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フローティア  作者: ゆらぎからす
11.フローティア
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206日目(1)

 206日目(1)




 ロビーでの鏡子との遭遇が、向こうでのはっきりと覚えている記憶の最後だった。

 自分が鏡子に何を言ったかは、あまり記憶にない。

 エスカレーターからあいつを蹴り落として、

 自分も壁や柱伝いに1階へ降りて、

 他の対策部の連中をやり過ごしながら出口方面へと――

 だが、そのまま正面玄関へは行かなかった。

 その手前で右の通路に抜け、入り組んだ廊下の奥に入り込む。

 ゴミや貨物の搬出入に使っているみたいな、病院にしてはあまり清潔感のない場所に出る。

 この奥にある筈の貨物用エレベーターに乗――

 気付いたら、暗く狭い竪穴の中、左手とバールを括り付けた右手で壁の梯子をよじ登っていた。

 竪穴の一番上は、格子の蓋が覆い、その先に藍色の夜空が覗いていた。

 がしゃんっ。

 蓋を下から突き上げてどかし、顔を出す。

 そこは踝が隠れそうな程の草の中だった。

 病院裏の、殆ど手入れされていない草地、その中にあった送風口の一つらしい。

 そこから病院の建物は、予想したよりも離れて見えた。

 月明かりの下、暗く影を落としている壁の窓に、灯りは殆ど点いていない。

 地上に全身を這い出させた津衣菜は、腰から竪穴の底へと垂れ下がっているロープを手早く手繰り寄せ始める。

 穴の奥からゆっくりと、担架に乗せた時のままの白いボディバッグが浮かび上がる。

 津衣菜はふと顔を上げた。

 病院の上の階、6階かそれ以上。

 開いている窓の一つに、遥が立っていた。

 遥はこちらを見下ろしている。

 その表情はよく分からない。

 でも、彼女の目が漠然と風景を眺めている訳じゃないのは、津衣菜にも分かっていた。

 遠く紅い眼光は、通風孔から出て来たばかりの津衣菜を、はっきりと捉えていた。

 津衣菜は一瞬だけ彼女の視線を見返す。

 そして、白い袋を抱え上げると、その場を離れる。

 すぐに新たな追手がここへ来るだろう。

 津衣菜はそう読んでいた。

 だが、彼女を追うフロートはいつまでも現れなかった。

 その反面、生者達の動きは病院を出てからここまでの間、一目瞭然だった。

 国道沿いで、渡ろうとして止めた橋で、時折見かけた対策部の車両や人間。

 配備されている彼らの姿は、今の津衣菜には容易に見分ける事が出来た。

 そう、今、彼女の数メートル下で道を歩いている、三人ばかりの作業服の男達の様に。

 気配を感じたのか彼らの一人が振り向き、背後を見上げる。

 十メートル程後方、道路沿いに立っていた家電店の背の高い看板。

 その上から、津衣菜は既に飛び移っていた。

 電柱から五階建てのマンションのベランダ、そしてその屋上階まで来ると身を屈める。

 こんな場所でもぼんやり突っ立っていれば、誰かの目に触れて、建物の管理会社や警察に通報される事だってある。

 生きている時は気付かなかった、考えすらしなかった。

 フロートになってから学んだ事の一つ。

 津衣菜は一人で、屋上に設置されていた携帯基地局の影から通りを見渡していた。

