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フローティア  作者: ゆらぎからす
6.光の子
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85日目(2)

 85日目(2)



「おい、いるんだろ……?」

 津衣菜は扉に向かって呼びかける。

 集会の後、二人は元の部屋へと戻され、再び床に転がされた。

 日香里の手足にも、また手錠と足錠が掛けられている。

 扉の外からの返事はない。だが、誰かがいて振り返る気配が、僅かにあった。

「日香里がさっきより苦しそうなんだ。容体が悪くなっているんだよ」

「おお、いよいよかあ」

「まあ大変だろなあ、フロートにはつきもんだ」

 重なる塩辛声と笑い。扉の向こうには二人いた。

「今度から、そいつの分も回すべかい……“収穫”」

 津衣菜は顔を歪めながら言葉を返す。

「いらないよ。私らのバッグ、持って来てくれないか……あれに、薬が入ってるんだ」

 背後から咳、そして、吐こうとしている様なえずく声。

 日香里の具合が悪いのは、嘘ではなかった。

 外からの返事はない。気配は二人分、そこに留まっている。

 あからさまに無視されているのが、津衣菜にも分かった。

「この……っ」

 声を荒げて再び呼ぼうとした時、背後から弱々しい声がした。

「あの……お願いします……苦しいんです…………どうか、私を助けて下さい……私の……兄弟たち」

「……ちょっと待ってろ……王に聞いて来る」

 扉の向こうからそんな返事があり、一人分の気配が足音と共に遠ざかって行く。

 津衣菜と日香里とでは、かなり態度が違うみたいだった。

「日香里、ナイス――――と、言って良いのかどうか……」

 再び背後で繰り返される咳を聞きながら、津衣菜は微妙な顔を浮かべた。



「何とか、ここから出ようと思うんだ」

 日香里の耳元で、津衣菜は声を潜めて囁く。

 午前中いっぱいを費やして、少しずつ身体の向きを今の状態に移して行ったのだ。

 日香里の容体はかなり治まっている。

 あの後しばらく経って、フロートの男達は彼女のバッグを手に、部屋へ入って来た。

 手を使えない彼女の口にカプセルを含ませ、コップの水まで飲ませてやるという丁重さ。

 だが、男達もその後はバッグを持って出て行ってしまった。彼女を床に転がしたまま。

 日香里の訴えに心が動いたとは言え、彼らにとって、彼女達はその程度の存在なのも変わらなかった。

 その回復も、一時的なものでしかない。

 機を見て脱出を決行する時、今の日香里で、二人一緒に行動出来るとはとても思えなかった。

 まずは自分一人が出よう。

「遥は電話で、私らの救助に向かう事を奴にちらつかせていた。だけど、分かるな? 今日明日に手勢と装備を揃えて来れる筈もないんだ……私らは何もせず、それを何日も待っている訳にはいかない」

