109日目(2)
109日目(2)
「準備して来た?」
「……何を?」
「今日は、小川の奴やその親を何とか外に出して、発狂する所撮るつってたじゃん」
「知らねえよ。具体的に何やんだよ…………あのさ」
「何だよ」
「俺たち、何でこんな事やってんだろうな……?」
車の通らない夜道を、暗色のトレーニングウェアを来た少年が二人、連れ立って歩いている。
先日も紗枝子の家の周りにいた、彼女と同じ西高二年の男子だ。
「そりゃ、小川とかキモくて調子乗っててムカつくからじゃねえ? 西高の恥、向伏の恥だよ。猫や鶏や兎殺して回ってたキチガイ女が、学校が間違ってるとか、裁判するとか言って目立とうとしてさ」
「俺らに、そんな重い愛校心なんかあったっけ……? 但馬はどうだか知らねえけど」
「あいつ、本当に楽しそうだよな……人を追いこもうとするの。自分の後輩ながら怖いわ」
「俺さ、本当に動物殺してたの、あいつじゃないかって思うんだけど……それで、小川と揉めた時に」
「だから何だよ。俺らに関係ねえよ。小川が犯人って事で全校一致してんだから。あと、あんまそういう事俺に喋んなよ。あいつの親だけじゃなくて、あいつ自身の政治力もやべえんだからな」
「何となく、なんだよな。みんなで、あいつら許せねえってなって、盛り上がってさ……俺もお前もだし、大体の奴らもそうなんだよ」
「別にいいだろ。ちょっと夜散歩がてらに生放送やったり、荷物運んだりする程度の事だろうが」
「お前さ、全国のネットとかで、自分のやってる事そう説明出来んの?」
「……」
「誰がどう見たって、嫌がらせなんだよ。それも相当悪質な……人の家庭や精神壊せるレベルの。俺らはそれを手伝っている。その実感もなく、みんなの為だと思いながら……そしてそれは実際に、みんなの為になっているんだ」
「悩むな。そんな事いくら悩んだって、どうせ……無駄なんだからよ」
「……桜だ」
「おお。もう散ったんじゃねえのか」
「天気予報だと、こっちじゃもうしばらく咲くってよ……暗くて見づらいけど、凄い量で……綺麗だな」
彼らの通る道の両脇に、桜の木が長い列を作っていた。
花見に使われる事を防ぐためか、街灯の光は最低限の明るさとなっていた。
二人の周りを暖かい風と共に、薄桃色の花弁がごうっと吹き回る。
少年の一人は、花弁の嵐が去った後もその場に立ちすくんでいた。
先を急ごうとしたもう一人が、やや苛立った声を掛ける。
「何やってんだ、やる気出ねえのも分かるけど、今夜のノルマは片付け……」
「誰だ……そこに……桜の中にいる」
「あ? 人、いんの? こっち見てるのか?」
「…………森?」
彼の口にした名前に、もう一人も前方の桜並木へと目を向ける。
その中の一本の根元で、花弁に照らされる様に薄白く、制服姿の女子生徒が浮かんでいた。
彼らと同じ西高の制服。
厚く巻かれたマフラーに、少し季節感のずれを感じた。
だが、確か最後に見かけた時と同じ格好だった――様な気もする。
「森? 森……津衣菜……かよ? まじで?」
「ああ……お、おいっ」
森津衣菜。
去年の秋の暮れ、入院を理由に長い休みを取り、学校に来なくなったクラスメートの女子。
やがて彼女の家から、本当は失踪している事を公表された。
母子家庭で、母親は県の議員をやっているとか言うのも、その頃に聞いた。
どんな顔をしていたのかも思い出せない。
でも、その黒い羽根の様に、風になびくポニーテール。
それだけは彼の記憶に残っていた。
彼女が桜の中で踵を返した時、そのまま花弁に溶けて消えてしまいそうに見えた。
だから、彼は吸い込まれる様に彼女の姿を追っていた。
「おい? 待てよ!」
