106日目(1)
106日目(1)
千尋と雪子の仲違い。
その原因について、誰に聞いてもいまいち要領を得ない。
『誰に』と言っても、津衣菜が聞いたのは花紀と美也と日香里の三人だけだったが。
「残りは……察しろ」
「津衣菜さん、誰と話してるんですか?」
「ああ、津衣菜さんもとうとう、ここにおわします主を感じる様になったのですね……」
「ついにゃーは、めたげいを、おぼえた!」
二人が今の状態になったのは、どうやら一昨日かららしい。
花紀の開いた花札大会の最中に、大喧嘩を始めたというのだ。
「ちーちゃんが三連勝で、大きな役もいっぱい引いたの。でも、ゆっきーはその間、調子悪くて……」
最後になったゲームで、雪子が突然、自分の手札を床に投げ捨てた。
そして、千尋を睨みつけると、彼女の手元を指差す。
座布団の上の場札と千尋とを何度も交互に指差し、おもむろに雪子は千尋の頬を抓り上げた。
「ふえ……ほ……ひゃ……何すんだっ!」
千尋が怒声と共に、雪子の手を鋭く払った。
かなりの勢いだったのか、雪子の身体はそのまま1メートルばかり、床を転がってしまう。
「僕がいかさましたって!? バカなこと言うなっ!」
しかし、雪子はすぐに身を起こすと、片手片足で千尋に迫り、その顔や耳を引っ張ろうとする。
「このっ……いいかげんにしろ!」
ぱしぃっ。
乾いた音を響かせ、千尋は雪子の頬を張っていた。
その場にいた他の少女達は、何も言えずに見ている事しか出来なかった。
ぱしいぃぃっ。
さっきよりも大きな音が社の一間に響いた。
雪子が千尋を叩き返したのだ。
「この、分からず屋……!」
「二人ともやめよっ! 落ちつこう、ね?」
そこでようやく、花紀が二人に割って入り、その場を収めたのだという。
「で……本当にいかさましてたの? 千尋の奴」
「それも分かんない。もしそうだとして、ゆっきーがそこまで怒る様な事だったのかなあ」
「んな訳ねえよ。あいつら、その前から……十日は険悪だったね。千尋は、その頃から雪子の面倒なんて見てなかった。全部私らでやってたじゃないか」
花紀の言葉途中で口を挟んだのは、少し離れた場所で腕を組んで聞いていた鏡子だった。
「ふえ……そうだった?」
「私が出発する前じゃないか……気付かなかったな」
「自殺女はともかく、花紀はもうちっと、ちゃんとしようぜ」
社の中には当事者二人、雪子の姿も千尋の姿もない。
雪子は廃作業場の寝床に行ったらしい。
津衣菜が社を出ると、夜空は既に青みがかった色に変わっていた。
スマホで現在の気温が氷点下でないのを確認してから、津衣菜は山林の中を早足で降りて行く。
行き先の確かな足取りで進む事30分、彼女は千尋の姿を見つけた。
斜面の勾配が途切れ、木々も少しまばらな場所。
千尋は一人、眼前の樹木をサンドバッグにしてのトレーニングに没頭していた。
この季節には違和感しかない、薄い黒のトレーニングウェアとスパッツ。
拳にグローブをはめ、足元には格闘技用のブーツを履いている。
彼女の相手していた木は一本だけではない。
前、左、右とテンポよく向きを変えては、周囲の樹木をまんべんなく攻撃する。
振り返りながらの背後へのハイキック。
フロートの身体感覚でよくあんな事が出来るなと、津衣菜は感心して見ていたが、次の瞬間にバランスを崩して転倒した千尋。
表情を歪めながらすぐさま立ち上がると、千尋は蹴り損ねた木へ拳の猛ラッシュを浴びせ、ようやく動きを止める。
木々の陰から現れた津衣菜に、気まずそうな顔を向ける。
「見てたんすか」
「うん……フロート狩りの奴ら蹴散らした時も、まだ全力じゃなかったんだね」
「これでも全然足りないっすよ……僕の『全力』には」
