153日目(1)
153日目(1)
深い森を彷徨う彼女に、時間の感覚は全くなかった。
頭上高く、枝葉の隙間で白い光と黒い闇が交互に瞬き続けた。
多分濡れていた筈の服と全身は、かなり前に乾いていた――かもしれない。
分からなかった、どれくらいここにいるのか、そして、いつまでここにいるのかが。
以前の記憶はあった。
知識も思考も、感情もそこに残っていた。
それを整理し、統合する、言葉だけがなかった。
語られず、独白されないそれらは、彼女の中で濁った水と泡の様に渦巻いて、高く空へと登って行く。
時折、断片が言葉を持って意識を横切る。
私は死んだ。
水は肺を埋め、四肢は動きを止めた。
世界は暗転し、静寂に沈み――そして、異様な形で戻って来ていた。
じーじーじーーーじぃいいいいいいいい、いいいいいいいいい
じじじじじじ じち ちちち ちちち じじじじっじじじ
みぃいいいいいいいいいいいいみぃいいいいいいいいいいいい
殺してやる。あのくそ女、役立たずども、ブチ殺してやる。
ここを出て………ここをここをここを出て出出でで出
そして、ずっとずっと****に響いているこの音は、蝉の声。
終わらないノイズと共に甦る映像。
“奴”の“あれ”を“ああ”しようと“それ”を振るった。
***と****も*****ようと*****を******た。
“これ”は――****“私”は――『先岸梨乃』は――“それ”を****されて――『腕を払われて』
******へ“こうなった”―――暗い水面――『数メートル下の沼へと転落した』
じぃぃぃいいいいいぃぃいいいいいいぃいぃぃいいいいいいい
いいいいいいいいいぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいぃぃぃ
いいいいじいいいいいいぃいぃぃいいいいいいいいぃぃぃいい
『蝉は、土の中で6年以上、長ければ17年、幼虫として生き続ける』
『長い年月の後に、地上へ出て木の上に登り、成虫に羽化する』
そんな知識が、一塊の言葉となって唐突に意識の表面を横切り、闇に沈んだ。
だから何なのか、****は蝉なのか。
その蝉が****ならば、この******うるさい『さっきからずっと』のは何だ。
光のない10数年が、自分のものである様に聞こえた。
****が死んだのか、羽化*****を始めたのか。
それすら、歩く彼女には******く――『分からなく』なっていた。
じじじじっじじじじっちちちちちちちちちちち
みみみみいみみいみみみみっみみっみみっみいいみ
胸の*****はとっくに動きを終えている。
呼吸はない。痛みも足を踏む重みも****――『ない』『感じる』『事は』。
目にはどこまでも『紅い』『森』の続く、その響くの『耳に』は****呼び声。
****は一体、何になろうとしているのか。
私は怒っている 諦めた、諦めている
笑いたい笑いたい 憎しみで心満たして、絶望に沈んで、
それでも笑っていたかった
*****は、それでも笑える方法があるならば、選んだだけだ
それが、闇の選択でも
いいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ……………
笑いたいのに笑いたいのに、
どうして*****は、こんなにないていたのか。
急に世界は切り替わる。
薄赤い空。
ノイズは遠ざかり、奇妙な静寂と流れる空気の感触。
木々は消え、知らないどこかの町に『彼女』はいた。
すぐ目の前に、笑顔で両手を広げる小柄な少女。
目の下に大きな痣のある二十半ばくらいの女が、笑みを浮かべて何かを言っている。
背の高い、首にギブスをした生意気そうな顔の女。
その他にもいる、夜闇に白く浮かぶ、幽霊の様な少女達――自分と同じ、死者の国の住人達。
「その名前、何て読むのかな? えっと……りの……?」
「―――なしの」
******は――『私』は――“なしの”は、ぼんやりとした声で質問に答えた。
夕方に、信登連合が凶蘭会に宣戦布告し、西の県境で集まっていた凶蘭系列チーム2つを同時に袋叩きにしたと、津衣菜達の冷蔵コンテナトラックにも報せが入る。
その時、ミサキと遥は別の事で打ち合わせ中だった。
3つめの倉庫の侵入経路をチェックしていた時、ミサキは『オーキッド・エンパワーメント』名義のスペースの別室で、ボディバッグのフロート達とも違う『不審な荷物』を見かけたと言うのだ。
