84日目(3)
84日目(3)
「ずっと嗅ぎ回ってたみてえだけど、うちらに何か用か」
フロートの男達と、老若男女も定かじゃない発現者達は、輪になって津衣菜達を囲んでいる。
夜の町中で人間を襲おうとした時と、良く似た陣形だった。
しかし、質問を投げたまま、彼らは一向に襲って来る様子がない。
訝しむ津衣菜だったが、その理由はすぐに分かった。
「他所者のフロートなんて初めて見んぜ。女とは言え、随分と小奇麗にしてるもんだな。ジジイはわしら並みに汚ねえけどよ」
「よう、お前らどこのもんじゃ」
「……向伏市だよ」
丸岡に目配せしてから津衣菜は答える。
「向伏だと」
「ほお、あっちにフロートが大勢いるって噂、さては本当だったか」
津衣菜の答えに、彼らは顔を見合わせて頷き合う。
彼らの傍らで唸り声を上げ、涎や膿の様な体液を垂らしながら、同じ数の末期発現者が突っ立っていた。
一人のフロートが、思い出した様に発現者達を向いて言う。
「おおっと、こいつら食うなよ。お仲間だからあんまりウマくねえし、効きもねえぞ。それに……これから、色々聞き出さねえとだからな」
意外にも普通に話しかけて来た様子から、津衣菜が一瞬抱きかけた希望は、この一言でやはり幻だったと知る。
やはりこいつらは人間を食っている。
そして、私たちをこのまま捕まえ、拘束するつもりだ。こいつらに口で言う程の同胞意識はない。
尋問で得られる情報と、発現者の餌――あるいは自分達の食糧としての評価。
それ以外に、彼らが彼女達を見るポイントはなかった。
「何だ、こいつ腐り始めてんな……まあいいけどよ」
その声に津衣菜が向きを変えると、二人の男に両脇を固められ、無理矢理立たされている日香里が視界に入る。
「日香里!」
彼女の名を呼んだ津衣菜にも、複数の気配が迫っていた。
その姿を確認するよりも先に、左腕を掴まれ、強く後ろへと引っ張られる。
彼女の手を引いたのは丸岡だった。そのまま駆け出そうとした彼の前にも、三人が立ち塞がる。フロート一人に、発現者が二人。
丸岡は無言で黒い状の物を取り出すと、目の前の顔へとその先端を向けた。
「――――――!」
直後、半径二メートル程の一帯が、激しく明滅する赤と青のストロボに照らされた。
直接ライトを当てられていた彼らは、顔を押さえながらその場に立ちすくむ。
その隙を狙って丸岡が体当たりを仕掛ける。彼は転倒し、封鎖は容易く解けた。
周りのフロートも目を閉じ、二人を捕まえようとする事は出来ずにいる。
直接照らされていない津衣菜も少し視界が変色し、視覚情報を処理しにくくなる。そんな光だった。
護身用ストロボには、フロートにも発現者にも同じ効果があるのだと、彼女は身を以て学ぶ。
封鎖を突破して数歩駆け出した所で、丸岡が背後を振り返って驚きの声を上げた。
「あいつ……何やってんだよおっ」
その声に津衣菜は立ち止まり、後ろを向く。
捕まっていた筈の日香里は、フロートに囲まれながらだが、拘束を解かれて一人立っていた。
彼女にも抵抗する様子はない。同じフロートであるなら、日香里と彼らとに、見た目ほどの腕力差はない筈だった。
人数は問題だが、彼女が激しく抵抗したなら、二人程度で簡単に押さえておけるものではない。
日香里の態度に、彼女を捕えていた者も、今は困惑した表情で様子を見ている。
彼女は、周りのフロートも発現者も、一人ずつその顔を見渡してから口を開いた。
津衣菜に彼女の声は聞こえなかったが、何と言っているのかは唇の動きと顔で、大体想像出来た。
『さあ、行きましょう――私を連れて行って下さい――教会へ』
「おいっ!?」
津衣菜は次の瞬間、丸岡の手を振り払うと逆方向――日香里の方へとダッシュしていた。
フロートと発現者達は一斉に彼女へと向かって来る。
何本もの薄汚れた腕、腐った腕が、彼女を地面に引き倒し全身を押さえ付けるのを、スローモーションの様に感じていた。
