154日目(1)
154日目(1)
警察対策で二三台ずつの小グループに分散し、エンジン音も出来るだけ低く抑えていた凶蘭会本隊は、目的地の倉庫が近付くにつれて、次第に再合流で数を増やして行った。
しかし、およそ四分の一のバイクがそのまま戻って来なかった事を、先頭切って走る会長車――黒いキャデラック・クーペデビルの中にいる梨乃は知る由がない。
かなりの者達が気付いていた。
これ以上、梨乃と凶蘭会について行っても、かつての様な旨味はないという事に。
いつまで経っても再開されない、薬の密売や架空請求などの裏ビジネス。
最近報道されてもいる『動く死体』を使っての新ビジネスとやらは、用意した倉庫を次々とラビリンスに潰されて、頓挫しつつある。
去年、ラビリンスが凶蘭会に立ち向かった時よりも、明らかに反凶蘭会の勢力は強大なものになっている。
信登連合に直接対面した彼らは、肌でそれを感じていた。
そして、何よりも、この状況の中で梨乃が正気じゃ無さ過ぎた。
先岸梨乃は狂っている。そんな事は前から言われていた。
だが、かつての彼女は、同時に天才的なリーダーでもあったのだ。
彼女自身が『動く死体』となって甦って来たとも噂されている今の梨乃は、かつての様に強くてイカれていて怖かった。
だが――それだけだった。
倉庫の壊滅の報を聞いても、残してきた系列チームの現状を伝えても、訳の分からない事を喚き散らして暴れるばかり。
かろうじて、分散と再合流を指示する程度の理性は残っているみたいだが、頭の回る者は皆思っていた。
こいつはもうダメだ、そろそろ見切り時だと。
そんな内部からの離脱を、梨乃の方では全然気にする様子がなかった。
最後の倉庫で待っているだろうラビリンスやそっちについた奴らを潰すのに、残った手勢だけでも十分だと思っていたし、それに加えて、近隣の系列チームにも召集をかけていた。
戦力外の雑魚チームばかりだが、頭数にはなる。
彼女達が到着した時、倉庫はどのエリアの搬入口も静まり返っていた。
外の騒ぎを聞いても誰も出て来る気配すらない。
勿論、予想していた敵の姿も全く見られなかった。
静かな建物を一瞥して、梨乃は倉庫の管理センターへ電話を掛ける。
電話に出た初老の男らしき声へ、鷹揚に尋ねた。
「オーキッドだ。これからこっちの荷物、検品と搬出してえんだけどよ。入って大丈夫か?」
「大丈夫ですが、その、表のバイクは」
「こっちと関係ねえよ。で、入れるんだな? 先に入ってる奴とかいるか?」
「いいえ、今日オーキッドさんの入館は……まだ誰も」
電話の向こうの声、間合いとイントネーションの微かな変化を聞き逃さなかった。
次の瞬間、梨乃は無線のマイクを取って、各車両に指令を出す。
「……左舷先頭……搬入口1-2に突っ込め。中にいた奴は誰だろうとぶっ殺して、裏からこっち側の全シャッターを開けろ。そして、総員で突っ込むんだ」
バイク数台が、左端の一つだけシャッターが開いていた搬入口に、騒音を撒き散らしながら吸い込まれて行く。
直後、爆音は倉庫内で幾重にも反響し、閉ざされていたシャッターの裏で左から右へと広がった。
爆音の中、ガラガラという鎖と滑車の音が微かに複数聞こえ、搬入口シャッターが『3-4』『5-6』と順番に上がり始める。
「行くぞ!」
『5-6』が背丈程の高さまで上がった時、梨乃は叫び、先頭を切って自分のアメ車を倉庫内へ突っ込ませていた。
他のバイクや改造車も、彼女に続いて数台ずつの班で搬入口へと押し寄せる。
「うわっ!?」
先行の一班に続いて搬入口をくぐったバイクが、次々と急ブレーキを掛ける。
倉庫の奥から、大量の何かが乱雑な軌跡を描いて、バイクへと迫って来る。
荷物を上まで積んだかご台車だった。それが二十台以上、横一列になって、荷捌き場から先へのバイクの侵入を阻んでいる。