津衣菜も千尋も、同じ倉庫へ一緒に入った筈だが、そんな事には全く気付かなかった。
「まあ、あたしは初めからあると思って探してたからね。それで、どうする?」
「別に放っといていいんじゃない? フロートには関係ない話だと思うし……いや……ちょっと待って、やっぱり考えさせて」
ミサキの振りを軽く無視しようとした遥だったが、何故か踏み止まって『その件』を保留すると告げる。
「で、お待ちかねのもんが来たよ……信登連合は6チーム合同で、そのまま県西部から長野までの大集会になる筈だ。あんたらの準備はいいかい?」
そう言ってミサキはニッと笑う。
「私らはOKだけど、この先も予定通りに行くだろうかね」
「の筈さ。信登連合がこれだけの喧嘩売って来て、それを無視するなんて凶蘭会でも絶対に出来ない。何もしなければ、自動的に負け扱いだからね」
「それで、配置はやっぱりさっきの新バージョンかい?」
遥の問いにミサキは頷き、普通にパソコンで打った名簿と、手書きのカラフルだけど雑な図面の束をひらひらと振った。
今朝になって、ミサキは倉庫内で暴れる時の手順を少し変えたいと言い出し、駆け足で変更版を作って来たのだ。
その中身は、元々の予定より生者の――ミサキの仲間や後輩のレディースの参加人数が、倍近く増やされていた。
そして突入の先陣も、倉庫内での凶蘭会メンバーの撃退も、全部彼女達だけでやる。
フロート達は、敵には一切手を出さず、冷凍された自分の同胞の救出だけをやっていればいい形となっている。
「私らは随分楽になったけど、本当にこれでいいのかい? ぶっちゃけ、あんたらばかり負担背負ってる」
「いや……これでいいのさ。あたしが、こうしたいんだ……つうか……」
ミサキは何かを言いかけて、言い淀む。遥から目をそらし、その視線を泳がせていた。
そんな彼女をじっと見たまま、少し苦笑を浮かべて遥が、ミサキの言葉を補完してやる。
「生者の事は生者で、フロートの事はフロートでって事だね」
「まあ……そうだ」
そう答えて頷いたミサキの態度は、何故か、気まずさや後ろめたさの見えるものだった。
遂に待ちかねていた第二報が入ったのは、数時間後の午後11時前だった。
宇柄津市やその近辺に拠点のある凶蘭会系列4チーム、そして、それらを率いる『凶蘭会総本隊』の合計5チームが改造車とバイクの大集団となって、宇柄津市を出て長野県方面へ向かったと言う。
総本隊の中央には、ミサキ達には見覚えのある黒塗りのキャデラックが鎮座していて、開け放った後部の窓から梨乃の横顔も確認出来たらしい。
「お掃除の時間だ、行くぞてめえらあっ!」
コンテナの外でそんな気勢を上げているのは、トラックを運転していたミサキの友人だった。
今はハマダとも似ている紫の特攻服を着て、『佐州女連LABYLINTH 副会長』と背中に刺繍が見えている。
周囲からおおおっというかなり大きな応えを受けると、特攻服のままトラックの運転席に乗り込んでエンジンを吹かす。
トラックの周りには、数十台もの改造バイクとそれに跨った特攻服姿のレディース達。
バイクの方はエンジン音も鳴らさず、ヘッドライトを数回点滅させただけだった。
だが、その中のおよそ十数台だけが、トラックが動き始めた時一斉にエンジンコールを鳴らし始める。
それだけでも、コンテナ内はバイクの爆音が反響し、それ以外の音が殆ど聞こえなくなってしまった。
「う……うるせええっ……!」
たまりかねた声で鏡子が顔を歪めて、耳を押さえる。
花紀や千尋も辛そうに耳を押さえている。それ以外のフロートも、そこまできつくないと言うだけで、快適には感じていない様子だった。
トラックとそれらのバイクだけが移動を開始し、他のバイクは、動かないまま彼女達を見送るだけだった。
爆音と共にバイクの一団はトラックも追い越して、その百メートル前を先行し始める。
幾分、コンテナ内の音は大人しくなったが、それでもかなり響いて聞こえる。
フロート達にとっては、最初に予想していたよりもかなり騒々しい作戦になりそうだった。
だが――それ故に、移動時間自体はかなり短くもなっていた。
「あと3分もなく一軒目到着だ、スタンバっとけよ」
スピーカーから運転手の声が聞こえる。昨日までよりも幾分、威圧的で乱暴な声だった。
実際には2分も経たず、改造バイクの集団は爆音を自重する事もなく、敷地への入場を果たした様だ。
