192日目(9)
192日目(9)
私を覗く、私が覗き返す、カメラのレンズ。
通り過ぎて行く、私を賛美する声。
何度も作り変えられて行く、私自身。
『次はどんな感じがいいですか?』
死んで、甦って、一番最初に視界に入ったのはお前の顔だった。
ただのおぞましい変質者以外の何者でもないお前。
だけど、そんなお前は、私の人生を彩って来たものの戯画だ。
欲望で飾り立てながらも、空虚で歪な――文字通り斜めに傾き、色と質感を失い、自分自身をも見失った視線。
お前は自分の人生を生きていない、自分の生を実感していない。
だから永遠に欲望を満たす事は出来ず、何を見ても恐怖出来ず、何を失っても絶望出来ない。
自分の死を思う事は出来ない。
お前は私を見つめる機械のレンズだった。
私に囁きかける賛美の声だった。
私を思うままに作り変えたいという欲望の具現だった。
自分の顔も、名前すらもない、正真正銘の『私のファン』だった。
だから今なお狂おしく私を求めるお前に応えてあげよう。
私たちで教えてやろう。
恐怖と絶望を味あわせて、お前を救ってやる。
死を身近に感じさせてやる。
今、お前に私たちの履いている靴を履かせ、私たちの歩いている道を歩かせてやる。
『お兄さんは、そういうのが好きなんですよね?』
さあ―――死ね。
殺してやる。
雪子がそう言い放った時、彼女の眼下にいた者の殆どが動きを止めた。
猟銃やボウガンを手にしたフロート狩りの連中も、美也やフロート狩りの子供達も、その場に凍りついてしまった。
そんな中で、一人だけ揺らめいていた。
「は……ははは……」
彼女に死を宣告された男は、声を震わせていた。
それが笑い声だと、始めは誰も気付かない位の震え声だった。
「ははは……ははっははは、ははははは――」
すぐにそれは、爆発的な哄笑に変わった。
あはははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははは
笑いながら彼は、無表情のまま雪子を凝視している。
完全すぎる容姿も、そのカクカク震える動きも、まるで百年前の映画に出て来るアンドロイドの様に作り物じみていた。
彼の笑い声に浮かされたかの様に、雪子の身体はふわりと天井で舞い上がった。
同時に彼は、笑いながら肩を横に傾げた。
「いつまで笑ってんだ、このヘンタイヤローっ!」
静寂を破った甲高い罵声。
彼のすぐ上を振り子の様に、袋詰めの千尋が通り過ぎる。
千尋は、雪子の宣言に凍り付いてなんかいなかった。
雪子の視界の隅にいた彼女は、雪子の言葉と同時に降下体勢を取っていた。
「ふんっ」
鼻で笑いながら姿勢を戻し、振り向いたスラッシャー。
その目の前に迫っていた巨大な『口』
『口で占められた顔』なんかではない。
スラッシャーをその上下の顎で粉砕しようとする、殺意に満ちた口そのものだった。
「雪子っ!」
「――ひゃあっ!」
千尋の叫びとスラッシャーの嬌声は同時に上がる。
何条もの捻れた銀色の筋を描き振り上げられた腕。
間一髪でそれを回避し、雪子は斜め上へ引き上げられる。
キイィィン!
どこからか飛んで来た鉄の矢を、スラッシャーは肘の刃で払い落す。
彼の仲間がさっき使っていたらしい、ボウガンの矢だった。
再び彼の頭の背後で開く雪子の顎。
上下の顎が鰐の様に閉じた時、彼は一歩下がって暗器を振るう。
雪子はその前に、再び弧を描いて宙へと舞い上がる。
「こっちだバーカ!」
がんっ!
