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フローティア  作者: ゆらぎからす
11.フローティア
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205日目(3)

 205日目(3)




 医大付属病院地下の研究ブロックの端。

 階段室前の付近に、メンインブラックもどきが廊下いっぱいに広がって、集結している。

 何が起きたか、彼らは連絡を受けて知っていた。

 収容中の第二種変異体『森津衣菜』が特別治療中の第一種変異体『環花紀』を連れ出し、施設からの脱出を試みている。

 ここで該当者の足を止め、身柄を拘束しろ――と。

「……一体、何で(・・)そんな事を?」

 彼らの中には、その疑問を実際に口にする者もいた。

 彼らが想定し、備えていたのは主に、『契里遥が率いる集団での脱走』、あるいは『フロート狩りやAAAなども含めた、外部勢力からの襲撃』などの事態だ。

 彼らも内心、鼻持ちならない新庁所轄の研究所で遥のやらかした事には、少なからず溜飲を下げてもいた。

 しかし、それがここでも繰り返されないという保証は全くなかった。

 遥に――彼女についている変異体達にしてみれば、向こうもこちらも大して変わりはないだろう。

 それは、高槻も十分承知していた。

 口約束の取引は、『それなしには出られない』という警戒の厳重さを前提にしないと成立しない。


 だが、そんな彼らにしても、『津衣菜一人が、今、わざわざ花紀を連れてここを出る』という事態は想定外でしかない。

 そんな行動が、誰にとってどんなメリットがあるのか、予想さえ出来なかった。

 それ故に、そんなケースにあまり対応できていなかった。

 ただ、『収容されている変異体たちの一部が、彼女を特に警戒している』という報告は上がっていたし、収容したての頃の津衣菜の様子がおかしかった事を覚えている職員もいた。