 日香里は顔を傾けて津衣菜の目を見る。やつれたその顔には、口の端や広い額に筋状の紫斑が薄く浮かんでいた。

 その後、向伏に連絡を取り、まだ苗海のどこかに残っているだろう丸岡と合流し、再度、日香里の救出にここへ戻って来る。

 どうやって連絡するか――スマホは没収されたままだ。

 公衆電話――あの町の中で、探し回るしかないか。

 津衣菜の脳裏に、つい最近、ここからもっと近くで、公衆電話を見た記憶がよぎる。

 ガソリンスタンド。

 ここから数百メートルの所にあった、林道沿いの無人給油所。

 津衣菜の中で、脱出後の大まかなプランはまとまった。

 後は、脱出そのもののプランだ。

 扉の外に一人か二人の監視を置いただけ。奴ら自身にそれで拘束出来る程の力しかないから、それで十分だと踏んだのか。

 あまりにも、フロートの解放能力を甘く見過ぎている様な体制だった。

 それ故に、むしろ不安を強く感じた。本当に、扉の外の監視だけなのか。

 廊下の角に、窓の外に、更に待機しているんじゃないのか。

 他の建物にもいる筈のフロートや発現者達は今どうしているのか。私が逃げた時、どう動くのか。

 実際に出てみなければ、それらの答えは出ないだろう。

 教会からの脱出は、『出たとこ勝負』になりそうだった。


 そして、気がかりな事はもう一つあった。


「日香里」

 津衣菜は唐突に日香里の名を呼んだ。

「何ですか」

「正直に答えてね」

「……津衣菜さん?」

「あんた…………ここに、残りたい?」

 瞬きも忘れて、日香里は津衣菜を凝視する。

 津衣菜は視線を落とした。日香里の首の下のクロスが目に入り、彼女が今までそんなものを着けていた事に初めて気付いた。

 重要な問題だった。もしも、彼女自身が教会から出たいと思っていなければ、『救出』する事に意義はない。

 普通に考えたら、『そんな訳がない』と一蹴出来る様な疑問だった。

「……そう、見えますか?」

「そうかもしれないって風には見えるね」

「正直なんですね」

 やつれた顔に苦笑混じりの微笑みを日香里は浮かべ、至近距離でそれを目にした津衣菜は少し動揺する。

「正直ね……生前、そう言われた事は一度もなかったけどね。親にまで言われたよ。あんたは何考えてるか全然分かんないって」

 津衣菜も、苦笑を浮かべて日香里を見返す。

「ここに帰って来て、ここにいたこいつらに……私は無駄だと思うけど……神の教えとやらを説教して……無理だと思うけど……最後まで悔い改めさせようとする。それが、あんたの本当にやりたかった事じゃなかったのか」

 それが良い結果になるとは津衣菜には思えなかった。教会の連中にどの道、未来はない。日香里が残るなら、必然的に彼らと運命を共にする事になる。

 しかし、頭の悪そうなオヤジどもならともかく、日香里がそれを知らない筈がない。

 その上で日香里がそれを望んでいるなら、津衣菜に彼女を説得する言葉は残されてなかった。

「私は勿論あんたを置いて逃げるつもりじゃない。戻って来て、あんたも助け出すつもりだった……だけど、あんたがそのつもりだとしたら……」

「そうですね。彼らを見た時……使命だと思いました。彼らに神の御心を伝え、導く事が私の使命だと」

 遠くを見る様な視線で、日香里は津衣菜の問いにゆっくりと答える。

「松根教会は本来、ああいう人達の為の家でした。迷った人の道を照らす場所。そして、私はここで光となるべく生まれ、ここで起きた過ちの全てを見……最後に一人残された……私は光にもなれなかった」

 日香里の視線が地に落ちる。黙り込んだまま何度か咳き込むが、顔を上げて、不安げに覗き込む津衣菜を見返した。

「彼らを見た時、『やり直したい』と思ったんです。これはきっと、フロートの本能なんです。フロートとなった人達は皆、何かをやり直したいと思っている。やり直せる日が訪れるのを待っている……津衣菜さんもですよね」

「ここで、もう一度“光の子”をやり直す……のか?」

 日香里は微笑んだまま、少し困った色を浮かべ、津衣菜の問いに首を横に振った。

「でもですね…………私の帰りたい場所は、向伏のみんなの所なんです。私は“光の子”じゃない。私を救い出して、そう言ってくれる人達のいる場所(フローティア)なんです」


 あんたは“光の子”じゃない。あんたにとっちゃ残念な事かもしれないけど、それは救いかもしれないよ。


 『光の子』事件の後、対策部の施設に収容された日香里。

 そこでの日々は、松根教会の最期に勝るとも劣らない地獄だった。

 表向き死亡した事になっている、事実上の死者である収容フロート達には、基本的人権も尊厳も何もなかった。

 生者のフロートに対する剥き出しの嫌悪と悪意と好奇心が、政治的思惑にかき混ぜられて煮え立っている世界。

 三日目に背中にメスを入れられ、何かを貼り付けられた。それが天然痘のコロニーだったと数日後に聞かされた。

 全身の血管にアンモニアを点滴された老人のフロートが、隣の部屋で夜通し絶叫している。

 脳にプリオンを植え付けられた女性のフロートは、のたうち回って二日目に動かなくなった。カードを胸に下げた白衣の男達は彼女の有様を見ると、小躍りして歓声を上げた。

 狂牛病はこいつらにも有効だ。人間以上の結果だ。

 真っ赤に膨れ上がったフロートと、真っ黒に焦げたフロート、真っ白に爛れたフロートが担架で順々に廊下を運ばれているのを見た。耐熱実験の進捗がどうとか、その周りの白衣達は怒鳴っていた。

