろ」
『――――本当にそう?』
「何だって?」
『言葉で組み立てられた世界に、強く絶望した――』
『あなたは本当はあの時、願ったんじゃなくて、本当の願いを見失った』
『だから、あなたは最初に言葉を捨てた』
『自分の言葉で、零から世界を組み立て直す為に』
「何だよ……何を言ってやがるんだ……つうか、誰だよテメエ!?」
梨乃は歩きながらぶつぶつと小声で凄む。
自分にしか聞こえない声だとは分かっていた。
しかし、明らかに自分の感情や考えとは異質な『その声』は、不躾に梨乃の思考に絡んで来たのだ。
誰何しながら耳を澄ますが、声はそれ以上聞こえる事はなかった。
耳の中を満たすのは、更に大きくなってきたアブラゼミの声ばかり。
まるで、蝉の声がそう聞こえていた様な気さえして来る。
「――ぐっ!?」
突然、梨乃は肩を震わせて立ち止まる。
顔を伏せ、目を見開いて歯を食いしばる。
「っだよ……何で頭が痛えんだ……吐きそうだ」
乾いた瞳孔は、ぎこちなく左右を往復し、自分に起きている理不尽の正体を探している。
その視線が、前方から近付いて来る人影を捉えた時、梨乃の震えは止まった。
「そうかよ……てめえのせいか……てめえが近くに来てっから、変な事が連発したんだな」
呟きながら、食いしばった歯の隙間に笑みを浮かべる。
梨乃の前方、数十メートルの所で真っすぐ、その煌びやかなシルエットがこちらへと向かって来る。
見覚えのある真紅の特攻服。
背中まで真っすぐに伸びた金髪。
切りそろえた前髪の下で大きくくっきりと開いた双眸。
「探したよ……あたし、やっぱり無理だったよ。あんたをやり過ごすなんて」
十メートル前まで来ていたミサキへ、梨乃は顔を上げて吠える。
「そうなんだろう? 全部てめえのせいだろ? ミサキぃ……!」
「ケリ付けようぜ、梨乃」
「――――上等!」
ほぼ同時に二人は、踏み出していた。
ミサキも完全な素手ではなく、左手に短めの木刀が握られている。
梨乃はポケットから出した左手にナイフを握り、右手の折れた手首はいつの間にか、スパナが括りつけられていた。
「今度は――」
「今度も――」
「ぶっ殺してやるよ!」
津衣菜の目に写っていたのは教室だった。
規則正しく並んだ背中の列に、不自然に空いた空間。
身体が動かず声が出ない。
まるで、彼女の『0日目』の時みたいに。
津衣菜は這いつくばったまま、声も無く、虚空に浮かぶその教室を見つめている。
そこは、『忍のいなくなった教室』だった。
忍が初めてだった訳じゃない。
今までだって、何人も消えて行った。
転校して。
頭が壊れてどこかに送られて。
今回はたまたま、とうとう、あの子がそうなったってだけだ。
それが自分じゃなかった事に安堵すれば良い。
私に出来るのはそれだけなんだから。
今までも、これからも。
「あ……あああああっ……あ……ああ」
口を開くが、言葉にならない呻き声が漏れるだけ。
ついちゃん、すこしくちべただからね。
でも大丈夫、しーさんがついてる。
いつから仲良くしていたのか、自分でもはっきりと覚えていない。
多分、小学3年の時のクラス替えで一緒になってからだったとは思う。
あの頃、周りから浮いて孤立しそうになった時、助けてくれたのは忍だった。
中学校も一緒だった。
小学でも中学でも忍は、どちらかと言えば人気者で友達も多く、津衣菜はそんな忍に助けてもらう事の方が多かった。
人と仲良くなる事は得意だったが、人と争う事は苦手だった。
一度トラブルに巻き込まれると、とことん付け込まれそうな彼女を、津衣菜が助ける事が増える。
これで、以前のお返しが出来る。
今度は自分がこの子を助けるんだ。
津衣菜はどこか誇らしげに、そんな事を思っていた。
高校に進学して、西高のリーダー格のグループと彼女の折り合いが悪くなった時も。
一人二人と周りから離れて行く彼女は、かつての自分の様だった。
「忍、安心して。私は、きちんとあなたの味方でいるから。心細い時には相談して」
「ついちゃん……しーさん超感激です! ありがとね!」