 だがそれも、数日すれば安定し、職員とも気さくに話す様になっていた筈。

 そんな情報が、この事態とどう関係あるのか分からなかった。

 訳が分からない事ずくめだったが、とにかく彼女達をこの先へ行かせてはならない事だけは確かだ。

 収容者の暴徒化を想定して組まれた隊列で、彼らは廊下の角から来るだろう、『彼女達』を待っていた。

「……何だ?」

 耳に聞こえて来たのは、聞き覚えのある小さなモーター音と電子音。

 ゆっくりと、耳障りにならない音量のまま、こちらへと近付いて来る。

「あれだ……第一種を治療用の機械ごと運ぶつもりか……」

 音の正体に心当たりのある一人が、潜めた声で言うと、周りの職員がぎょっとした顔を浮かべた。

「まさか……いや、でも……」

「この暑い中、腐乱死体を外に出す様なものなんだから、そのままって訳にも行かないだろうがな……だけど」


 ウィィィィン………


 モーター音と共に角から現れたのは、彼らの予想した通りの、第一種変異対応のベッドと医療機器のセットだった。

 先頭の隊列が刺股を前方へ構える。

 その後ろにネットランチャーを構えた隊列、最後列では右半分が電気警棒を握り、左半分がゴム銃を下向きに構えている。

 薄暗い廊下の中で、彼らへ近付いて来る機械のLEDとモニターのみが光を放っていた。

 先頭の男は顔をしかめる。

 機械だけが小さな音と共に近付いて来るが、ベッドに横たわっている筈の花紀も、押して来た筈の津衣菜も、全く姿が見えない。

 こいつを押しながら死角に隠れているのか。

 測定機器や、モニターラックや、アイスボックスを兼ねた空っぽのベッドの裏に、注意を向ける。

 モニターの影、ベッドのへりに、緑色のシートでくるんだ何かが転がっていた。

「第一種、か……?」

「いや、分からない。気を付けろ……」

 ベッドと機械は更に前進し、彼らとの距離を詰めて来る。

 先頭の男は、手で後退の合図を出す。

 最後尾から順に、警戒を保ったまま一歩ずつ後ろへ退き、ベッドとの距離を保つ。

「二班へ伝達。対象は時速2キロ前後で移動を維持。対象が階段前を通過したら、合図と同時に階段室内から臨場せよ」

 男の声。続いて別の職員が無線で男の指示内容を反復する。

「二班、合図で臨場了解」

 スピーカーから応答の声。

「臨場後、対象後方より森津衣菜の姿を探索せよ――」

 ベッドが階段室の前を通過した直後、扉が開き、二人ずつでベッドを追う様に廊下へ飛びだして来る。

 ベッドと機械は前後を対策部に挟まれた事になる。

 どこにも逃げ場はない。

「ベッド上のシート目視確認。森津衣菜、見当たらず。ベッド下のスペースは見えない。これより接近する――」

「待て―――」

 無線の応答が、急速にベッドへ接近する二班を止めるのと、金属的な爆発音が上がったのは同時だった。

「ぎゃあっ!?」

 先頭にいた男が両手で顔を覆いながら叫び、後ろへ飛ぶ。

 彼を複数の仲間の腕が、更に後ろへと引きずり込む。

 まるで花火か溶接作業の様な黄色い火花が、緑のシートから立て続けに噴き出していた。

 ベッド上は瞬く間に炎に包まれ、周辺の機械にまで燃え移りつつある。

「離れろ! 変異体じゃない!」

 引き戻された男は、上着のあちこちが燃え続けていた。

 すぐさま、至近距離から消火器の白粉末を浴びせかけられる。

「金属消火の使ってるか!?」

「大丈夫だ!」

 燃え上がるベッドと機械から上がった煙は、火災警報のサイレンも鳴らし、スプリンクラーまで回転しながら水を撒き始めた。

 しかし、降り注ぐ水で炎は更に勢いを増す。

 そこにいた対策部職員は、何が燃えているのか、よく分かっていた。

「テルミット……」

 それが施設のどの辺りに、何の為に保管してあるのかも、彼らは知っていた。

 第一種変異体・第二種変異体に関する収容や研究、捕獲や制圧を行なう彼らの施設なら、どこにでも必ず置かれている『最後の手段』の一つ。

 消火器の煙とアルミニウムの火花と煙、夥しい量の水蒸気が廊下に充満していた。

 廊下天井の排煙口が全て開いて、物凄い音と共に煙を吸引し始めるが、その風で職員達の多くがその場に立つのが精いっぱいとなった。

 立ち尽くしている彼らのちょうど頭上の排煙口。

 そこから、重力と吸引力が拮抗する状態で、ふわっと影が舞い降りた。

 ポニーテールを激しく振り乱しながら、スローモーションの様に、空中から一人の頭を鷲掴みにし、それを軸に足を振ってもう一人、更にもう一人を蹴り上げる。

「馬鹿! 警棒を使うな!」

 誰かが怒鳴るが、聞こえていないのか、誰かが電気警棒のスイッチを入れてしまった。

 バチバチという音と共に、床の水や空気中の粉末で感電したらしい数人が、津衣菜へ駆け寄る前に倒れてしまう。

 津衣菜は空中で身を縮めながら、掴んだ一人を緩衝材代わりにする。

 だが、それでも多少電気を受けたらしく、彼女も痙攣しながら倒れる様に着地した。

 だが、その一秒後には、もう一人の鳩尾に右腕のギブスを沈みこませていた。

 もう一人が顔を掴まれたまま、片手で向こうへ投げられる。

 目の前に開いた空白地帯へ、津衣菜は駆け出す。

 その一歩の直後、上半身を倒れそうな程に前傾させる。

 彼女の頭上を空気を切って、大きな拳と腕が通り抜けた。

 手の甲から指にまでびっしりと刺青の入った、血の通わない剛腕。

 津衣菜は、視界の端に写った高地の膝を前蹴りしながら飛び、彼から距離を置く。