「んっだ、てめえらあ!?」
「あ、こいつら!」
「冷凍してたゾンビじゃねえか!」
台車は、一人一台ずつ、今までに各倉庫から解放されたフロートが押して来ていた。
梨乃を始めとする十数人の集団と、残り何十人かは、ここでかご台車の列に分断されてしまう。
「クッソこの……どけ! どけってんだよ!」
バイクから次々と降りた特攻服姿の少年達や少女達が、近くの台車へガンガン音を立てて蹴りを入れるが、台車を押さえているフロート達はびくともしなかった。
フロート達の背後で、先行していたバイクの一部は引き返し、彼らを襲おうとしていた。
その時、倉庫の左右から新たなバイクの音が響き、その音は台車の列に沿って、内側の凶蘭会へと迫る。
こちらも改造バイクに特攻服の少女達の一団。
だが、刺繍されたチーム名が、向こうと違っていた。
「ラビリンスだ!」
台車の向こう側、倉庫搬入口の外でも異変が起きていた。
駐車場ゲートから次々と入って来るバイクと車。しかし、それらは梨乃達が呼んだ系列チームでも、遅れて来た残りの本隊でもなかった。
特攻服の刺繍やステッカーにあるチーム名は、いずれも、ラビリンスについて反凶蘭会の名乗りを上げた所ばかり。
彼らは、倉庫前で立ち往生している凶蘭会を扇状に包囲してから、一斉に飛びかかった。
「上等だこの野郎!」
倉庫内の仕分け場でも、バイクを降りたレディース同士の乱闘が始まっていた。
ちょうど10対10。
更に加わろうとした梨乃や他の兵隊達の前に、新たなかご台車が立ち塞がる。
「っぜえんだよ、このクソが」
「調子こいてってと、燃やすぞ」
台車を押さえてるフロートに罵声を飛ばしながら、凶蘭会のレディース達は台車を迂回し、机や制御盤の上に飛び乗る。
更にその上のベルトコンベアに上がって、彼女達は台車とフロート達の後ろに回ろうとする。
だが、その時ベルトコンベアは動き始めた。彼女達の進行方向とは反対側へ。
ベルトコンベアの流れる先にも、ぱらぱらと特攻服の少女達が集まって来る。
「上等だ! この――」
「やめろ、また離されるぞ! そういう作戦だ!」
ラビリンスの姿に激高しバイクや車を離れ、ベルトコンベアに乗ろうとしていた者が、仲間から制止される。
しかし、肝心の梨乃が仲間の制止を受けず暴走し始めていた。
運転席や助手席にいた幹部達は、既にベルトコンベアの向こうで乱闘中。
車を動かしているのは、梨乃本人だった。
キャデラック・クーペデビルは車体の凹みも傷も恐れず、周囲の台車や棚を吹き飛ばしながら、段差に乗り上げ、荷分け場内をジグザグに走り回る。
フロート達のかご台車も、彼女の車の体当たりからは、慌てて台車を放置して逃げる。
「出て来いよクソラビリンス! 相手してやるよミサキ!」
倉庫の奥、冷蔵エリアとの境目付近から、数台のバイクの少女達が梨乃に視線を向けている。
梨乃は薄笑いを向けながらハンドルを切り、彼女達を轢こうとでもするかの様にアクセルを踏み込んだ。
車の前方に影が差す。
両横から、二台の巨大なスチールラックがフロントへ倒れて来ているのだと梨乃が気付いた時、バイクにも劣らぬけたたましいベルと共に、背後の防火シャッターが閉鎖されていた。
ギリギリでシャッターをくぐり抜けて、凶蘭会の兵隊も2~3人滑り込んで来る。
梨乃の背後だけでなく、その隣も、区画の奥でも、防火シャッターが降りて行く。
長いフロントが棚の下敷きになり、そのまま動かなくなった車から梨乃が降りた時、その区画の照明が一斉に落ちた。
「――――!?」
彼女達のいるスペースは完全に真っ暗となり、僅かに非常灯や非常口の緑灯だけが端にぼんやり浮かんでいるだけだった。
ここの奥にある冷蔵エリアも同時に消灯されたらしいのが、仕切り壁の向こうの様子で分かった。