丸岡が彼女に何かを叫んでいる。何て言っているのかはよく分からなかった。
フロート達が更に彼にも迫ると、彼は背を向けて一人で駆け出した。途中で何か缶の様な物を放り投げた。
彼を追うフロート達の前に突然、炎の壁が出現する。
追手が怯んだ間に、丸岡は百メートル近く離れていた。
フロートの一人が丸岡に向かって猟銃を数発撃ち、仲間にすぐさま制止されていた。
「やめろや! ジジイさぁもういい……娘っこだけ連れてくぞ」
津衣菜の視界の端で、少し驚いた顔でこちらを見ている日香里が写っていた。
先頭に日香里とそれに付き添うフロートが二人、その後ろで津衣菜は残り全員に固められるという配列で、教会へ向かう。
教会に着いた時、日香里と津衣菜は別々に引き離された。
玄関を入り、廊下の奥へと日香里は通され、津衣菜は手前の扉から礼拝堂へと連れて行かれる。
そこは、外で感じていた嫌な気配の濃縮された様な空間だった。
かつては並んでいただろう長机と椅子は、朽ちた破片となって床一面に散乱し、その上に埃が積もっている。
奥の方にボロボロながら形を保つ大きなオルガンと聖壇が奥に見え、その上の壁には茨冠の王の吊るされていない十字架が掲げられていた。
外光を取り込む窓も、聖者や聖母が描かれていたであろうステンドグラスも粉々に割れ、ポインテッドアーチの窓枠のみを残している。
その中で、聖壇の脇にある比較的新しめのステンドグラスが残っていた。
宗教画の絵柄には違和感を感じる、お下げの黒髪の少女が天使に付き添われて立っている。
それが日香里を描いたものであると津衣菜にはすぐに分かった。
木片と埃だらけのがらんとした広間の中央に、大きめのソファーが一つだけ置かれていた。そこに誰かが座っている。逆光で姿は良く見えない。
「王オヤジ、連れて来たぞお」
フロートの一人が声をかけると、ソファーの上の影はもぞもぞ動いて、その拍子に顔が日射しに照らされる。
他のフロートと変わらない、無精髭の五十代くらいの男。長めの髪を真ん中で分け、顔が大きく恰幅も良い。
薄汚れてはいたが、元々は高価そうな豹柄のコートを羽織り、頭に何か被っている。
そして驚く事に、火の点いた煙草を口に咥えていた。吸い込む真似だろうが、煙草を吸うフロートなど津衣菜は今まで見た事がない。
「よお、御苦労。姉ちゃん、向伏から来たって? こんな浜の田舎の、おじさんフロートばっかりの所に何の用だよ」
煙草を足元で踏み消すと、男は津衣菜に尋ねる。
その拍子に見えた男の被り物は、レプリカの王冠だった。
津衣菜の視線に気付いた男は、何故か胸を張って言う。
「俺ぁ、ここの王様だからよおっ」
「あんたらも、自分達をフロートって呼ぶんだな」
「当たり前よ。他に呼び方あんのかよ。あの世からこの世に浮いて来た死者だから『フロート』じゃねえか……俺ぁ嫌だぜ、自分をゾンビとか呼ぶのは」
呼び名だけでなく、フロートの定義まで向伏と同じだった。津衣菜はなおも尋ねる。
「遥に会った事あるのか?」
「遥? 誰だよ、お前らの頭か? 知らねえなあ。俺ぁ、死んでから一度も苗海町から出た事ねえんだ」
フロート達は津衣菜を三人がかりで押さえ、それ以外も近くで見張っているが、発現者達はのろのろと礼拝堂の隅へ歩いて行き、そこでバタバタ倒れる様に横たわり始める。
外から入って来た一人のフロートが何かを引きずっている。
津衣菜は昨日の光景を思い出すが、彼が持って来たのは腐乱の進行した発現者じゃなかった。土色に変色しかかってはいるが、普通の人間の普通の死体だった。
それを無造作に、発現者達の横たわっている前へ転がす。
ぐったりと呻いていた彼らの様子が変わった。我先にと死体の前へ這い出し、それを押しのけ合いながら貪り始める。
「みっともねえけど、しょうがねえよなあ……全身腐っちまうと、凄く痛えらしいからよ」
「人間を食べて治ると、思ってるの?」