モニターからも、慌てた動きであちこちへ徐行するトラックやフォークリフトが見えた。
建物手前でバイクから降りたレディース達は、木刀や警棒、バットを振り回したまま、通用口からそのまま固まって突っ込んで行った。
少し遅れて入ったトラックは、騒ぎと無関係の搬入車両を装ったまま待機エリアで停まる。
暗がりの中で一人ずつコンテナから降りると、あらかじめ解錠しておいたドアから倉庫内へ入り、予定通りのルートで冷凍室へ向かう。
津衣菜が天井の配管沿いに、常温エリアと冷蔵エリア境の仕切り壁まで来ると、眼下の廊下を行き交う従業員がさっきの女暴走族の突入について騒いでいた。
『オーキッド・エンパワーメント』の子が何人も狙い撃ちで暴行を受けている、それ以外の普通の従業員も何人か殴られたり突き飛ばされたりしていると話している。
やはり彼らも『オーキッド・エンパワーメント』の正体が凶蘭会だとは、暗黙のうちに了解していた様だった。
「あの状況じゃ、凶蘭会の奴だけを……っても行かないだろうねえ」
会話を聞いていた遥が、苦笑しながら呟いた。
遥の呟きを聞き、彼女の後ろにいた津衣菜は尋ねる。
「こんなに無茶な暴れ方する必要あったのか……というか、むしろするべきじゃなかったんじゃ」
「さあ……私らにあの子達と戦わせない様にしようと思ったら、こうする位しかないかもね」
「何でそこまでして、私達が奴らと戦うのを避けなくちゃいけないんだ、それも今日いきなりそんな」
「どうしてなんだろうねえ……私は、また津衣菜が何か知ってるんじゃないかと思ったけど」
「え?」
「ミサキと昨日一緒だったのは、あんたと千尋だったろ? 向こうの幹部の子、顔凄いボコボコだったけど」
「やっぱり……先輩がやり過ぎたからっすかね」
千尋が不安げな声で呟く。
「私もそうじゃないかと思ったんだけど……それにしても、あのレディースのお姉さんらも、そんなにお手柔らかな感じには見えないよね」
冷凍室で、ボディバッグを一個ずつ開けて中に眠るフロートを確認すると、彼女達は静かに一体ずつ運び出す。
遥と津衣菜が外の冷蔵エリアで、千尋と花紀に渡し、花紀が通気窓の一つから曽根木に渡し、常温エリア廊下の鏡子へとパスして行く――そんなリレー形式だった。
雪子はトラック内で留守番し、駐車場で異状があったら連絡する役目だった。
今回、想像以上にこの役目は重要だった。
『サイレン聞こえた――今多分300メートル以内』
そんなメッセージをフロート達、そして暴れているレディースの一人が受け取り、次の瞬間、彼女達は波が引く様に撤収を始めた。
フェンスの外にパトカーが見えたタイミングで、少女達のバイクは次々と倉庫敷地ゲートを飛び出し、ジグザグに走りながら逃走して行く。
パトカーも複数台で来ていたらしく、二・三台でバイクを追って、残り一台は現場検証の為か敷地に入って来た。
その騒ぎをよそに、フロート達の乗ったトラックは、何事もない様子で敷地を出ようとする。
「あ……まずった?」
不意にスピーカーからそんな声が響いた。
「どうしたん?」
遥が穏やかに尋ねると、運手席の少女はさっきとも全然違う自信なさげな声で答えて来た。
「おマワリさんの一人が、あたしガン見してた……多分会った事ある奴……あたしこの格好だし」
「うん……凄くバレたかもね、それ。つうか、何でそんなの着て来るん」
「トラックでもあたし久しぶりのラビリンスだし、カッコで気合入れなくちゃって、ミサキだって特服引っ張り出してんだからよ」
しかし、その警官が彼女を呼び止める事も、パトカーがトラックを追って来る事もなく、彼女達は一応無事に倉庫を出る事に成功した。
救出したフロートの内、一人二人は意識を取り戻したらしく、状況が呑み込めない様子で眼球を左右に動かしていた。
だが、まだ全身を動かせるほど凍結が解けてはいない様だった。
パトカーに追われたバイクの一団は、トラックからも離れ、市内のいずこかへと走り去って行った。
サイレンと爆音はかなり遠くになっても微かに聞こえてきたが。
そして、十分以上後トラックがあと数分で二つ目の倉庫へ到着すると言う時、前方の道から音もなくさっきとは別のバイク十数台が出現した。
さっき、集合場所で彼女達を見送ったバイクの中の一班だ。
彼女達はあと少しで到着と言う時、二百メートル近くトラックを引き離すと突如爆音を響かせ、先のバイク達と同様に倉庫ゲートへ突っ込んで行った。