「ひひっ……ひへへ……ひゃはははははっ!」
他の兵隊達が四方を見回して狼狽するのが分かったが、梨乃は自分達の追いこまれ方を知り、とてもおかしそうに笑い声を上げた。
「真っ暗な中でやろうってか。上等だよ! そこまでビビってたんか? そんなに私を見るのが怖かったのかよ!」
「そうだ。あたしは怖いんだよ」
心の中でそう呟きながら、次の瞬間には特攻服のレディース二人を宙に飛ばしていた。
ミサキは搬入口付近での乱闘に加わり、衝突ポイントの仲間達を手短な指示で指揮する。
数分後に、梨乃の呼んだ凶蘭会系列チームがゲート前に現れたが、それをラビリンス側が敷地外の道路で迎え撃ち、彼らは駐車場にさえ入れない。
この倉庫へ踏み入った凶蘭会本隊は、何層にも渡って分断され、最終的に先岸梨乃は一人で倉庫奥を徘徊する事になる。そういう作戦だった。
そして、一人にされた梨乃の相手は、彼女と同じ『動く死体』、第二種変異体が引き受け、その処遇も彼女達が判断する事になる。
ミサキは自分では、梨乃の相手をするつもりも、一度たりと顔を合わせるつもりもなかった。
自分だけではなく、自分の仲間達にも梨乃の相手はさせない。
そして、自分の知っているフロート達にも、たとえ敵であろうと、これ以上は凶蘭会の少年少女達と戦わせないつもりだった。
生者の相手は生者がする、その判断の理由は、死者への恐怖だ。
ミサキは前日の偵察で、津衣菜だけでなく、千尋にも遥にも恐怖していた。
ハマダを殴打する津衣菜以上に、千尋の回し蹴りの方にその『危うさ』を感じていたとさえ言えた。
「あんたらは、やっぱり……もう人間じゃないんだ。痛みに、そして死ぬことへの怖さが一緒じゃないから……そういうものに、あまりにも鈍感過ぎるんだよ……だから、一番大事な所で手加減が出来ない」
そして、ミサキは思い出す。
一年前の夏の日を。
山中の大きな沼とその手前にあるドライブイン。
集団乱闘と、一時間近い山中のカーチェイスの果てに、一人となった梨乃をそこまで追い詰めた。
バイクを降りて、夜中で無人となったその店内に、梨乃を探すミサキ。
突如、その横合いから飛びかかって来た梨乃。
組み合ったまま窓から落ち、沼岸の斜面を転がって行く二人。
片腕を折られながらも、相手をふらふらになるまで殴り通し、斜面にしがみついて下を見るミサキ。
斜面のへりで岩に片手でぶら下がっている梨乃。
ミサキが彼女を助けようとした時、梨乃はその手をナイフで刺そうとした。
更にそのままミサキの喉に喰らいつき、折れた方の腕と足を掴んで、自分もろとも引きずり落とそうとする。
とっさの判断でナイフを足で払い、ミサキは梨乃の顔面を横へ蹴り飛ばした。
しまったと思う暇もなく、梨乃の身体は黒い水面へ落ちて行った。
「ぶっ殺してやる」
虚空に浮いた梨乃が薄笑いのまま、最後に残した言葉だった。
あとはただ、無数の蝉がずっと鳴いていた。
そして――ミサキには、先岸梨乃と言う人間が怖かった。
自分だって褒められた人生送って来ていないという自覚はあった。
普通の子よりも、暴力や悪事で多くの事を解決して来たのかも知れない。
そんな自分だから、凄い評判悪くてとても怖がられて、皆から嫌われているあいつとも、いつかは分かり合える。
今は敵同士でも、似た者同士だと。そう思っていた。
だけど分かり合えなかった。
何故そこまで分かり合えなかったのか、そこまで憎み合わなければならなかったのか、根底の所で理解出来ない。
そこが怖かった。
そんな梨乃がフロートになって帰って来た事も、もう一度彼女と戦わなければならない事も怖かった。
だから、彼女と死後を共にする死者達がいると聞いて、真っ先に考えたのだ。
彼らに丸投げしてしまおうと。