「ええい、うっとおしいっ! ようやく出て来てくれたと思ったら、子猿と一緒だなんて! こんなのは聞いてないぞ!」
「へへん、知らないのか? 雪子の戦う所には必ず僕もいるのさ」
天井の至る所に引っ掛けられ、張り巡らされたロープ。
その両端に結わえられた彼女たちは、ロープの長さや張りも手繰って調節しながら、互いに互いを操り合っていた。
千尋が落下する勢いで雪子が引き上げられ、雪子が梁を這って進み、千尋は引き上げられる。
千尋がスラッシャーに一撃を加えると同時に、雪子は別方向から振り子の様に彼へと襲いかかる。
上昇する千尋と下降する雪子が空中ですれ違う。
「ええ……『私もそんなの知らない』って、そりゃないすよ……」
縦横無尽にスラッシャーへ襲いかかる千尋と雪子のタッグ。
そんな彼女たちへ互角に応戦し続けるスラッシャー。
フロートも、フロート狩りも、誰一人その中に割って入る事が出来ずにいた。
美也も座り込んだまましばらく呆然としていたが、急に膝をついて立ち上がろうとする。
その肩を後ろから押さえられる。
「分かっています。出て行っても、二人の邪魔になって私も危ないって……でも、彼を殺したらダメ」
背後の梨乃へ焦った顔で答える美也。
倒れた稲荷神社組の子供達も、もみじやぽぷらも、今は梨乃の後ろに集められていた。
フナコシの姿はその中になかったが、リビングのどこにも見当たらない彼を探している余裕も、今の彼女達にはない。
「ワクチンを手に入れなくちゃ……雪子さん達に伝わってなかったのかな……聞き出さなくちゃいけないって」
そう言って振り返り、梨乃に目で訴える。
梨乃は肩を押さえながら彼女へ頷き返す。
「それなら!」
美也の声に答える様に、彼女の横から何か滑る音が近付いて来た。
「向こうには水差さない方がいいわ。文字通りの殺し合いっぽいから」
滑る音が美也の二メートル程先で止まり、階段から聞き覚えのある女の声がした。
美也はまず音の止まった方を見る。
「―――!」
「探し物はそれで合ってる筈よ……思ったより手間取っちゃった」
そこにあったのは車輪のついたステンレスの円筒形容器だった。
スラッシャーも一瞬だけ、自分の解剖室から盗み出されたそれを凝視してしまう。
すぐに雪子の襲撃に反応して、そっちに注意を戻す。
「液体窒素の冷凍容器よ……別々のラベルで何本かあったし、化学式も私じゃ分からないけど、菌とワクチンのセットらしいのはそれだけだったから」
二階の廊下から見下ろしていた鎖弓は、黒いドレスが埃まみれになっている。
「あなた達はそろそろ引き上げときなさい。この子達は私が見ておくわ」
鎖弓を見上げていた美也は、すぐに梨乃や子供達と頷き合うと容器を抱える。
梨乃が累ともう一人の男児を両肩に担ぎ上げ、もみじとぽぷらが二人で一人の男児を持ち上げる。
彼女達が廊下へ向かおうとした時、階段途中のフロート狩り達が駆け降りようとするのは同時だった。
「待てえっ!」
「そいつら行かせるなあっ」
「くそっ――絶対止めなさい!」
戦闘中のスラッシャーまで、彼らにそう指図を出していた。
しかし、彼らも横から飛んで来た千尋に一人が殴り飛ばされて、足を止めてしまう。
「くそっ、させるか、追え追え!」
彼らから離れた千尋めがけて、階段上の男はショットガンを放つが、全く当たる様子はない。
その時廊下の奥から複数の足音が響いた。
美也達は顔を強張らせて足を止め、フロート狩り達は顔に安堵を浮かべる。
しかし、廊下から姿を見せたガスマスクや覆面姿の男達は、似てはいても彼らの仲間ではなかった。
美也達の横を通り過ぎ、彼女達とフロート狩り達の間に立ち塞がる。
「おら、止まれ。向こうにいた奴らは全員逃げたぞ」