 夏の猛暑も、直射日光も、死体(フロート)にとっては危険極まりなかったが、その熱を殆ど感じられはしない津衣菜。

 微かに存在する我が身を蝕む感触さえも、今はどうでも良い事だった。

 それでも日中は物陰や屋内を使って巧みに回避している。

 昨夜に病院を出てから、もうすぐ半日になる筈だ。

 午後5時を過ぎた頃を見込んで来たが、まだ日は高い。

 日が沈んだ頃には誰もいなくなっている(・・・・・・・・・・)かもしれない。

 それでも津衣菜は、慎重に機を窺っていた。

 彼女の視線の先、住宅街の向こう二三百メートルには、見覚えのある建物のシルエット。

 県立向伏西高等学校の校舎が、周囲の建物からグラウンド分の距離を空けて浮かんでいた。

 今日は風が少し強いらしく、少しアンテナから離れると、すぐにポニーテールが後ろへ流れる。

 ここしばらく、生前よりもきつく結い上げていた髪を、今はあの学校に通っていた頃と同じ位まで下ろしている。

 これで西高の制服も着れば、あの時と同じ姿になるだろう。

 駅前で飛び降りた時の姿と。

 注意深く見守り続けていた通学路に、探していたものを見つける。

 見覚えのある顔。

 いじめの中心になっていた連中じゃない。

 あいつらの周りで、自分がターゲットにされない様にいじめを黙認し、時々形ばかり加わったりしていた『普通の生徒』の一人だ。

 津衣菜と同じ様に(・・・・・・・・)

 私は死んだ、つまり、あいつも死ねばいい。

 そんな思考が意識を横切った時、津衣菜の口元に笑みが浮かぶ。

 津衣菜は助走もつけずに、屋上の縁から飛んだ。


 この、夏の夕方でも、7時前ともなれば結構薄暗い。

 夏至は過ぎたから、この先、日は短くなるだけだ。

 夏休みでもある筈だが、彼女を含め、少なくない数の部活のある生徒が、制服姿で登校し、夕方過ぎに下校している。

 モスバーガーの前を通過し、用水路の水門がある上の橋を渡った頃には、同じ制服の男女はあまり見られなくなっていた。

 そして周囲が畑や果樹園、そして草の生え放題の更地に囲まれた道に差し掛かった時、そこを歩いている人間は彼女しかいない様にさえ感じられた。

 こっち方面に徒歩や自転車で下校する生徒は今までもあまりいなかった。

 彼女だって、こんな時(・・・・)でもなければ、ここを通ったりはしない。

 視界の端に写った物に、彼女は少し顔をしかめる。

 ここが一番の近道なのは知っているし、だからこの道を自分で選んだのだ。

 それでも、特にこんな薄暗い時間に、あまりここは通りたくなかった。

 だだっ広い更地の中にぽつんとある、全長数十メートルほどのスペースに並ぶ、灰色の御影石の列。

 墓地の前で意識して足を速める。

 見慣れたいつもの街並みは、右も左も数百メートル以上離れていた。

 彼女の進む道の先にも、知っている国道があり、新川の向こうには地元のテレビ局とバス停だってある。

 でも、そこまであとおよそ600メートルは歩かなくてはならない。

 どういう土地区画だよ。

 彼女は内心、この街が好きではなかった。

 田舎が嫌な訳でも、畑や水田が嫌いな訳でもない。

 こういう、住宅地や繁華街、整備された道路沿いの中に、突然落とし穴の様に、見捨てられたような空間――何軒も連なる廃屋や、広すぎる更地が姿を覗かせる所が気に入らなかった。

