幕間5 それは見るのその一人がパラダイムシフト
幕間5 それは見るのその一人がパラダイムシフト
床下深く、イチカの落ちた先は真っ暗だった。
破片や埃にまみれて転がっていた彼女の前方、闇の奥の方から、誰かのうめき声が聞こえる。
若い男の声。フロートの仲間の声ではない、生きた人間の声だと分かった。
全身に何かが引っ掛かっているみたいで動けない。
だから、背後からの気配に振り向いた時にも、イチカはその方向を凝視して喉から悲鳴を上げるだけだった。
「ひっ………」
イチカの視線の先には、先岸梨乃が輪郭の浮かぶまでに近付いて来ていた。
前髪の下から覗く赤い双眸も、中性的な口元も無表情のまま、イチカを見下ろしている。
あいつは、自分の道具は黒く塗り潰しておくのが好きなんだって。
スパナもペンチも警棒も、アイスピックもカッターも。
別に黒い物が好きって訳じゃない。
そういうものを使って、暗闇の中で一方的に人を嬲るのが好きなんだ。
特にいつも持ち歩いてる、あいつの『黒蝶』って呼び名の元。
レミントンのブラックバタフライ――
梨乃は歩きながら右手をぶらぶら揺らし、その手元に何かを握っていた。
イチカの手前で足を止めると、ゆっくりとその手を彼女へ近付ける。
ぱちんっ
軽い音を立てて、イチカを廃材の中に縫い付けていた針金の一本が切断される。
梨乃の手にあるのは、黒く塗られてなどいない、普通の赤ハンドルのニッパーだった。
同じ音が聞こえる度に、イチカの上半身が自由に動く様になって来た。
数度目の音が響いた後、梨乃はイチカの全身を見てから言う。
「これがそうだと思うは全てだと引っ掛かりの物。ないのかは怪我の自身はあなたの」
「え……?」
「それはない可能が治る怪我が場合はフロート」
「え……え……?」
呆然と見返すイチカへ、梨乃は困った顔をして身振りで示す。
怪我がないのか聞いているのだと気付いて、自分の周りを見回してから答える。
「ない……みたいです」
「よかった。それはないの出来るが治る怪我、私たちはならない注意はする傷つかない様に自分」
そう言って梨乃は口元を緩めて笑った。
「あなた……言葉が……?」
梨乃は無言で頷いただけだった。イチカは梨乃から視線を外す。
自分がこんな所に落ちてしまったのは、彼女から逃げようとしてだったのを思い出してしまう。
「う……誰か……そこに、いるんですか……?」
闇の奥で再びうめき声が聞こえ、今度ははっきりと問いかけて来た。
梨乃とイチカは、同時に声の方向を見る。
「あの……足痛くて……すみません、来ていただけません……か?」
梨乃が立ち上がって声の元へとゆっくり歩き出すが、二歩ばかりで立ち止まり振り返る。
イチカは少し上半身を起こした姿勢のまま、動かず声の方向をただ見ている。
何かを言いかけた梨乃は、イチカの表情を見ると口を閉じる。
少し間を置いて、梨乃が再び口を開いてイチカへ尋ねた。
「怖いですか?」
返事の代わりにイチカの全身がびくっと震える。
「生者に会いたくない……姿を見せたくない」
そう呟く様に言ってイチカは顔を伏せ、両手で自分を抱く。
「それが怖いは事ですか見られる、あなたが他人に」
「そうだよ、怖いんだよ、死者になってたって……あんたみたいなのとは違うんだ」
「怖いそれは私よりですか」
イチカが顔を上げた。
「私が怖いですか?」
イチカは答えない。沈黙したまま梨乃を凝視していた。
梨乃は、表情を変えず、更にもう一つ質問する。
「あるですかは今までに会うことの私?」
「今まで会う……会った事があるかって? ないです……よ」
「私は思ったその筈だと。それはきっと聞く話の私」