「治った事はねえな。うちらでは、動けなくなったら教会裏のモルグって所に行く。そして本当に死んで土に還る。腐った奴は大体そうしている……ただ人間食うと、痛みが治まるんだよ」
「一瞬だろ、その為に食人を選んだのか?」
「他にどうするんだよ、お前ん所じゃどうしてるんだよ」
「薬を使う……対策部が配ってるのをね」
「対策部? 何だそりゃあ?」
男は対策部の存在を知らなかった。
「フロートについて研究したり対策を考えたりする、国の非公然機関よ」
「そんなもんあったのかよ。さすが都会の大所帯は違うなあ、何でも知ってやがる」
言葉と裏腹にあまり感心した様子もなく言うと、男は質問を繰り返した。
「で、その薬でこいつら治るのかよ?」
「治らない」
「何だよ、条件一緒だなあ……そんでどうすんだよ」
津衣菜は沈黙する。男は、しばらく黙り込んだ彼女を見下ろしてから、短く尋ねた。
「てめえらで始末すんのか? 生者に迷惑かける前にって」
「――」
「図星か。やっぱり大都会は死者同士でも冷てえなあ。仲間にそんな事よく出来るな」
「何もしないで求められるまま人間食べさせるのが、優しさなのか? その間も、発現者の苦しみは終わらないんだ」
「それで割り切れんのかって。腐ってようが何しようがフロートはフロートで、俺の王国の国民だ。俺の王国じゃあ、民の面倒は最後まで見る事になってんだよ。いいか、こいつらは苦しんでても、死にたがってなんかいねえんだ」
男は横目で、死体に群がっている死体達を一瞥しながら言った。
津衣菜は伏せる事の出来ない顔を男に向けたまま、どこか訴える様でも憐れむ様でもある声で、話を続ける。
「それに……あんたらは人間を襲い過ぎた。もうひっそり暮らす事も出来なくなる。対策部が、あんたらの壊滅作戦に乗り出したんだ。人間の敵に回ったフロートは、そうなるんだよ」
「それで、お前さんらは生者の国に尻尾振って、俺達をスパイしに来たって訳か」
「違う。私らは『フロートが集団生活している』としか聞いてなかった。あんたらを調べて、交流を持てるかどうか確かめようと」
「おおっ、それ先に言えよ。お前さんら、親善大使だったのかい――是非とも仲良くしようじゃないか。国交、同盟、大歓迎だぜ」
「あんたらの事知って、向伏は交流を諦めたよ。発現者と入り混じり、平気で生者を食い殺せるあんたらは、価値観が違い過ぎる――それに、さっきも言った通り、近日中にあんたらは殲滅される」
「価値観が違うだの、滅ぼされるだの、後ろ向きな事ばっかり言うね。お前さんは。違いを乗り越えようとか、戦って返り討ちにしてやるとか、そういう考えはないわけえ?」
「対策部を見ていないから、そういう事を言えるんだ……あんたらは、フロート狩りにさえ遭った事がないだろ? 乗り越えられない壁も、勝てない相手もいるんだよ」
「――いいえ、壁を乗り越えなければならないのは、あなた方です!」
津衣菜の声ではなかった。
「神は遍く世界を見ています。生者も死者も、私達もあなた達も。その道も、行ないの全ても」
「もう一人の嬢ちゃんかい。何やら俺らに言いたげだとは聞いてたけどな」
男は入口扉の方向へ視線を向けながら言う。その視線で、津衣菜も日香里がどこに立っているのか分かった。
「ここは神の家。あなた方は迷われた末に、ここへ来られたのではありませんか……ならば、これまでの行ないを今ここで改めましょう。大丈夫――神は、あなた方の罪をも赦します」
「罪か……生者が生きる為に牛や豚食うのと同じ様に、俺らは生者食ってるだけなんだが、それが罪なのかよ?」
冷たい目で男は入口を睨み、数秒ばかり沈黙が流れたが、その後にはっきりとした答えが返って来た。
「それが誤魔化しなのを、誰よりもあなたが知っている筈です。あなた自身が、自分達の所業を、牛や豚を食べる事と同じだと思っていない」