「しのぶ………ご……ごめ……んなさ……い……ごめんなさい……置いて行かないで……いなく……ならないで」
津衣菜は折れた首の先で虚ろな目を横に向けたままで、痙攣する両手を宙へと伸ばす。
口から紡がれる言葉もどこか空虚で、それ故に救えない程に切実だった。
「かなしいよ……悲しくて、しょうがないのに……なけ……ないよ……どうして……どうしてかな」
津衣菜の胴体が、腕を軸にガタガタと揺れ、それに合わせて首と頭が引きずられる。
振動によって津衣菜の視界が空へ向いた。
光のない目を瞼だけ大きく開いて、まだ仄暗い空を凝視する。
「いやだ……やだよう……ごめん……ゆる……して、許してください……どうか……もういちど……もういちど……もどって………わたしにまもらせて」
いつの間にか伸ばされた腕は、重力に屈して地面に投げ出されていた。
しかし、目だけは光なく空を見たまま、津衣菜はぶつぶつ呟き続けている。
「やっぱ、かなわなかったか……」
開始数分で、完全に勝負はついていた。
フロートと普通の生きた人間では、使える力の限界が違い過ぎた。
そして、フロートとの戦い方を知っている訳でもないミサキは、人間の生者にしては十分、梨乃を相手に善戦した方だった。
殆どノーダメージの梨乃の足元に、血まみれのミサキが膝をついてへたり込んでいる。
まだ倒れていないのは、彼女の意地だった。
だが、それももうすぐ限界を迎えようとしていた。
「勝てねえと思ったのに向かって来たのか、私はそう言うの嫌いなんだけどよ」
まず横顔を蹴り飛ばしてから、梨乃はそうコメントした。
顔を蹴られても倒れず、ミサキは梨乃を見上げながら答える。
「でも、逃げられねえんだよ……あたしだけは……あんたにだけは……それは分かるだろ?」
「私だって、テメエを逃がす気なんてなかったし」
「だろうねえ」
そんな傷と状況の下でも、ミサキはくくくと声を立てて苦笑する。
「今度は、あたしの番か――本当はさ、ずっとこんな日が来る気がしてたんだ」
ミサキは自分の膝の前に転がる、折れた木刀を見つめ、次にそれを握っていた自分の折れた左手を見つめる。
「ここまで壊されりゃ、二度と握れそうにないな……でも、あたしがあんたにした事はそれでも足りない位だろ」
「はあ? いちいち敵相手にんな事考えてるのか、お前」
「当たり前だろ……大体の子はそうだよ」
ミサキは溜息混じりに答えると、もう一度梨乃を見上げて言った。
「あんたは殺してでも止めるべきだった。許してくれとは言わねえよ、でも……悪かったな」
「終わりだ」
言い終えて顔を伏せたミサキへ、梨乃はナイフをかざす。
「これで刺して終わりとか思うなよ。手足の腱を切って、海へ放り込む――私と同じ死に方させてやる。同じ生き返り方するかは知らねえ」
「いかにもあんたらしいね……」
梨乃の視線がミサキの左腕に止まり、ナイフが揺らめいた。
その時、刃先が宙で急に止まる。
切りつける前の溜めには見えない、動きの死ぬ様な止まり方だった。
「……梨乃、どうした?」
「………だから……誰なんだよ……テメエは!」
ミサキの声に梨乃は答えず、彼女を凝視していた。
正確には、梨乃とミサキの間にある空間を凝視している。
梨乃の目の前、ミサキが膝をついているその手前に、一人の少女が立っていた。
色素の薄いぼさぼさのショートヘアーに、少し眠そうな目。
頑丈そうなつなぎを着た彼女は、その格好も顔も、身長も年も、梨乃と全く同じものだった。
それでいて、何かが決定的に、梨乃自身ではなかった。
彼女は、いつもはぼんやりしているその瞳を、しっかりと梨乃に向けている。
そして特に大事な話をする時の習慣で、単語をゆっくり区切って、梨乃へと語りかけた。
私は『なしの』
私はそれ、生まれたフロートのそれは後の先崎梨乃の死。
私は持つ一部分を、それはあなたとして。
あなたは私の足跡、あなたは私の一部。
それの時のここに来たそれはあなたの帰る私へ。
戻る、して、梨乃
―――『なしの』の中に。




