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フローティア  作者: ゆらぎからす
11.フローティア
143/150

207日目(3)

 207日目(3)




 トラスと呼ばれる、鉄橋の左右側面と頭上で交差している鉄柱。

 その屋根部分に立って、梨乃は車道と歩道を見下ろしていた。

 津衣菜を橋桁へ投げ込んだ後、彼女はジグザグの軌跡を描き、更に上へと引っ張られた。

 予定より二メートル以上余計に宙を舞ったが、それでも無事に着地する事が出来た。

 腰のロープを手に取ると、張りがかなり緩んでいるのを感じた。

 この紐のもう片側にいる筈の雪子は、梨乃の視界上には存在しない。

 どこからか、とても微かなサイレン音が聞こえた。

 梨乃にはそれが複数のパトカーによるもので、まだ2キロ以上離れてはいるが、確実にこちらに向かっている事まで聞き分けられた。

 表情も変えず、軽い足取りで数メートル下へ飛び降りる。

 車道の交通量は多かったが、歩道側はそれほどでもない。

 通行人に衝突しないタイミングは簡単に取れた。

 どんっと、数十キロの家具か何かが落ちて来たみたいな音と振動が辺りに広がる。

 少し膝を曲げた位で、転がりもせず梨乃は着地した。

 微かにだが、明らかに彼女の着地で橋全体も揺れていた。

 通行人の何人かが、顔を引きつらせて彼女を凝視している。

 周囲の視線に気にする様子もなく、梨乃は歩き始めた。

 ふと彼女は自分の手を前に出して見つめた。

 今の津衣菜と比べればだが――服装も肌の感じも身のこなしも、梨乃に生者と目立った違いはなかった。

 それでも白を通り越して灰色っぽくすら見える、血の通わない固そうな手。

 サイレンが聞こえたからと言って、自分の仲間を置いて逃げたりする必要はもうない。

 逆に、仲間に命令して、制服警官やパトカーを襲わせたりする理由も、もうどこにもない。

 誰かに与えられた悪夢、そして自ら作り上げた悪夢。

 それらは『生』と不可分だったのか。

 他人の生前と死後は、自分の定義とは違う形なのかもしれない。

 あの悪夢こそ幸福と信じていた自分に、他人の不幸なんて決められる筈がない。

 それは、よく分かっていた。

 だが、それでも今日は、あえて決め付ける。

 彼女のやろうとしている事は、彼女を不幸にするだけだと。

 ――フロートは、泣けないんだよ。

 いつか聞いた言葉を思い出してしまった。

 梨乃の足取りは次第に早くなり、やがて駆け足から疲れを知らない死者の無制御の疾走へと変わって行く。

 梨乃の進む先にいた何人かが、悲鳴を上げながら脇へ飛び退いた。



挿絵(By みてみん)




 高欄の白いポール下から覗いた津衣菜の目の前で、間髪置かずに金属が弾ける。

 跳ねたのは、錆と埃に覆われた、太さ2センチ以上ありそうな鉄製のボルト。

 数メートル先まで、何度もバウンドしながら転がって行く。

 少し位置を変えて、再び顔を上げるとそこにも、今度は立て続けに数個飛んで来た。

 この橋崩れたりしないのだろうかと、津衣菜は少し不安を覚える。

 どのボルトも、ねじ部分まで錆びと泥で汚れていたので、どこかに使われていたのを抜いて来た訳ではなさそうだったが。

『きもち悪いから おまえは顔だすな』

 泥汚れが酷くなって来たスマホ画面に、辛辣なメッセージが表示される。

 言い返そうにも、真っ黒な指で画面をなぞる気にはなれなかった。

 雪子は一体どういう環境(・・)で入力しているのか、ふと気になった。

 元々片手片足のない彼女に、ワイヤーやロープを繰りながら、画面をタップする手の自由なんてあるのか。

 そこから打開策を考えられそうな気がした。

 そもそも雪子は、今どこにいるのか。

 さっきのボルトも、上から飛んで(・・・・・・)来た感じ(・・・・)ではない(・・・・)