「ラビリンスのミサキ……!」
「あれが、北陸伝説の……」
「やはり最強――」
バイクに乗っているのも、降りて駆け込んで来るのも、慣れた作業の様に殴り飛ばして行くミサキを、仲間も――敵の凶蘭会構成員でさえも、感嘆と憧れの目で見上げている。
囁かれる彼女への賛辞を耳にし、ミサキは内心舌打ちしたくなった。
そこから抜け出せるのは、凄く強い人間か、凄く恵まれた人間だけなんだよ。
「何が最強なんだよ……何が、伝説のレディースだよ……あたしはいつだって他人を当てにして、逃げ回っているだけじゃねえか」
今度のことだって、梨乃の復活に怯えてフロートにその始末を投げ、今度はそのフロートに怯える。
怯えて逃げた結果、仲間に余計な負担やリスクを押し付け、そのせいで捕まった子だって少なくない。
これのどこが、反凶蘭会の象徴、『最強のレディース、北陸の伝説』なんだ。
「あたしは強くないよ、津衣菜」
声に出さず、ミサキは津衣菜へ向かって呼びかけていた。
「あんたと同じなんだ。いつも何かにビビって、腰引けて、恥晒して、きっとそれに終わりなんかなくて――――それでも、生きてんだ」
「――ミサキさんっ!」
ミサキは自分を呼ぶ声に現実へ引き戻された。
髪の短い特攻服の少女が、目の前で屈んで報告を始めた。
「さらっといたハマダ、逃がしちまいました! 見張ってた子も大きな怪我はしてませんが、ハマダぁ他の奴と一緒に、こっちに向かってるみたいっす!」
「私にないつもりの言うは、復讐にない意味の事」
「分かってるよ」
遥は銃を片付けながら、肩をすくめて梨乃に返事する。
「なしのんっ」
「なの姉、お疲れ様です」
白く小さな影が二つ、闇の中に浮かびあがると梨乃へ向かって駆け寄る。
「なしのん、乗せろー」
梨乃の足に飛びついてねだるもみじに、彼女は屈むとそのまま肩車してやる。
二人と一緒に集まって来ていた子供達も、騒ぎの最中遠巻きに見守っていた大人しめの子供達のグループも、屋根伝いに降りて来て梨乃に近付く。
「やっぱりね、伝わるもんだよ。誰が一番、あの子達を大事に思ってんだかは」
津衣菜達にフロートの一人が声をかける。
見ると50近い位の年配の女性だった。
「花紀ちゃんも優しいけど、あの子の思いやりはまた違っててねえ……」
「分かりますっ。なしのんは一番愛情ある子だもん」
花紀が何故か自分の事の様に嬉しそうに答える。
「気は優しくて力持ちって奴か……」
そんな事を呟いた津衣菜にも、勢い良く首をぶんぶん振る。
「あのさ、梨乃が――」
「ん?」
遥と花紀は同時に振り返った。
津衣菜は言葉を途中で切ったまま、黙りこんでしまう。
「なしのんがどうしたの?」
「ホテルでの話?」
「そうなんだけど……まあ、向こうでも感謝されてたなって。評判も良かったし」
「……そっか」
遥は微笑んで頷くと、他の者との会話に戻る。
「そこはあるの多くのものは素敵は夏」
子供の手を引いて歩く梨乃がそんな事を言っていた。
その子は、夏には嫌な思い出しかないと途切れそうな声で語っていた。
夏には痛みと醜い物、汚い物しかないと。
『暑いとストレスがぱねえんだわ』その子の両親がいつもそう言って、特に酷い事をする季節だったから。
「うー……たとえ……ば?」
「たとえば……ひぐらし、あぶらぜみ……くませみ、朝のせみ……夕方の」
「蝉……ばっかりだね」
「うん……」
子供に指摘され、否定するでもなく淡々と頷く梨乃だった。
何か突っ込んだ方がいいんだろうかと津衣菜が思うまでもなく、梨乃は少し強い口調で言った。
「でも、出来るは見つけるはそれはこれから」
「私達は……もう死んじゃっているのに?」
「私達は、ただだけは変えたチャンネルをこの世界、それはチャンスの子達はうまく行かなかったこれまで、それを生き直すここ」