 その内の真っ白な一体はかなり小さく、誰の目にも子供だと分かるものだった。

 独房の様な部屋の中で、日香里は毎日祈りを捧げていた。それ以外に出来る事はない。一週間足らずで思考能力の大半を失っていた。

 ただ、自分と同じく死体から甦った者が何人もいて、自分の身に起きた事は神の祝福ではなかった。それだけをひたすらに思い知らされた。

 地獄はそれ程長くは続かなかった。

 ある日、施設のどこかから爆発音が響き、それは断続的に繰り返しながら、日香里の部屋まで近付いて来る。

 廊下を職員達が逃げまどい、スピーカーからアナウンスが響いた。

「……C2区画の塩素ボンベを破壊した。空調も操作したので、程なく地下エリア全域に充満するだろう……生者においては、可及的迅速な退避を推奨する」

 若そうな男性の声。静かな固い口調だが、使う言葉がこの施設の人間にしてはどこか奇妙だった。

 やがて静まり返った廊下に、カツカツと一人分の足音だけが響き渡った。

 一つ一つ廊下沿いのドアを開けては、通り過ぎて近付いて来る。

 やがて日香里の部屋の指紋認証キーが解除され、そこには人間の手首を持った一人の女性が立っていた。

 ショートヘアの下の整った顔立ち、その目から頬にかけて浮かぶ紫色の痣。

「迎えに来たけど……こんな所でも、ここで死にたがってる奴はいるんだね。あんたは来るかい?」

「どこへですか?」

「死から生へ浮き上がって来た、私らフロートの世界――フローティアさ」


「はるさんが、私は『光の子』じゃないと言ってくれたから、私はフロートの松根日香里として生き直す事が出来た。私も、迷う人の子なんだって所から始め直す事が出来たんです。だから、私がまだ道に迷っているのならば、向伏の仲間に照らし導いてほしいです。はるさんや花紀さんに……鏡子さんや美也さんや梨乃さん、千尋ちゃんや雪子ちゃん……津衣菜さんは……私を照らしてくれますか?」