もう一人も、慌てて彼と津衣菜を追って走り出す。
道を外れ、足元も見えない勾配の上。
止む事のない桜花の風と、振り返り浮かべる、彼女の儚げな微笑み。
それだけが、彼の視界に写る全てだった。
「森だろ。今までどこで何やってたんだよ。お前の事、警察とか探してたぞ。生きてた……のか…よ」
追いながら彼が津衣菜に掛けた声は、途中で力なく途切れる。
数ヶ月見つからず、いなくなった時のままの恰好で現れた彼女。
生きているとは――この世のものだとは、思えない。
それでも、彼は彼女を追う事を止められない。
もっと深く、暗い中へと、足を踏み入れる。
「止まれ! 何やってんだ!」
後ろから追って来た友人の怒鳴る声に、彼は足を止めた。
自分の爪先の前に地面はなかった。
高さ3メートルほどの断層。
その下には粗大ゴミや廃棄物が転がり、散乱するガラス片や金属片、突き出た鉄筋。
落ちていたら無事では済まない――死ぬ確率も高い。
目の前に津衣菜の姿はなかった。
彼が思わず息を吸い込んだ時、背中に押す力を感じる。
誰かが抗えない程の力で、全体重を掛けて前へ押している。
彼はそのまま前へつんのめり、両足は虚空に揃う。
浮遊と落下を感じると同時に、彼は気を失っていた。
「くそおっ、何だってんだ……!」
友人を追って来ていたもう一人は、毒づく。
今にも断層へと落ちようとしていた彼に怒鳴って、足を止める事には成功した。
だが、次の瞬間、白いシルエットが彼の背中を覆い、共に虚空の中へと消えた。
西高の女子冬服にマフラーとギブス、覚えている。
確かに数か月前に失踪したクラスメート、森津衣菜だった。
あんなに見る者を、惹きつける女子だっただろうか。
そんな記憶はない。
あの引き込まれる様な足取り。
この世のものではない力で魅入られたのだ、連れも自分も。
津衣菜と友人の消えた断層のふちへ、彼は身を乗り出す。
その下の、暗がりを恐る恐る覗き込もうとした。
それは失敗だった。
真下の闇の中から一本の手が、彼の首を締め上げる。
そして目の前に、森津衣菜の顔があった。
彼女はこの世のものではない。それを一瞬で理解出来た。
薄く紅く光る、開きっぱなしの瞳孔。
どこまでも白く、どこか剥製の様な質感の肌。
「いやだ……た、た……すけ……」
「オイデオイデオイデ、ワタシワタシワタシノイルトコロ」
唇を開いて屍の少女が哄笑を見せた時、彼の意識は闇に沈んだ。
「ここは……?」
目を開いた彼は、身体を起こす。
足の下には鉄板の感触。
目の前から森津衣菜の姿が消え、友人の怒鳴り声で我に返り、その直後に後ろから何かが圧し掛かり――
彼の記憶は、そこで終わっている。
ゆっくり周囲を見回して、自分がさっきの断層の下、ガラスや金属の廃棄物の山の上にいる事を理解した。
数メートル先に、連れの少年が倒れていた。
意識はないが、怪我もなく、命に別状もなさそうだった。
どういう訳か、落ちて怪我する事は避けられたのだと判断する。
津衣菜をこれ以上追う気も、予定していた紗枝子の家へ行く気も、彼には残っていなかった。
どうして彼女が自分達の目の前に現れたのか、何をしようとしていたのか。
分からないし、分かりたくもなかった。
どうして、自分があんなに彼女に惹き付けられたのかも。
友人の元へ行こうとした時、背後に凄まじい寒気を感じた。
振り返ってはいけない、そう思った筈なのに、彼は振り向いてしまっていた。
「連レテ行クヨ、イコウイコウ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ」
すぐ真後ろに津衣菜は立っていて、彼を見ながらケタケタ笑い出した。