 高地の背後数メートルの所に、対策部職員と見分けにくいシルエットの曽根木が立っていた。

 対策部職員と違って、煙も水もない廊下の反対側に一人で立ち、排煙設備の強風にも姿勢が乱れていなかったが。

 彼は動じないまま、無表情のまま彼女に銃口を向けている。

 赤いフロートの瞳にオレンジの濁りが混じり始めた津衣菜も、無表情で彼らを見返す。

 更にのしのしと向かって来る高地へ、何の躊躇もなく銃口を向けた。

「てめえ……っ」

 津衣菜の左手に握られている、花紀の銃。

 高地が二メートル程度先の銃口を凝視し、彼女に尋ねる様な声をかける。

「マジか?」

「伏せていろ」

 津衣菜と彼の後ろの曽根木が、同時に彼へ言うと、次の瞬間に発砲していた。

「ぐっ!」

 津衣菜の撃った弾がどこか掠ったらしく、くぐもった声を上げながら身を屈めた。

 その上を二三発ずつ、前後からの弾が飛び交う。

「何やってる!」

「やめろ! こんな場所で銃はダメだ!」

 銃声を聞いた対策部の何人かが怒鳴った時は、銃撃の応酬は終わっていた。

 牽制の為もう一発撃ってから、津衣菜は踵を返して、まだ煙を立てている黒焦げの機械に飛び移り、そこから更にジャンプすると天井の排煙口に吸い込まれていた。

 曽根木は、彼女の姿が消えたのを見て銃口を下ろす。

 不可能なのは一目で分かる状況だが、彼女を追おうとする様子は全くなかった。

 廊下以上の風圧の中、天井裏の津衣菜は鉄骨の一つにしがみついて、銃をシャツの下にしまう。

 暴風の中でも、撃ったばかりの銃が当たった所で、皮膚の焼ける音が微かに聞こえた。

 熱さは感じない。




「今、銃声が聞こえなかったか?」

 津衣菜達の収容されていた地下区画の真上。

 1階で研究用の特別区画と一般区画が繋がっていた。

 3階より上では完全に別棟となっていて、2階は廊下が何層かのシャッターや隔壁で隔離されている。

 1階にも複数のゲートがあるが、その大半はパーテンションポールと注意書きの立て札で、部外者の侵入を断っているだけ。

 指紋認証のドア二つで出入りする附室に、有人の受付。

 そこ以外は、物理的に通行可能な状態となっていた。

 具体的な内容は伏せつつも、火災警報と放送は病院全域に響いていた。

 1階と地下1階では、通院患者や通常の職員、学生も、放送で避難を呼びかけられている。

 勿論、研究区画内と言っても、病院全体で見れば『変異体研究』とは関係ないエリアも広く存在する。

 そういう所の関係者も、普通に避難誘導の対象となっている。

 地下研究エリアでのトラブルや災害だけは、病院が直接関知せず、対策部単独で処理する事になっていた。

 1階の特別区画出口付近にいた対策部は、地下階からの(・・・・・・)避難者誘導も担当していた。

「銃声?」

「ああ。この騒ぎだし、他の階の音なんてあんまり聞こえないんだけどさ。今一回か二回、ぱーんって」

「いや、それはないだろ。こっちの装備はゴム銃だ。そんな音はしない」

「それは分かってるけど」

「他にどこが? 警察も今、この中には入ってねえ。もちろんそういうものを違法に持っている様な奴らだって」

 そう言いながらも何人かは耳を澄ませ、上からの音に集中する。

 だが、銃声らしきものはそれ以上聞こえなかった。

 上から聞こえるのはここと同じサイレン音。

 それと、排煙機が作動したらしく、空気の流れが轟音となって響いている。

 上の状況は数分前から無線でも殆ど入って来なくなっていたが、どうやら、『脱走を試みた第二種変異体』の捕獲に失敗したらしい。

 そして、『数千万円する変異体用の検査機器が、テルミット爆弾に化けてしまった』とも。

「その変異体が、テルミットなんかを持っていたのか?」

「いや、取ったんだろ。こちらの貯蔵庫から」

「どうして、検査対象の変異体が、そんな物の場所知ってるんだ?」

「どうしてって、そりゃ教えたんだろうよ、どっかのバカが」

「……あの子、そう言えば、色々聞いていたよな」

「あの子、『森津衣菜』か?」

「そうだ。テルミットじゃないけど、俺も何かで聞かれた……こっちと一般区画の警報の鳴る順番の違いとか。入院患者とかは、火事の時やゾンビパニックの時どうすんのかなんて、雑談としか思わなかったけど」

「俺も、電気警棒の電圧と電極の位置とか、死体や変異体に電気が効く理由とか、何となくって感じで」

「良かったな、あの子の役に立ててるぜクソ馬鹿ども。後で覚悟しとけよ」

 一人が吐き捨てる様に言いながらも、自分も彼女に何か話さなかったか、不安を覚える。

 ここ数日の彼女は、それ以前と比べるととても安定していて、『監視の職員にも気さくによく話しかけていた』と、多く報告が寄せられていた。

「おい、何か来るぞ」

 誰かが言うと、一斉に注意が廊下の奥へ向かう。

 担架と、それを小走りで押して来る女の姿。

 女は対策部臨床部門の専用の白衣を着ている。

 彼ら専用の広くぶ厚いマスクで、顔がほとんど分からない。

「緊急です! 簡易の通行認証手続きと、二人以上の同行援護願います!」

 白衣の若い女が、遠くから声を張り上げた。

 一般区画へのゲート前で、男達は顔を見合わせる。

「どうしました? その担架は?」

「地下階で、脱走しようとして暴れている変異体『森津衣菜』の制圧に失敗しました! 彼女が連れ出そうとしていた第一種変異体『環花紀』のみを確保しています。室長判断で、一旦、『環花紀』を一般区画経由で外の冷凍車に移送します」