「どう見たって私に光なんてないと思うけど。それにいいの? 神を信じてすらいない奴とか」

 津衣菜の問いに、くすっと日香里は声を立てて笑った。

 彼女の笑い声を聞くのは初めてだった気がする。

「私も今思い出したんですけど、出会いは、それ自体が神の恩寵であり思し召しなんですよ。父の……昔の口癖でした」



 椅子か棚が壁に叩きつけられ、床を転がる。そんな騒々しい音に、廊下にいた男は顔を上げる。

 男が慌てて鍵を開けた時、窓に残っていた僅かなガラスの割れる音、そして窓の木枠の砕ける音がした。

 扉を開くと、部屋の中では日香里が一人、床に転がっているだけだった。もう一人、ポニーテールの可愛げない女がいない。

「くそっ、あの体勢でどうやって……」

 男は毒づくと室内へ足を踏み入れる。扉を見張ってても窓から逃げる事など想定内だった。だからこそ、手錠と足錠で繋いだのだ。

「おおいっ、もう一人はよお、どこへ行――」

 ずかずかと日香里に近付く男も想定していなかった。その頭上の天井隅に、津衣菜が手錠足錠のままで、器用に貼り付いていたなんて事は。

 斜め頭上から男の首に飛びついた津衣菜は、そのまま押し倒す。

 頭と肩を押さえられた男は肘から先と足をバタバタと動かすが、津衣菜が奇声を上げながら、右腕の鉄筋で延髄を押さえ、左手で彼の頭を掴んで何度も床に叩きつける。

「びゃあああああああっ!!」

「やっやめろ……やめっ、この……やめろ」

「ひゃああっ」

 笑う様な声で津衣菜が彼の頭を掴み上げた時、彼の表情には怯えが走った。

 この状況で、彼女の――フロートの腕力なら、首は簡単に折られるだろう事を、彼も理解したのだ。

「想像してよぉ……首が動かない不便さを。私みたくなるのが嫌ならさあ、大人しくしてろっ」

 男の抵抗が止むと津衣菜は、ズボン横のストラップに下げられていた鍵束を日香里に取らせ、解錠させる。

 次に、男の手足に手錠と足錠を掛けさせると、立ち上がって彼から離れた。

 廊下を駆けて来る足音が複数聞こえた。時々腐った床板を踏み抜いている様だが、そんなのは意に介しない程の勢いだ。

 津衣菜は床に転がったままの日香里を見下ろす。

 彼女と目が合うと、頷いて短く告げた。

「あんたを……日香里を、必ず迎えに来る。待ってて」

 日香里が頷いたのも見ずに津衣菜は窓へと駆け、そのまま床を蹴って外へと飛び出した。



 彼女が降り立った場所は、枯れ草まみれの平地。

 十メートルばかり先が途切れて崖となり、更にその先では、空と同じく赤い海が水平線まで広がっている。

 崖には向かわず、海岸線と平行に津衣菜は林へと走った。

 すぐ目の前に突っ立っていたフロートを、彼が動くより先に首を掴んで地面へと投げつける。

 男は頭から何度もバウンドして、地面を転がって行った。倒れた彼を飛び越えて更に先へ。

 教会の玄関が視界の端に見える。そこからフロートが二人飛び出して来た。

 その内の一人は、手に見覚えのある黒い筒を持っている。

 男がショットガンのハンドグリップをスライドさせている間に、津衣菜は方向転換し、真っすぐに彼へと向かう。

 強張った顔で男は銃を構えるが、銃口は明後日の方向を向いている。たとえ散弾でも津衣菜にあたる見込みはない。

 人の味を覚えたフロートだ。人の姿をしたものを撃つ事への躊躇はないだろう。

 『人間を越えた速度で向こうから接近するもの』に対峙した経験がないのだ。

 指が引き金を引いた時、津衣菜は男のすぐ前で、銃身を掴んで捻り上げていた。

 銃口は上へ向かって火を噴き、男の手元で骨の折れる音が二三回続く。

 津衣菜は手に取った銃身をそのままフルスイングし、隣にいた男の顔面へ台尻を叩き付けていた。

 戦闘不能になった二人から離れ、建物の角から新手が出て来ないのを確認すると、再び林へ向かう。

「あ……おおお……じゃあああああ」

「ぎゅる……ぎゅるるるるる……ひゅううう」

「うぶうううぶううううう」

 津衣菜の進行方向、数メートル先の木々の間から一体ずつ、服と皮膚の区別もつかない程ドロドロに腐った末期発現者が、合計三体現れた。

「一体、どこから……」

 津衣菜が呟いた時、更に一体、教会の裏手からも現れた。

「……ああ、構わねえ。動ける奴らぁ……全部けしかけろ。モルグぁ全開放だ。病院も順繰りでこっち送れよ」

 二階から聞き覚えのある声。窓から『王』が津衣菜を見下ろし、トランシーバーでどこかへ指示を出していた。

「あん? 何だぁ――あの目?」

 『王』は通話を中断してひとりごちる。

 津衣菜はその声を聞いていなかった。

 意識に、言葉に出来ない憎悪と偏執的な執着が入り混じり、染め上げられるのを感じている。

「うぃやあああああえああああいいいいいいいああああああおおあああおおお」

 口が制御から外れた様な声。

 津衣菜は落下する様な勢いで地面を蹴って、正面の発現者達へと突進する。



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