「ひいやゃああああああああっ!! あああああああ!!」
「きゃはははははは! ははははははは!」
腰を半分抜かしながらも腹の底から絶叫を上げ、彼は津衣菜から死にもの狂いで離れる。
友人を抱えながら叫びつつけ、廃棄物の山を転げ落ちて行った。
彼の背中を、津衣菜の哄笑が追い打ちかけ続けていた。
闇の中へ消えて行った、かつてのクラスメートを見送りながら、津衣菜は内心釈然としない気分のままでいた。
どうして彼らは、あんなにちょろい反応を見せたのか。
ぼんやり自分について来て、あっさり恐怖に駆られて逃げ惑ったのか。
自分が彼らにどんな心理効果を与えたのか、全く自覚が持てない。
彼女は終始、雪子に言われた通りで動いていただけだった。
廃棄物の山から、彼女もゆっくりと降りる。
紗枝子の家の近くで待機している筈の、雪子の事も気になっていた。
待ち合わせていた場所に誰もいなかった時から、但馬大翔は『敵』の存在を感じていた。
この直感を培ったのは、動物殺しの経験か。
それとも、未だ公の場で取り上げられない『第二種変異体』――生者の敵であるゾンビを狩って来た、『光陰部隊』のボウガン使いの経験からか。
どちらなのかは、彼自身にも分からなかった。
弓道部の先輩とは言え、どん臭い上級生二人組はそれ程戦力として期待していなかった。
小川紗枝子の家に近付くにつれて、『敵』の存在は濃厚になって来た。
相手はずっと自分を追って来ている。
どこかで自分を観察し続けている。
何者なのかは分からなかったし決め付けるつもりもなかったが、何となく見当はついていた。
この向伏に根を張って隠れ住んでいる、ゾンビの群れの一体だ。
たとえ一体でも、その強さと凶暴さは、身を以て知っている。
但馬は顔を歪めて指先を齧る。
彼の前歯の大半は、津衣菜にへし折られ、差し歯に替わっていた。
鞄からボウガンではなく、弓道用の弓を出して矢をつがえ、四方を警戒する。
住宅街でそんな事をやっているのを人に見られれば、彼自身が不審者と見なされるだろう。
長くは出来ない。すぐに標的を見つけ出し、勝負を付ける必要があった。
「楽勝ですよ……随分近い……!」
ゾンビだとして、何故こんな所で自分を待ち伏せているのか。
この家の生意気な上級生の女――人の趣味に口出しした罰として、罪を被ってもらった間抜け――に、ゾンビ共が何か関係あるのかもしれない。
それを捕まえて聞き出しても良いだろう。解体する前に。
そんな事を考えながら、但馬は神経をますます尖らせる。
気配だけは強く感じるのに、どこを向いても敵の姿は一向に視界に入らなかった。
道路の角、建物の陰、樹木の奥、どこにも写らない。
それだけ見回している彼が、一度も見ていない場所が一ヶ所だけあった。
それに気付いた彼が、その場所――頭上の電柱を見上げた時、雪子は彼めがけて落下していた。
顔の縫い糸を全て外し、顔いっぱいに広げた顎で。
素早く彼は頭上へ矢を放つ。
矢は雪子を掠め、彼女の顎を但馬は右腕でガードした。
右腕に喰らい付いた雪子を、但馬はくぐもった声を上げながらも一気に振り払う。
軽々と吹き飛ばされた雪子だが、次の瞬間、横一直線に跳躍する。
再び彼に飛びかかり、その肩に喰らい付こうとした。
紙一重でかわし、但馬は拳で雪子を殴りつける。
また飛ばされるも、諦める事なく但馬に向かっていく。
どの様な経緯で雪子の身体が運び出されたのか。
そもそも、いつ誰が彼女の死を確認し、どう対応したのかさえ彼女には知る由もなかった。
だが、フロートとして目覚めた彼女は、人気のない倉庫の中に転がされ、神経質そうな30前後の男――非対象と欠損を愛でる変質者の玩具となっていた。