「あなたは?」

「部局第四十二研究室、向伏医大出向――」

 白衣の女が自己紹介を終える前に、男達の横の空気が剥がれた。

 彼らの傍らを回転しながら飛んで行った背丈程ある鉢植えが、彼女に到達する瞬間、彼女の姿は消えていた。

 誰もついていない担架が、勢い良く押し出されて、倍速でゲートめがけて滑ってくる。

「バカかお前は!? 最初からバレバレなんだよ、クソ自殺女」

 背後から低い女の怒鳴り声。

 男達が振り返るより先に、前方に殺気。

 彼らは悲鳴も上げずに、目の前を凝視した。

 無造作に投げられたベンチソファーを、無言で散らばって避ける。

 彼らの間を縫って、憤怒の形相の鏡子が助走を付けて飛ぶ。

 白衣姿の津衣菜が、天井近くに一瞬写った。

 マスクはもう付けていない。

 紅金色の瞳を輝かせ、貼りついた様な笑みを浮かべていた。

 すぐにそれは見えなくなり、廊下の壁があちこちでダダダダダッと、衝撃音を立てる。

「何だっ……?」

「顔上げんな! ヤバいぞ」

「壁蹴って、飛び回ってんのか?」

「うわあっ!?」

 初めて、彼らの間から悲鳴が上がった。

 もぎ取られた手すりの一部が、伏せていた一人へ高速で迫って来る。

 彼の手前で後ろ飛びに着地した鏡子が、それを椅子で打ち返す。

「てめえっ、いい加減にしろよ!」

 手すりは何度も壁を跳ね返って、床にバウンドする。

 手すりと別に、やはり壁から壁へ跳ねながら、津衣菜が何かを蹴り出す――天井に嵌っていた筈の蛍光灯だった。

 その一本は、鏡子の額に直撃して粉々に割れた。

 彼女の周りの職員は、くぐもった声と共に顔を伏せて、降り注ぐ破片を避ける。

 鏡子は何でもなさそうに天井の一点を睨んでいる。

 その青白い面立ちから一滴も血は流れていない。

「怒る相手が違うでしょ?」

 そんな声と共に、鏡子は更に後ろへ飛ばされ、ゲートのガラスに叩きつけられる。

 かなりの衝撃だった様に見えるが、ガラスには僅かにひびが入っただけだった。

 しかし、それを見た対策部の職員達は顔をひきつらせる。

「人が当たって割れる様なガラスじゃねえぞ……」

「あっちも……まともな人間(・・・・・・)じゃねえんだよ」

 薄笑いの津衣菜が更に鏡子へ、片手に振り上げた椅子を叩きつけようとする。

 鏡子は上半身を傾けて椅子を避け、津衣菜の顔面へ拳を繰り出していた。

 津衣菜の下ろした椅子は、ガラスを割りながら吹き飛ばしていた。

 椅子も彼女の手に握っていた金属の脚だけを残し、バラバラに壊れてしまう。

 二人のフロートの少女は再び、生者達の視界から消えた。

 ガラスの割れたゲートを、滑って来ていた担架が静かに通り抜けて行く。

「畜生……一般区画に入っちまった」

「それどころじゃねえ、もうエントランスロビーだぞ」

 顔を上げた一人が、焦った顔で破れたゲートの先を凝視する。

 さっきまでとは違うサイレンが、一般区画の廊下、その十数メートル先にある吹き抜けの広いエントランスに響き渡っていた。

 外界は真夜中だったので、外来の患者や業者の姿はない。だが機器の技術者や看護師は何人も残っていて、彼らが聞いた事のない警報に慌てながら行き交っている。

 その中であちこちの壁を蹴る音が飛び回り、あらゆるものが砕け、飛び交う。

「な、なに……!?」

「銃撃戦だ! どこから撃ってる?」

 銃の撃ち合いに見えても仕方ないかもしれない。

 特別区画方面から、体勢を直して駆け付けた対策部の職員達も、エントランスの惨状を見て内心思っていた。

 この騒ぎを起こしている二体の変異体の姿は見えないまま、予想不能の破壊だけがこの広いスペースいっぱいに進行している。

 高槻へ連絡を入れる事にようやく思い至った時にも、彼らの近くの椅子や机、精算機や掲示板が吹き飛んでいる。

 身を屈めた彼らの背後を、何の邪魔もされずに、何にぶつかる事もなしに、担架だけがゆっくりと通り過ぎて行った。




「『てめえ、いい加減にしろ』、今、何に向かってそう言う時だと思うの」

「てめえに決まってんだろが、自殺女」

 怒鳴って答えた鏡子の蹴りは宙を切った。

 背後へ回った、のっぺりとした殺気の行き先を、コンピューターの様に予測しつつ。

「あんたはどこを見てるの」

 五メートル右の柱に衝撃。