 そして、梨乃は津衣菜を運んで――橋脚の下から(・・・・・・)ここまで(・・・・)引き上げられていた。

 原則として、『何かが上がれば、代わりに何かが下りる』のが、雪子のやり方だった。

 雪子が梨乃や津衣菜を引き上げようとすれば、相応の重さの荷物か、自分自身を下へ落とすしかない。

 雪子は橋の下か、あるいはこの欄干や道路のどこかにいる。

 そして、その間は姿を見せはしないだろう。

 彼女でも色々な物を操れる、十分な準備を一ヶ所で整えて、ずっとそこから動いていないのだ。

 もしも彼女が現れる時は、その直前に必ず何かが下まで落ちる。

 津衣菜は暗い道路の真下を、身を屈めて進む。

 奥の方で、細く一直線に光の射す所がある。

 上り二車線と下り二車線で橋が別々になっていて、隣接する二本の橋の隙間に当たる場所だった。

 津衣菜は高欄の下、橋桁ふちの明るい所に姿を出した。

 その顔の横や足元で続いた空気の切れる音と金属音に、彼女も身を縮めたが、それでも再び隠れようとはしなかった。

 歩道の様に柵などない、肩幅程度の狭い橋桁外側の足場。

 すぐ近くに反対車線の橋の橋桁が伸びているとは言え、少しでもバランスを崩したら、川へまっさかさまだ。

 津衣菜は駆け出しもせず、壁に両手を――右手のギブスも当てながら、ゆっくりと歩き出す。

 彼女の周りで金属音は止む気配がない。

『出るなと言った』

 津衣菜は立ち止まると、さっきから振動していたスマホを取り出す。

 新たなメッセージがまた数件入っていた。

「こんな所、上から見えないって。あんたが騒いで余計目立ってるんじゃない?」

 津衣菜は橋桁に貼りつく様にしながら、声を振り絞って雪子へ呼びかけた。

 返事の代わりに、弧を描きながら迫る、重量のある風切り音。

 さっきまでのねじや小物とは違う。

 津衣菜は一歩も動かず、その到達を待った。

 近くのコンクリート部分が派手に砕け散り、鎖のついた鉄製のポールが宙に舞った。

 ポールはそのまま、空中で軌道を修正すると、正確に津衣菜の頭上で鉄板に激突し、次に足元数十センチ右で火花を散らした後、川へと落下して行った。

 ――まだだ、このタイミングじゃない。

 津衣菜が思った時、二本目のポールが、今度は津衣菜の頭上3~4メートルの所から飛び出し、振り子の様な動きで津衣菜へと戻って来る。

 それは余裕を持って一歩横へ避ける。

 間近で聞く鉄と鉄の激突音は、フロートの耳にも快いものではない。

 火花と剥げた塗装の欠片が、さっきよりも多めに飛び散っていた。

「じゃあ、あんたが出ておいでよ、雪子」

 さっきよりも大きな声で、津衣菜は視界の斜め上、隙間の上に見えるトラスの鉄骨へ呼びかける。

「キモイのはお互い様だ。この騒ぎじゃ、幽霊気取りもそろそろ限界でしょう?」

 三本目のポール。

 さっきまでと違う、ステンレス製の、もっと小さくて軽そうな円筒が、パーテーションロープの付いたまま回転して襲って来る。

 それは津衣菜が避けるまでもなく、鉄骨と鉄骨の間を何度もバウンドしながら、隙間の下へ落ちて行った。

 前のポール二本も、ボルトの連射も、ここではずっと前斜め上――全く同じ方向から、同じ角度で飛んで来る。

「私、こんな肉体言語やメールじゃなくて、あんたの声も聞きたいな」

 これらの物体が津衣菜に直撃して、彼女を川へ叩き落とす事はない。

 津衣菜にも、今は十分に分かっていた。

 ポールが命中する事よりも、それと引き換えに、何がどこから引き上げられたかを気にした方が良いと。

『しらじらしい』

 一分以上経って画面に表示されたそのメールを、津衣菜は凝視する。

 ――雪子は、津衣菜の声が聞こえる場所にいる。

「少しは本気だよ。そう言えば、ずいぶんあんたの声聞いてなかったじゃない」

 この橋桁の空間の、ここから大して離れていないどこかだ。

『少し………腹立つくらいに正直ね』

「順番はあるからね。あんただってそうでしょ」

 津衣菜は、攻撃が止んでいる事に気付いた。

「あんたは花紀の事よりも、遥の指示やルールよりも……私が千尋を傷付けた事に怒っている。違う?」

 雪子の返事はない。

 声は勿論、メールでも、襲いかかるボルトや鉄片さえも。