それだけは事実だった。
「ああ、、雪子ちゃん、雪子ちゃん、君は完璧すぎた。僕はずっとこの日を待っていたんだよ。君はこれだけ歪な方がもっともっと可愛くて美しい」
彼女にとって満足出来る事、快適な事は何一つない話だった。
しかし、何にも増して我慢ならなかったのは、猫撫で声で喘ぎながら好きなだけ彼女を切り刻んだ男が不遜にも『早速、彼女に飽き始めていた事』だった。
一週間もせず、無言で彼女を始末しようとした男に、報いは下された。
「がああああああああっぎゃああああああああああ! まままって痛いぎゃあああ」
動かないと思っていた雪子に飛びかかられ、肩の肉を食いちぎられ、腕をぶらぶらさせながら逃げる男。
血にまみれながら、雪子は這いずって男を追う。
私を侮る事は許さない。
私の魅力はこんなものに負けない。
私はもっともっと綺麗になる。もっともっと可愛くなる。
お前は何を叫んでいる。どこへ逃げようとしている。
さあ、私を讃えろ。
もっと、私に憧れろ。
もっと、私に恋い焦がれろ。
私をもっともっと求めろ。
あなたの『右』も頂戴。
但馬の右肩を捉えた雪子は、顎の力を強める。
その歯はぎりぎりと彼の肉と骨に食い込んで行く。
「やめ……があ、ああああああっ……」
彼の血は彼女の歯と唇に、裂けた頬に染みて行く。
「――腹壊すよ? こんなもん食ったら」
その一言と同時に、但馬の身体は道路の端まで蹴り飛ばされていた。
雪子が顔を上げると、その視線の先に津衣菜が彼女を見下ろしている。
雪子は咎める目で、自分の口元と但馬、そして津衣菜の足を指差す。
「『私の歯まで吹き飛ばすつもりか』って? そうならない様に注意しないとね、あんた自身が」
雪子の視線を受け止めて、津衣菜は軽い調子で答えた。
「ところで、聞きたいんだけど、一体どういう手品だった訳? あんたの言った通りにしたら、あいつらが私にふらふらついて来た挙句、思い切りビビって逃げたんだけど」
津衣菜の問いに雪子は左肩をすくめ、小首を傾げて見せるだけだった。
「あれええ、森さあん、まーた来たんですかぁ?」
調子っぱずれの声が辺りに響き、津衣菜と雪子が声の元へ身体ごとずらして視線を向ける。
間違いなく、紗枝子の家の玄関から開いた音は一度もしなかった。
紗枝子は、勝手口、あるいは窓から、外へ出て来たのだ。
パジャマ姿で裸足のままの彼女は、肩をゆらゆら揺らしながら津衣菜達に笑いかけている。
その目はどこを見ているのか分からない位に、焦点が外れていた。
「私も連れて行ってくれるんですねえ、どこにぃ…………どこにどこにどこにぃ……どこにどこにどこにどこに あああああああくぁあああ嫌だ嫌だ嫌だもう嫌ああああああああ!」
笑いながら津衣菜に話しかけていた彼女は、突然豹変し目を見開いて叫び出した。
「来るなああああ嘘だ、ないないないあっちへあっちへ行け、行け行け」
叫ぶのも辞めると、ぶつぶつ呟き始めて一人で身体を揺らしながら歩き始める。
意識しているのかどうかは分からないが、先日と同じ橋の辺りへ行こうとしているらしかった。
津衣菜は雪子に視線を交わす。
雪子は無言で頷き、津衣菜も頷き返すと、ふらふら歩く紗枝子の後ろについた。
そして彼女の背後から低い声で囁きかけた。
「そうだね。迎えに来たけど、一緒に行くでしょう?」
「ああああああああああああ!」
紗枝子は目を大きく見開き、口の端から泡を飛ばして叫ぶとその場に崩折れる。
「あなた、生きたいのか死にたいのかはっきりしないから、死者に囲まれるのよ」
冷めた声で津衣菜は、紗枝子を見下ろして言った。