 東京とか、あるいは逆に山奥とか行かない限り、今はどこでもこうなんだろうか。

 昔からこんなものだったんだろうか。

 心の中でそんな不満をあえて呟き続けるのは、理由がある。

 こういう場所で、心を空っぽにして前を向いていると、何かが(・・・)見えてしまいそうだったからだ。

 規則正しく並んだ、新しめの墓石の陰に。

 そこの、一本だけぽつんと植えられた場違いなツツジの樹の下に。

 墓地だけじゃない。

 だだっ広く何もない、雑に均された赤土の更地に。

 この先の川沿いにある、ボロボロのプレハブ小屋と廃棄物の山の隙間に。

 もう夕陽の反射もない、重そうな色に変わっているだろう水面に。

 国道の賑やかな明かりが目と鼻の先にある、国体記念体育館の裏手で、止まっている車と電柱の間に。

 何かを見てしまいそうだと彼女はいつも思っていた。

 この辺りを通って、今までそんなもの一度も見た事はなかったにもかかわらず。

 何を見るのか、それすらはっきりとイメージは出来なかった。

 髪の長い、薄汚く変な姿勢の女か。

 足や手の本数がおかしい赤ん坊か。

 何メートルにも渡って繋がった、歪んだ顔か。

 ぶつぶつ言って笑いながら、自分の爪を噛みちぎり続けている同じ制服の女子生徒か。

 口と鼻から血を流して虚ろな目で歩き続ける小柄な男子生徒か。


 意識を横切るものを、この町への不満で押し潰す様にしながら、とぼとぼと歩いている。

 だから、突然、自分の名前をフルネームで呼ばれた時には、つい肩を震わせてしまった。

 立ち止まった彼女に、背後の声は尋ねて来る。

「―――さんだよね。ねえ……何を見てるの?(・・・・・・・)

 少し硬直した顔で彼女は振り返った。

 声も姿も同年代の女子のもので、振り返って見た顔は記憶にあった。

「えっと……」

 だけど、どれだけ記憶を手繰っても名前は出て来ない。

「森津衣菜。同じクラスだったでしょ」

「え、あ、うん。森さん……」

「2年の時だけど」

「あ、ああ、そうだね」

 向こうから言われてようやく、ああそうだったかなと思い出す程度の名前だった。

 確か去年の秋に、いなくなったか入院したんだった。

 確か、アレ(・・)より後――こっちは別に何もなかった(・・・・・・)奴だったと思うけど。

「誰も通らないね」

 不意にそんな事を言って来た森津衣菜の表情は、逆光なのかよく見えない。

 さっきは確かに、顔立ちが確認出来る程度に、見えた筈なのに。

何を見てたの?(・・・・・・・)

 森津衣菜は、さっきの質問をもう一度繰り返して聞いて来た。

 ああ、うん、別に何か見てた訳じゃないけど。

 そんな曖昧な返事を彼女は返していた。

「こんな所を、歩いて帰るの?」

「ううん、バスだよ……ほら、そこのバス停から瀬宇ノ江方面で。私んち、向こうだから」

「知ってるよ。自転車じゃないの?」

 確かに、彼女は通学に自転車を使っていた。

 ここより結構遠回りになるけど、明るく広い県道から国道に出るルートを通っていた。

「親がさ、まだしばらくバス使えって……集団下校は先週で終わったけど」

「集団下校?」

「知らない、の? ニュースでもやってたじゃない」

 ぼんやりと単語を繰り返す森津衣菜。

 彼女は、その反応に少し驚く。

 『学校を休んでいるから知らない』なんて話ではない。

 この辺りに住んでいるなら、例え自宅に引きこもっていようと、防災アプリやニュースは否応なしに情報を運んで来ていた筈だった。

「凄い騒ぎだったじゃない。何とか変異って言って、ゾンビみたいなのとゾンビ狩りみたいなのが、他の県とかから集まって来て、道を車で塞いだり、畑が滅茶苦茶にされたりスキー場が占拠されたり。それで市内の学校は全部二日間休校になって、その後も――」