木の根元に千尋は腰を下ろす。
津衣菜は彼女へ近付くと、その隣に座った。
「どれだけ打っても何も感じない……これ結構きついんですよ……呼吸も、切れない」
「息、吸ってたね。ハイキックの瞬間」
「意識して、腹に溜めるんですよ……僕の腹、こんな感じなんで。他のフロートよりやり易いのかもっすね」
千尋は、トレーニングウェアの裾を捲って見せた。
彼女の露わになった肋骨下から腰の上にかけての胴周りは、殆ど生身ではなくなっていた。
無数の金具と、恐らくは強力なスプリングを通している伸縮素材、プラスチックといったものに占められている。
「背骨が折れているんです……内臓も、かなり無くなっちゃいました」
「ひょっとして、事故?」
千尋は頷いた。
「ぼんやりし過ぎてました。ロードワーク中に、トラックに巻き込まれたっす」
「何かやってたのは分かってたけど……総合格闘技じゃないよね。空手?」
「はい。物心ついた時からっす。家も道場だったというのもあります」
誰よりも強く。
もっと、もっと、今よりも強く。
もっと高みへ。
空手一筋って感じでした。
いつかは親父よりも強くなって、道場も継いでやろうって気でいたんすよ。
だけど、子供の頃からずっとやってたのに、親も、周りの奴も、本当は僕に大して期待なんかしてなかったんすよね。
僕が女だったから。
『そういう視線』を見返してやろうと思ったんす。
鍛錬して、鍛錬を繰り返して、小6で僕は、連盟の全国大会に出場出来るまでになりました。
流派のジュニア部門でも、僕は上位ランクをキープし続けました。
それでも、親父たちは認めない。だけど、少しだけど、手応えを感じました。
もっと。
もう少し。
もっとだ。
今よりも、もっと、強く。
中学生になって、連盟の中学生全国大会に出場が決まり、本気で5位以内に入ろうと思ってたんす――その矢先の事故でした。
僕は声も出せず、地べたに這いつくばっていました。
『どうしてこんなで生きてるのか』、まるで分からなかったっすよ。
見えてました。腰から下が変な方向を向いて、不自然に離れていたのを。
少し前へ行けば、その下半身が動かないまま、赤やピンクのキモイものがジャージの裾からどんどんこぼれて来るんです。
もう少しへ進めば、下半身も引きずられて動きましたけどね……そのグチャグチャの内臓と一緒に。
トラックは逃げちゃいました。見ていた人もいたのかいないのか、よく分かんなかったっす。
これじゃ、もう立つ事も出来ない。
戦う事も出来ない、鍛える事も出来ない――もう、強くなれない。
その時、僕の頭にあったのはそれだけでした。
死ぬほど悲しかったのに、涙が流れなかった事ばかり、強く覚えてたっす。
僕は血と内臓をアスファルトに擦りつけながら、ひたすら逃げました。
こんな姿を誰にも見られたくなかったし、僕自身認められず、持て余していました。
いつの間にか僕は、川沿いの高い芦の中に逃げ込んでたっす。
多分僕を探しているサイレンの音を遠くに聞いて、心は閉じ籠ったままでした。
しかし、芦をかき分けて彼女を見つけ出したのは、救急隊員でも警察官でもなかった。
「……あの外見でしょ。最初、騒ぎを聞き付けたチンピラが、面白半分で見に来たんだと思ったっす」
高地と梶川と純太の三人は、倒れている千尋がフロートであるのを確認すると、言葉少なに頷き合った。
「うっし、発見」
「っす……千切れてないすか」
「いや、折れてるだけだな」
「警察が橋まで来ている。さくっと行くぞ」
彼女の上半身と下半身を三人がかりで慎重に運び、車に回収する。
車内のシートは既にビニールで覆われ、彼女を横たえられる様に倒されていた。