「随分と神様に詳しい様だな。でもよ、ここは確かに教会だが、どういう教会だか知ってるのかい? ここで何が起きたか、何でこんなに荒れ果てちまってるのか」
「知っています。私の名は松根日香里。迷える魂を照らす光となるように。そんな願いと共に、この松根教会で生まれ育ったのですから」
日香里の答えに、男も目を見開き彼女を凝視する。
「何だと……じゃあ、お前さんが“光の子”……あの狂った事件の始まりになったっていう教祖の娘……『死んで生き返った』ってのは、本当だったのか……それがフロートで向伏に……ははっ、がははははっ、いいねえっ! ははは……これはいいぞ」
しばし呆然と呟いていた男の口から出て来たのは、哄笑だった。
「じゃあ、是非とも八方塞がりのうちらを救って貰おうじゃないか、“光の子”さんよ――そうだなあ、こっちはシケたジジイばっかりだからよ、神の言葉とか言って士気でも上げて貰おうか。勿論、向伏の景気良さそうな奴らへの人質としても役に立ってくれるよなあ?」
男は再び津衣菜に視線を向ける。
「お前さんもだ。こうなったら、まだまだ話聞かせて貰う。その国の機関とやら、そして向伏のフロートについて、知ってる事はまだまだあるだろう? 洗いざらい聞かせて貰うとすっかあ。交渉するにせよ、戦争するにせよ、必要不可欠なもんだからよう」
礼拝堂から連れ出された津衣菜と日香里は、二階の小部屋の一室にまとめて押し込まれた。
両手両足にステンレス製の手錠足錠を着け、床に転がされる。
津衣菜にはそれが、やけに用意周到な扱いにも思われた。
咳が聞こえる。日香里の咳は、昨日よりも酷くなった様に見えた。
「ごめんなさい……自分でも馬鹿な事をしていると、思っています」
「全くだよ。あんたが馬鹿じゃなかったら、世界から馬鹿はいなくなる」
咳き込みながら謝る日香里に、津衣菜は素っ気ない声で返す。
「うん、まあ……花紀よりはまだマシなのかな、これでも」
「花紀さん……ですか」
「うん……今頃、何やってんのかな」
「何してるんでしょうね……花札とか?」
「何でいきなり花札なんだよ」
「知りませんか? 花紀さん、花札大好きなんですよ。賭博はいけませんけど……入院中に教えて貰って、自分に名前が似ているし色んな花が出ているからって、気に入っちゃったらしくて」
正直、知らなかった。内心ちょっと面白くない。
「私は花札知らないけど、じゃあ、戻ったら教えてもらおうかな」
不機嫌さを隠す様に言うと、日香里はじっと津衣菜を見つめている。
「何……?」
「津衣菜さんが、他人の事をそんな風に気に掛ける所、初めて見ました」
「そう……だったかな」
花紀の事を気にしているのとか、声に出して言った事は確かにあまりなかったかも知れない。
自分が何を思っているのか、隠し通すのだけは得意だった。
表に出すのは苦手だった。出したいと望んだ事自体が殆どなかったにせよ。
「どうして、津衣菜さんはここに来たんですか?」
日香里が続けて尋ねて来る。
彼女のイメージする津衣菜にしては――津衣菜自身のイメージするそれにしても、あの行動はらしくないものだった。
普通なら、日香里を置いて丸岡と一緒に逃げる。何故そうしなかったのか。
津衣菜は、あの一瞬に感じた事をゆっくりと思い出しながら、口を開いた。
「私は神様なんて信じてない。この世界に神様なんていないし、いるべきじゃないって思っている」
日香里の顔が曇る。
元から彼女を喜ばせようとしての答えじゃない。津衣菜は構わず言葉を続ける。
「だから……あんたがあそこで神様が見守ってるのを感じていたとしても、私の目には、あんたは一人っきりだとしか見えない」
その瞬間に思った事は一つだった。それを出来るだけ忠実に言葉にしたかった。
「だから、あんたを、こんな所に一人にして行けないって思ったんだ」
津衣菜はふと、あの時に日香里の浮かべた驚く顔を思い出す。
今、目の前で津衣菜の答えを聞いた彼女が見せている顔だ。