『せめて顔ぐらい洗え。鏡見ろ』

「鏡貸せっての。誰のせいよ。おかげ様で泥だらけだし、こんなクソ暑い中、何日も洗浄も出来やしない」

『誰のせいって、自業自得しかない』

 津衣菜はもう一度、車道や歩道の真下に広がる、薄暗い空間を見渡す。

 雪子の姿はどこにも見つけられない。

 だが、雪子は津衣菜の今の外見を、かなり把握している。

「そうよ。キレイにしたいから、洗浄キットだけ置いて一旦ここから消えてくれないかな」

『川であらえば』

 津衣菜は桁下の隙間に素早く身を隠す。

 一瞬前に彼女のいた空間を、横薙ぎに大きな工事用看板が滑って行く。

 今まで本気じゃないと思っていたけど、もしかしたら雪子は個人的に、ガチで自分を叩き落とす気だろうか。

 少しそう思いながら、津衣菜は看板を追いかけ、上昇し始めていたそれにしがみ付く。

 看板は、折り返しに通された鋼線のワイヤーで持ち上げられていた。。

 津衣菜の体重までは支え切れないのか、がくがく揺れながら降下を始める。

 看板と津衣菜は空中で一度大きく揺れて、完全に動きが止まった。

 上の方で鉄骨に取り付けられたリールを通ったワイヤーは、その先を空中に浮かんだ梨乃が握っていた。

 彼女が降下すると同時に、津衣菜と看板は引き上げられて、二人はそれぞれ高欄の上へ並んでいた。

 梨乃が着地した時、津衣菜と看板は梨乃より二メートル以上高くまで引き上げられていた。

 梨乃自身がワイヤーを引き寄せて握っていたからだ。

 梨乃は更に引き寄せようとしていたが、津衣菜は看板から手を離し、彼女めがけて飛びかかる。

 ワイヤーを握ったままで梨乃は身体を捻り、津衣菜へ回し蹴りを繰り出していた。

 津衣菜がガードの体勢のまま梨乃の蹴りを受け止めて、後ろへ飛ぶ。

 梨乃も蹴りの直後、ワイヤーから手を離して後ろへ足を滑らせていた。

 津衣菜は左手に高欄のガードパイプを握って、自分の動きを止める。

 梨乃は身体を縮めながら滑りを止める。

 二人が対峙しているすぐ横を、続けて三台のトラックが通り過ぎて行った。

 幅一メートルもない路肩の先は車道だ。

 車の音に混じって、ざわめきも聞こえる。

 車道の向こうの歩道に、数名程度だが野次馬が集まり始めている。

 反対側のもう一本の橋でも、車道奥の歩道にこっちを見ている人間がぱらぱらと見えた。

 津衣菜は二歩だけ、大股で梨乃との距離を詰める。

 気のせいかもしれないが、足がうまく曲がっていない様な気がする。

 踏み出す度に、上半身が前に傾く。

 そんな津衣菜を、梨乃は構えの姿勢を取ったまま見ている。

「何その目。何が、言いたいのかなあ?」

 梨乃の視線に口元を大きく歪めて、津衣菜は唸る。

 その声の抑揚や高低は、他人が聞くとかなりおかしく感じられただろう。

 人間の声と言うより、調整の下手な音声ソフトの声に近かった。

 目の前のこいつも、どいつもこいつも。

 離れているなら、この私も安心無害な見せ物か――失礼な『獲物』どもだ。

 コイツラガイナケレバ、トリホウダイナノニナ。

 だが同時に、この場が無人になったのは正解だとも感じていた。

 もうすぐ来る。

 何の気配も感じなかったが、予感だけはあった。

 津衣菜にも、近付くサイレンが聞こえ始めていた。

 1キロ~800メートル、南方向から国道を北上。

 恐らくパトカーが三台、あるいは四台、あるいはそれ以上。

 梨乃と雪子の狙いもこれだったのだと、今更ながら気付いた。

 彼らが到着するまで、ここに津衣菜を釘付けにしておけば良かったのだ。

「ええ……フロートが、しかもあんたが、『お巡りさんこいつです』なの?」

 呆れた声で嘲笑する津衣菜に梨乃は答えず、地面を蹴って向かって来る。

 掴みに来たのを、津衣菜は右足を軸に身体を捻って避ける。

 すぐにその背中を追って飛び、両足に全体重を預けて蹴り出した。

 背後から踏み倒されそうになった梨乃は、上半身が前に傾くが、足を更に前へ踏み出して、津衣菜の足から逃げ切る。

 膝を曲げたまま地面に着地した津衣菜は、摩擦音と共に二メートル近く両足で前へ滑った。

 上半身を上げた時、目の前にいる筈の梨乃がいない。

 ガンッ!