「ふうん……」

 森津衣菜の反応に、彼女は再び目を凝らす。

 全く驚く様子を見せない。どうでも良さげな、初めて聞いた様には思えない声。

「そんな大げさな事してたんだ。死んだ人が暴れた位でねえ」

「大げさ……?」

 彼女は、さっき森津衣菜がしていた様に、単語を繰り返した。

「そうじゃない。生きている人間が死んでも壊れても、何事もなかった様に振る舞うのが、秩序ってものじゃないの? 学校ではそれを学ぶんじゃなかったの?」

 だよねえ。森津衣菜はそう彼女に同意を求めた。

 不意に彼女は森津衣菜から目をそらしたくなった。

 その背後に、何かが見えそうになったのだ。

「だったら、ゾンビが徘徊している位で、変えちゃおかしいじゃない……?」

「森さん……何を言ってるのよ」

「ゾンビが歩き回っている中、いつも通り自転車で登下校するべきだよ。例え襲われようと、食べられようと」

 改めて彼女は思い出そうとする。

 この森津衣菜と言うのは、どういうクラスメートだったのかを。

 どこの部活にいたのか、どこのグループにいたのか、何も思い出せない。

 仲良くも悪くもなかった。

 いじめられてもいなければ、中心グループにもいなかった。

 確かにいたけど、何の思い出せる特徴もなかった。

 いや、一つ、確か――――

 学年全体で追い込みかけたらいなくなった、アレ――と、仲良くしていた事があった。

 だけど、こいつだって、一緒に笑って『アレキモイから早く留め刺そうよ』って言ってた筈だ。

 私だってそうしていた。そうしないと、自分の立場が危険だし。

「誰がゾンビに喰われたって、自分が目を付けられても、小さな事だと思い込めばいいじゃない。そうやって守ろうよ、私たちの――あなた達の平穏を」

 まるで、『みんなで順番決めたんだから掃除当番をきちんとやろう』とでも言っているかの様に、森津衣菜は奇怪なルールを囁き続ける。

 いや、自分達にとってさほど奇怪なルールじゃない事は知っていた。

 生きている人間すら大事に出来なかった私たちが、死者でパニックになるのが滑稽だというのも、心のどこかで頷けた。

 この元クラスメートは、半年間一体どこで何をしていたのか。

 意識の隅を再び不穏な疑問が横切る。

 入院していた――――いいや違う―――そう思い込もうとしていただけだ。

 森津衣菜は――親から正式に失踪届が出されていた。

 ある日突然、行方不明になって――――自分が発見のニュースを知らなかったのでなければ、まだ見つかっていない筈だった。

 先々週のニュースって何だっけ。騒ぎの背景。

 死んだ筈なのに動いている、歩く死体が、生者に隠れながら集まって暮らしている。日本中でそんな事が起きているとか言っていなかったか。

「あなた、何を見ているの?(・・・・・・・)

 森津衣菜が再び彼女に尋ねて来た。

あそこに何かいるね(・・・・・・・・・)