「直接会ってなくたって、先岸さんのことなんて、皆知ってるし……」
「それは人、傷付けられた、奪われたを私に、なかったが怖れるは私」
イチカの言葉が途切れた時、梨乃は言葉を選びながら区切って話す。
出来るだけ伝わりやすくしようとしているみたいだった。
「彼らはしれない怖れるは私を、でも出さない、ただ怒り、憎み、抵抗する私に――そして最後に追い詰め、あの水底へ落した私を」
「覚えているんでしょう? ……生前の記憶を」
梨乃の言葉をかみ砕く様に聞き、内容を理解したイチカは少し表情を強張らせながら尋ねる。
「記憶がないとか別人になったとかじゃなく……あんた、やっぱり、あの先岸梨乃のまま、『凶蘭黒蝶』のままでそこにいる」
「わからない……」
「え?」
「それは私の感じる事、『先岸梨乃』はあの海で死んだのは確かに。ここにいるのはフロートの『なしの』、違うのは使う言葉も重ねる時間も、先岸梨乃のそれとも」
「え……何それ……死んで動く死者になったら、自分の今までして来た人生もリセットしたってこと……?」
咎める口調になり、イチカはそれに気付くと慌てて口を閉じる。
目の前にいるのが生前の先岸梨乃だったなら、こんな口のきき方は間違いなくアウトだと自覚していた。
もっとも、多少の口のきき方なんて意味なく、『あの先岸梨乃』などとは会話しようとする時点で十分危険だったかもしれなかったが。
「分からないのは、自分が変わったかどうか、他人の目に。それは変わるもの見える道が自分の目に。その時は目覚めた、死者として水の底から、見えたそれが新しい道、違うのは今までの人生と言葉、17年の先岸梨乃の……私は、歩くだけ、その見えた世界を」
「善人になってやり直そうというのでも、それを他人に認めてもらおうというのでもなく、自分に見える世界が変わっただけって――じゃあ、私はあんたをどう見ればいいの」
イチカは半ば呆れながら、半ば恐る恐る尋ねる。
梨乃は困った表情で、彼女を見返すだけだった。
「分かってるわよ、あんたに教えられることじゃないんでしょう……ビビる気も無くなっちゃった」
「私は多分思うはそうじゃなかったのは『先岸梨乃』は。だけど、『なしの』はそうしたいと思うは助ける彼を、そして、望まない私は怖れられるあなたに」
そこまで言うと、梨乃は今度こそ奥へ向かって歩き始めた。
彼女の背後にたどたどしい足音が響いた。梨乃が振り返ると、不安な足取りでイチカがついて来ていた。
5階の状況を知って多少備えのある梨乃と違い、全くの無防備で朽ちた床下を歩いている彼女。
梨乃が差し伸べた手を取って、イチカは小声で話し始めた。
「私ね……自分が一度死んでフロートになった時、一緒につるんでた友達に相談しに行ったんだ」
そこで一旦言葉が切れたが、梨乃は頷くでも続きを促すでもなく黙っている。
「そしたら、逃げられた……ふざけてるのかと思ったけど、本気でビビってたみたいでさ、私があいつら食う様になるって……話を聞いてもらおうと、追いかけて説得しようとしたら、今度は追い立てられた……それから、ダメなんだ、生者が」
「今行くのはそれで、大丈夫なそれですか?」
本心から心配そうに尋ねて来た梨乃に、苦笑しながらイチカは答えた。
「……私は臆病かもしれないけど、生前だって死後だって、自分がされて嫌だったことを他人にする様な奴じゃないよ」
「……先岸梨乃が、そういう人だったとしても?」
「それでもですよ。それに……梨乃は違うんでしょう?」
イチカがそう聞き返すと、梨乃は笑った。
前髪の下の目まで細めた、イチカのイメージになかった様などこか子供っぽい笑顔だった。