「それは……なしのんも?」
「え……わたし……は」
津衣菜がそれを覚えていたのは、珍しく梨乃が答えに詰まった瞬間だからだったと思う。
闇の中で津衣菜は目を凝らす。
人気のない通路は奥の非常口まで光源もなく、静まり返っている。
彼女と花紀のいる待機地点が、ちょうど『オーキッド・エンパワメント』契約の冷凍室の前だった。
たった今、梨乃が他の兵隊と完全に引き離されて一人になったと連絡が入った。
そして、恐らく冷蔵エリア内を、この通路の入口へ向かっていると。
冷蔵エリア内で津衣菜と花紀、鏡子と千尋が二人一組で、照明の落ちた区画内を探索する事になっている。
この振り分けを考えたのは、曽根木だった。
花紀と鏡子が頭脳系、津衣菜と千尋が行動系というのが彼の認識であり、鏡子が主張する『鏡子と花紀』のペアはバランスが悪いと即答していた。
「そして、梨乃さんは、頭脳と行動が揃っている珍しい程のオールマイティーだった……言っちゃ悪いが君らでは、両方揃わないと対抗出来ない」
もう一班、曽根木が単独行動なのを見ると、彼自身もそうだと自負しているのではないかと津衣菜は少し思った。
「ついにゃー」
歩き出した津衣菜の後ろで、急に花紀が呼び止める。
「不安そう」
津衣菜は振り返らなかった――急には振り返れなかったが、花紀は続けて言う。
「そりゃそうだよ……私達は、梨乃を押さえてどうするつもりなんだ? まだ全然決まってないんでしょう」
津衣菜は倉庫スペースへの扉を開ける。
広くなった分、足元や進行方向に気を付けなければならない。
梨乃は左奥の常温エリア入口からこの冷蔵エリアへ、既に入り込んでいる可能性が高いらしい。
彼女の正確な所在は、もう表にいたラビリンスのレディース達でも分からなくなっている様だった。
「私達がなしのんに何をしたいか、なしのんにどうしてほしいかだよ。花紀おねーさんはね、まず、なしのんに伝えたい事がいっぱいあるから」
「伝えたい……だけなの?」
「それも何度も聞いた。だけど……私には何がある? 私が何でここまで来たのか、本当は、自分でも分からないんだ」
「簡単だよ、ついにゃ―だって、なしのんに会いたいと思ってたからだよ」
「――津衣菜さんはいい人。みんな本当はいてほしいでいる」
絞り出す様な、どこか力んだ声。
この場所で、一番最初に津衣菜に『いてほしい』と言ったのは、彼女ではなかったか。
津衣菜もたった今思い出した記憶だったが。
「そうなのかな……?」
一人でどこかに行っていた津衣菜を待っていてくれたり、ふいに話しかけたり、一生懸命励まそうとしたりする。
怒っているらしい雪子をなだめている。
花紀や日香里に付き合って、彼女達のしたい事を支えている。
気を使って片隅で膝を抱えて静かにしている。
何かあった時、気がつくと傍にいる。
存在が、いつの間にか、空気の様に自然だった少女。
彼女自身が、どこから来てどこに行きたがっているのか、誰も知らない。
誰一人、彼女から大事な事は何も聞いていなかったんだ。
「ついにゃー!」
花紀の切迫した声。
津衣菜はワンテンポ遅れつつも、横あいからの気配に気付いて左手の木製バットを反射的に振る。
手応えはなかったが、耳元に甲高い哄笑が響いた。
空気を切る音。
目の前の歪んだ笑顔が、見知った顔のものとはすぐには受け入れられなかったが、そんな事を考えるよりも先に身体は動く。
相手の武器は見えないが、多分刃物だ。
右手のギブスで受け、手元へ向かってバットを突き出すが、肘を蹴られたらしくその先がずれる。
津衣菜も低い位置から相手の膝を狙って蹴りを出す。
「誰だよてめえ! どこのもんだよ、見た事ねえ顔だな!」
笑いながら後ろに下がった梨乃は、津衣菜へ一言そう尋ねた。