 衝撃音は車道の方から聞こえた。

 すぐに梨乃の姿に気付いた。

 今、横を通り抜けて行った4トントラック。

 そのコンテナに足を当てて弾かれた彼女は、全身をスピンさせながら斜めに津衣菜へ迫っていた。

 蹴りでも拳でもない全身での体当たりだったが、まともに受けた津衣菜は斜めへ吹き飛んだ。

 真っ黒なシルエットがガードパイプにぶつかってから、朝の車道上を数メートル滑って止まる。

 ―――ぱああああああああっ!

 長いクラクションが二度鳴り響いたのと、津衣菜が寝そべったまま転がったのとは、ほぼ同時だった。

 彼女が避けた場所を、1秒後にタクシーが通過する。

 姿勢を直した梨乃は、ふわっと空中に浮かぶと、高欄に乗った。

 その上を津衣菜の所まで走り、倒れている彼女めがけて飛んだ。

「やっぱり首狙ってたわね……容赦ないな」

「それは違うは失くす容赦」

 ばね仕掛けの様に身を起こした津衣菜が、その両足に左腕で飛び付いていた。

 両足を捕まえられながら、片手で上からのロープを握っている梨乃が答えた。

「それは考えは作らない傷の新しい。それも本当は、あなたのするだろうは諦めはその状況は壊れるのギブス」

「どうせ元々折れてるから? それで済むのかしらね」

 もしも執拗に折れた首が攻撃され、それで更に首の筋肉や骨、気管や食道が潰れ――首が胴体から離れたりなんかした時には、どうなるのだろうか。

 梨乃がそんなつもりじゃなかったのは分かっているし、本当にその時はどうなるのか、津衣菜も分かっている訳ではなかった。

 二人分の体重で引きずり降ろされる前に、梨乃は自分からロープの端を手放した。

「――あ?」

 津衣菜が短い声を上げる間に、梨乃は両膝を曲げて彼女を地面へ押し付けようとしていた。

 だが、その瞬間、津衣菜は素早く梨乃の脚から手を離し、彼女の喉を掴んでいた。

「なんてね」

 言葉と同時に、彼女の視界に津衣菜の顔が迫る。

 津衣菜の頭突きが梨乃の眉間にヒットした。

 梨乃は後ろへ倒れ込む様に、ガードレールを越える。

「先月の借りを返しておくよ」

 橋と橋の隙間へ落ちかけていた彼女へ、斜め上からの両足蹴りが追い打ちをかける。

 宙に浮かんだ津衣菜の頭上高く響く、カラカラという音。

 さっき見つけたロープの一本に、津衣菜はぶら下がっていた。

 梨乃の姿が消えたと同時に頭上から、新たなリールの音。

 一つ二つ三つと、複数の場所から順番に聞こえて来た。

 津衣菜の後ろすぐ、数メートルの高さで、鉄骨を蹴る音が小さく響く。

 その後の一瞬だった。

 津衣菜は地面に身を投げ出して、上からの攻撃のタイミングを殺す。

 何も落ちては来なかったが、彼女は意に介さず次の行動に移る。

 ――ざざざざっ!

 うつ伏せのまま地面についた左手を軸に両足を滑らせて180度回転する。

 砂埃が舞い上がる中、前方に感じた気配へ、顔も上げずに地面を蹴って身体を跳ねあげる。

 だが、津衣菜の視界には予想していなかったものが写っていた。

 ぱちんっ!

 すぐ目の前で炸裂した強いハイタッチで、津衣菜の動きは止まった。

 膝を曲げて、上半身も反らしてしまう。

「おねえちゃん、忘れないで」

「フロートに大事なのは、夜か昼かなんかじゃないの」

 もみじとぽぷらは左右に軽い動きで飛ぶと、それぞれ手前のガードポールと隣接する橋のそれとに飛び乗っていた。

 二人にはロープもワイヤーもなかったが、とんとんと横飛びでポール上を駆けて行く。

 二人の間で、髪を大きく揺らして雪子が浮いていた。

 彼女の後ろのロープが大きくたわんでいる。

 津衣菜が猫だましを喰らっている間に、彼女は一旦降り切った反動で、少し浮き上がったらしい。

 縫い目だらけの顔でも、片腕片足がなくても、彼女は並外れて美しい。

 思わず見入ってしまった津衣菜は思った。

 『スラッシャー』と呼ばれる変質者が彼女に拘泥したのが、少し理解出来る様な気もしたし、死んで化け物となってなお美しくいられる彼女が、今の自分には許し難くも感じられた。