「こんな時まで、『厄介者が何をやらかすのか』が気になってるの」

 二メートル左上の間接照明カバーが砕け落ちる。

「そんなに平穏が大事? 花紀よりも」

 鼻先を掠める指。

 オレンジ色の開いた瞳孔ふたつ。

「ほら、どこを見ているの」

「――っぜええ!」

 壁を蹴りながら、顔の左の気配を手づかみにして、向こうへ投げる。

 十メートル先の受付テーブル向こうで、パソコンや書類棚が爆発し、津衣菜のひっくり返る両足が一瞬見えた。

「『てめえいい加減にしろ』は……花紀をこんなにした奴じゃないの」

 どこかから、変な反響しながら聞こえる津衣菜の声。

「クソ野郎って言うのは、私やあんたから、あの子を奪おうとする奴の事だよ。そうじゃないのか?」

「うるせえ」

「このまま花紀を失ってもいいの? あんただって……花紀がいるから、ここにいられるんじゃないの」

 鏡子は無言で目を見開く。

 その赤い瞳にわずかに混じるオレンジ色の濁り。

「私は知ってるんだよ。あんたが、復讐よりも花紀を選ぼうとしかけていること」

 どこか愉快そうに言う声の直後、頭上からの重圧。

 落下して来た津衣菜が鏡子の顔を掴もうとしていた。

 津衣菜の左手と右のギブスを両手で押し戻しながら、鏡子は憎しみの籠った眼で津衣菜を睨み返す。

「分かった様な事、言ってんじゃねえ……」

「だけど、ねえ……あんた、そんなんで本当に殺れんの。自分を殺した男を」

 至近距離で再び鏡子の拳は、津衣菜の顔を砕こうとしていた。

 目をそらさず完全に見切った動きで、津衣菜はその拳を右にかわしてしまう。

「……まあ、どうでもいいんだけどね、そんな事」

 次に鏡子の顔を、津衣菜のギブスの先端が捉えていた。

 鏡子はエントランス中央の吹き抜けを高く舞い、3階まで伸びるエスカレーターの途中に落下した。

「だけど、私の邪魔はさせない。あの子は生きるべきで、死ぬべき奴らは他にいくらでもいる。これはどうでも良くない(・・・・・・・・)事だから」

 津衣菜は自分の傍らへ来て止まった担架に、そっと左手を置いてから、そこから離れてエスカレーターへ早足で向かう。

「私の歩みは、止めさせない。それが自然だろうが運命だろうが」

「んだよ……てめえ……」

「何」

 動かないエスカレーターの中段で、鏡子は倒れたままだった。

 何かを言いかけた鏡子に津衣菜は聞き返すが、鏡子は続きを言わず黙ってしまった。

「『自然の成り行き』なんてくそくらえでしょう? だって私たちは、動く死体なんだから」

 鏡子のすぐ下まで来て、津衣菜は登る足を止める様子はない。

「あんた、ドヤ顔で私に言ったよね。『生きる事を手放さない』って。聞いて呆れる。あんたら、ビルの屋上から飛んだ時の私とどう違うんだ」

 津衣菜は鏡子の足と足の間に右足を置く。

 次に、鏡子の膝を左足で踏む。

「てめ」

 罵りかけた鏡子の腰を、今度は右足で強く踏み抜く。

「私は諦めない。あの子の夢も、笑顔も。運命なんて、あるがままの定めなんて、この足で踏み砕いてやる。その為に死にぞこなったんだ」

 言いながら、津衣菜は更に鏡子の首のギブスの下に、左足を置く。

 さすがに安定が悪過ぎたのか、手すりを左手で掴みながら、鏡子の顔を間近に見下ろす。

「生きるって、こう言う事なんだよ。分かるかな、あんたにはきっとずっと分かんないんだろうな」

「んだよお前……マジで怒ってんじゃねえか」

 鏡子は少し躊躇ってから、さっき言いかけた言葉を言い直した。

「何を驚いてるの、私はずっと怒ってるに決まってるじゃない」

「いいや、あたしはお前が本当に怒っている所なんて、初めて見たんだよ。気付いてねえのか、お前はここに来てから一度もそんな――」

「あんたが怒れなくなったのなら、あんたの分も私が怒ってやる」

 左手を軸に、津衣菜はふわっと鏡子の上の両足を浮かす。

 次の瞬間、寝そべったままの彼女を起こす様に蹴り上げ、続けてエスカレーター下へ思いっきり蹴り落としていた。





 copyright ゆらぎからすin 小説家になろう

 https://book1.adouzi.eu.org/n0786dq/138/

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