 続けてそう言った時、彼女の顔は目に見えて強張った。

「この先には進まない方がいいよ。あそこに見えるものを避けたいなら、こっちへ行くと良い」

 森津衣菜は片手で、彼女の通った事のない細いあぜ道を示した。

 川沿いの風防林みたいな所に伸びているが、その先がどうなっているのかは彼女も覚えていなかった。

 さっき以上に辺りは暗く沈みかけている。

 ぼんやりとした目で、彼女は歩き始めた森津衣菜について来た。


「森さん……その首、どうしたの」

 津衣菜は答えない。

 風防林近くはさっきより暗く、人気もなかった。

 背後でざっと地面を擦る音がする。

 足を回して素早く体の向きを変えると、背後の彼女が怯えきった顔で津衣菜を凝視しながら立ち止まっている。

 どう促しても、ここより一歩も先には進まなさそうだった、

 少なくともあと7、80メートルは必要だと、津衣菜は思っていた。

 他の人間に気付かれない様に、彼女を昏睡させ、そして解体するには。

「ごめんなさい……」

「えー? 一体何を謝っているの?」

「ごめんなさい」

 震え声で、彼女は謝り始めた。

 何を謝っているのか、全く判別つかないが、聞き返しても答えようとはしない。

 津衣菜自身、そんなに答えを知りたいとも思っていなかった。

「いいから来てよ。時間がもったいないんだ」

 津衣菜は更に聞こうとはせず、つかつかと彼女に歩み寄ると、乱暴にブラウスの肩口を引っぱって引きずって行こうとする。

 信じられない程の力で、彼女が抵抗する余地はなかった。

「ごめんなさい! ごめんなさ…い! ごむぇんなざ……」

 何度も嗚咽混じりの声で謝り始めた。

 泣き叫びながら身をよじる度に、彼女のブラウスは大きく裂け始める。

 津衣菜は表情も変えないまま、今度は彼女の髪も引っ張ろうとする。

 最後には、ここで折ろうと考えたのか、彼女の首に手をかけた。

「しのぶさああああん、ごめんんざあああああい、わたじわたじ、ばかでしたあああみんながいるからってえええなにもわがらんでえええええ」

 ふいに気配が消えた。

 泣き喚いてもがいていた彼女が、気付いて震えながら顔を上げると、周囲には誰一人いなくなっていた。

「え………?」

 すっかり真っ暗になった、風防林手前の畑で、微妙に涼しい風がゆれているばかり。


 遠く高圧線の鉄塔から、よろよろと立ちあがった彼女を津衣菜は見下ろしていた。

 彼女の屠殺を中止したのは、あれだけ騒がれてしまえば、恐らく離れていても誰かが駆け付けるだろうと考えたから。

 実際、ここからだと、悲鳴を聞き付けたらしい付近の住民数人が、空き地の向こうから、更に二百メートルほど奥から、彼らの呼んだらしい警察官が、彼女へ向かっているのが見渡せた。

 彼女に声をかけ、引きずりこむタイミングを見誤ったのだ。

 勿論、彼女が最後の最後で忍へ謝罪したから、なんて理由ではなかった。

 時計を見ると7時半。まだ歩いている西高生、それも知っている顔が通るかどうかは微妙な所だった。

 次は、完全に暗くなった事だし、余計な会話なしで人のいない場所ですぐに片付けよう。

 津衣菜はそう考えた。


「森津衣菜!」

 30分以上後、モスバーガー付近で見かけた自転車の女子生徒を、彼女の通り路になっている工場裏の路地で待ち伏せた時。

 突然現れた津衣菜の姿を見た少女は、その名を叫ぶと、自転車をUターンさせて全速力で走り去った。

 津衣菜が驚くほどの機動力だった。

 津衣菜は再び戻った西高の近くで、再び名前を呼ばれた。

 自分が呼ばれた訳ではない。

 見ると、面識あったかどうかも定かじゃない女子生徒二人組が、津衣菜の顔を確認した後、踵を返してダッシュで住宅街の中へ消えて行った。

 何が起きているのかは想像がついた。

 最初の襲撃が失敗した時、彼女から自分の情報が学内のネットか何かに出回ったのだろう。

 どんな言われ方しているのかは確かめようがなかったが、津衣菜の顔を見たらすぐに逃げるべきという事になっているらしい。

 その対応は間違っていない。

 だけど、そうやって逃げ回られてたらこっちも困る。

 一刻も早く、私は花紀に一人目を捧げなくちゃならないんだから。


 8時半少し前。

 津衣菜は西高の裏手にある、3階建の事務所ビルから学校敷地内を見ていた。

 勿論、そのビルにいる人間は全員帰宅済みだった。

 彼女がここまで学校に近付いたのは、フロートになったばかりの時、最後に学校を出た時以来だった。

 何故、まず西高生を狙わなければならないのか、彼女自身よく分からなくなっていた。

 それでも西高生を狙うという発想から彼女が抜け出す事はなかった。

 いや、この時間だとさすがに生徒も殆ど残っていない……だから、丁度良いのが残っていなかったら、教師でも構わない。

 そうだ、そもそも対象は『生きている資格のない奴』だ。

 生徒だけじゃない。教師だって生徒の父兄だって、教育委員会だって市や県の偉い奴だって構わなかった筈だ。

 一番なら、こんな所じゃなくむしろ――

「森さん」

 聞き覚えのある声がした。

 津衣菜の足元から。

 最初の彼女の様なぼんやりした声でもなければ、さっきの連中の警戒や恐怖に満ちた逃げる準備の声でもない。

 普通に知人や友人にかける様な声。

 フロート同士でなら津衣菜にそういう声をかける者もいたが、フロートが彼女を名字で呼ぶ事はない。

 津衣菜は前方の西高敷地――まだ校舎の一部に照明が付いていて、グラウンドや体育館から声が聞こえる――に顔を向けたまま、下の声へ呼びかける。

「後ろならまだしも、真下は絶対に向けないのよ。上がって来てくれる? 紗枝子」




 copyright ゆらぎからすin 小説家になろう

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