 そして、彼女に注意を全振りしてしまった津衣菜は、更なる闖入者に気付く事など出来る筈もなかった。

 元より『見つける事も出来ないスピード』が身上の彼らなら、尚更。

「いーち!」「いーちっ!」

「にいー!」「にいーっ!」

「さーん!」「さーんっ!」

 二度繰り返す号令と共にクラッカーに似た破裂音が響く。

 右斜め後ろから、左から、そして左斜め前から。

 投げ出された白い網は、いずれも正確に津衣菜を捕えていた。

「……おれがつい姉なら、たぶんそうする(・・・・)。でも、おれはおれだから、やっぱりこうする(・・・・)

 最後のネットランチャーを撃った累は、まっすぐ津衣菜を見ながら呟いた。

「これおなじだ。つまり、おれはなかまをみすてない」

 累の言葉が終わる前に、彼の背後から雪子が猛然と向かって来た。

 顔の糸は外さない代わりに、手に何か銀色の束を持っている。

 小さな鉤の付いた何十本ものピアノ線だと津衣菜が気付いたのは、彼女に絡みつく網へそれらが引っ掛ってからだった。

 一瞬で、身構えただけの津衣菜の胸の辺りに鋼糸を付け、雪子は後ろへ飛ぶ。

 彼女の動きに合わせて、津衣菜の身体も引っ張られて後ろを向かされる。

 津衣菜の足が浮くと、拘束された全身は殆ど動かせず、これ以上の抵抗は不可能に見えた。

 車道の向かい、歩道側からゆっくりとした動きの梨乃が這い上がって来た。

 もう何のロープもワイヤーも付けていなさそうな彼女は、野次馬の通行人に道を塞がない様、手で合図しながら車道に入る。

 車道を歩きながら、停まってこちらを見ていた――ちょっとした渋滞の原因になり始めていた――車に、窓を開けさせて一台一台移動する様に合図を出していた。

 彼女が言葉で説明や懇願をしていた様子はなかった――しても相手に理解させられたか疑問だった――が、車は例外なく素直に移動を始めた。

 今の梨乃や津衣菜や雪子になら、普通の生者は車内を覗き込まれるだけでも相当の恐怖度だろうと考えれば、あまり不自然ではなかったが。

 橋上の車の流れを普通に戻してから、梨乃は津衣菜が絡め取られている場所までやって来た。

 橋の入口から百数十メートル先の交差点に、赤い回転灯を回したパトカーの一台目が姿を見せ、二台目も脇から曲がって来る。

「え……? 銃声?」

「今したよね? ぱんぱんって音」

 歩道でもそんな会話が交わされる程、津衣菜の予想以上に銃声は橋の上に響いた。

 続けて二発、左手の動く範囲で上向きに撃った銃弾は、思いの外、網を引き裂いて虚空に消えた。

 更に自由を取り戻した手で、足と足の間へもう二発。

 今度はあまり千切れなかった。

 右腕のギブスで補助しながら肘を曲げて、残り一発になったトーラスM85の銃口を梨乃へ向ける。

 少し悲しげに眉を曲げただけで、動揺も見せず梨乃は両手を上げる。

「それはあるらしさのあなたが少し。それが私なのが向ける先の銃がこんな時でも。それはなく、それがさんの雪子でも、子供達でも」

「勘違いしないで。今の雪子はもうネタ切れ、今一番ヤバいのがあんただからよ……さっきまでは雪子を捕まえようとしてた。このびっくりショーを潰す為と、あんたへの人質にする為に」

「それで、何がありますか、その残る手は」

「ないわ。尻尾を巻いて逃げるほかない、それは認める」

「そのない分かるのが、何をする逃げる」

「逃げるだけなら簡単でしょ。今ここから飛べばいい」

「それはない取れるのに出来る逃げるのその網はまだ」

「網なんて後でゆっくり千切りゃいいでしょ……あんた以外のフロートは、溺れはしないんだから」

 梨乃の手が震える。

 津衣菜だって、本当は分かっていなかった。

 フロートが水中で活動を続けられるかどうかなんて。

 ――いや……少しなら、分かっていた。

 対策部の実験で、フロートを長時間水中に沈めた結果は、現時点で『10%が活動停止し、90%が早く腐る(発現する)だけ』だったと。

「待って」

「じゃあね」

 網を絡みつかせたままの津衣菜は、梨乃の呼び止める声も無視して、眼下の川へと身を躍らせた。




 copyright ゆらぎからすin 小説家になろう

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