そして、そのスペースには先客がいた。
顔は波打つ髪に隠れ、お人形の様な純白のドレスが血まみれだ。
そして、その小柄な少女の右半分には、腕も脚も無かった。
千尋がシートに横になった時、少女が乱れた髪の下、目を開いていた事に気付く。
彼女の顔の左側で交差する、二つの無残な傷の存在にも。
その顔も血で染まっていたが、傷から出たものには見えない――ナイフで深く切りつけたような傷からは、何故か一滴も血は出ていない。
彼女のそれは、返り血にしか見えなかった。
「一日で急遽の二件か……今日は大漁っつうか、正直しんどいわ」
高地が呟きながらエルグランドを走らせる。
彼らが何者で、自分がどこへ連れて行かれるのか。
千尋には皆目分からないままだった。
目の前の少女は、無言で千尋をじっと見据えている。
千尋も、その薄く紅い双眸を無言で見返していた。
彼女と視線を重ねているうちに、何故か、心の中に再び力が湧いて来るのを感じる。
こいつ、強いぞ。
何があったか知らないけど、こんなになってもちっとも負けてない。
この目、力を、強さを、ちっとも無くしていない。
これじゃ、僕だって――――負けてられない。
「雪子とは……ここへ来た日も同じだったの」
「そうっす。もう1年半になるんすね……」
津衣菜の問いに、千尋は淡々とした声で答える。
『二人が何故仲違いしたか』以前に、そもそも『二人が何故いつも一緒にいるのか』を津衣菜は知らなかった。
「その後、背骨を金具やコルセットで補強してもらって、何とか『立たせる』事だけは出来る様になったんすよね……その頃は、背骨が先輩の首とそれ程変わりなかったんすよ。歩くのも殆どロボットみたいでした」
千尋の話は、もう少しだけ続く様だった。
「でも僕は、ある日、遥さんに頼み込んで今みたいにしてもらったんです。これで昔みたいにとは行かないけど、腰もひねれるし、キックも繰り出せる様になった。ジャンプ力や蹴りの威力だけなら、生前以上っすよ」
「よく、OK貰えたね……」
「生者の身体の補強と違って、色んな所がいい加減だ。何が起きても保証は出来ない。そう警告は受けたっす……あと、代償としてそれなりにこき使われました」
「だろうね」
「雪子の世話も、最初はその『代償』の一つだったんす」
それまで雪子は、特に欠損の激しいフロートとして、メディカル班の扱いとなっていたらしい。
千尋が世話をするという形で、戸塚山の少女達のグループへ移って来たのだ。
「じゃあ、本当は雪子の面倒を見たくなかったって事……?」
津衣菜はそう質問する。
しかし、千尋は首を横に振った。
「いえ、当然だと思ってったっす――代償がじゃなく、僕が雪子を支えるって事を。僕は僕がもう一度強くなる為に、こいつを必要としている。最初に会った時から、そう感じていたんです」
「雪子を支える事で、強くなる」
津衣菜の言葉に、今度は千尋は頷いて言った。
「そういうことっすね……雪子を守るために……いや、僕は雪子のように強くなりたいって、思ったんです」
千尋は立ち上がって、しばらく遠い目をした後、呟く様に言った。
「でも、雪子の強さは、僕のとは違う……分かってるっす。どんなにバトルに強くても、僕みたいなのは頼りなく見えちゃうんでしょうね」
「どうだろう……?」
津衣菜は勿体ぶっている訳ではなく、本当に分からなかった。
そもそも、雪子の考えている事なんて、分からなさ過ぎて疑問に思った事すらなかった。
「雪子は最近、ますます強くなった……僕なんかいらなくなるんじゃないかって思える位に。だから、あんな風に僕の事を誤解してしまう。僕はまず、雪子に間違いを認めて謝ってほしい。それまで許す気はないっす」