「分かってるだろうな。生きた人間撃っちまったら、もうグレーではいられねえよ?」
「いくらお前らのコネでもな」
奥から更に現れたAAAは脚立を二階廊下に掛ける。
「……石堂……AntiArmagedonArmaments……いいかげんにしろ、このキ**イども。ここをどこだと思ってるんだ?」
「それはお前らだろ?」
「ははは、ここどこなんだよ? 教えてくれよ。俺ら、それが知りたくて来たんだからよ」
「彼の部屋でもいっぱい資料頂いたから、証拠価値高いのもあるかしらね」
一階のAAAメンバーと脚立をゆっくり降りている鎖弓とが、彼らにそう言い返す。
「あーあ、この分じゃ実験は失敗かしら。サンプルも取られちゃっているし、こんな様じゃもう新しいのは貰えないかもね……いくら彼の顔でも」
「そんな訳あるか。この計画はこの国の未来の要だ。我々は、このツールでコントロールされたゾンビパニックを生み出しては解決して行き、あんなハッタリ会長のではない、本当の意味での『アーマゲドンクラブ』となるんだ」
ショットガンを握りながらそう語る男の顔は、持っている物と言っている内容に関わらず、正気そのものだった。
おかしい人間は、自分の狂気を顔に出す事の方が少ない事は、鎖弓も理解している。
今、二人の少女に陶酔しながら刃を振るっている彼の様なケースは稀なのだと。
「ふうん、でも、そこまでやる事が貴方達のスポンサーの希望かしら? 彼がパパに怒られちゃう」
「黙れ馬鹿女」
今度は、戦闘中のスラッシャーがそう怒鳴って鎖弓を睨みつけた。
その頭上へ垂直に落下して来る雪子。
スラッシャーは左手を頭上に掲げる。
「もうこの際、片手くらい君にあげるよ。君は僕のもので、僕は君のものなんだから」
首から肩を狙っていた雪子の口は彼の左手に喰い付き、彼女は倒立姿勢のまま固定される。
彼女の胴体を何本も貫く彼の右手の刃に支えられて。
「雪子さん!」
下で響いた悲鳴に鎖弓も少し焦った顔で顔を向ける。
容器を抱えたままの美也が、雪子を凝視していた。
「まだいたの……早く行きなさいって言った筈よ」
「フナコシさんが……いないんです。発現がかなり進行している人なんです」
「発現……って事はフロートね? ここにいて見えないんなら待っている時間はないわよ?」
「ですが、置いて行けません。仲間ですから」
美也の言葉に累やもみじも驚いた顔で彼女を見る。
梨乃も表情は変えないが、じっと顔を彼女へ向けていた。
「そう……なら仕方ないのか」
溜息をつきながら頷いた鎖弓の耳に、呟く声が入って来た。
「僕が父の評価を求めるんじゃない……父が僕の評価を求める様になるんだ」
鎖弓はスラッシャーに視線を戻し、言葉を返す。
「大して変わらないじゃない。いい年して『僕は僕だ。パパなんか関係ない』と言えなかった事が、貴方の歪みなのよ」
「誰も彼を無視なんて出来るものか……生者も……死者も……変異担当大臣の椅子が約束された男、朝来一郎を避けて通れない!」
「はい、貴重な証言ありがとう。証拠価値はそれ程高くはなさそうだけど、今のも有効に使わせてもらうわ」
いつの間にか録音をしていたスマホを見せながら、笑みを浮かべて鎖弓は言う。
「雪子を離せえッ!」
「終わりだ!」
スラッシャーは正面上から降下して来た千尋に一喝しながら、両腕ごと雪子を前へ突き出す。
「ぐっ……」
千尋は空中で呻きながら、ロープを握って角度を変え、スラッシャーと雪子の横を通り過ぎる。
「賢明だ……今だけの話だがね」
そう言うと彼は、口元を歪めて右手を僅かに動かす。
雪子が空っぽの左の眼窩と残った右目とを見開いた。
痛みはなくとも、少しずつ身体の切れ目が広がって行く手応えを感じる。
緩んだ口から血まみれの左腕を外しながら、スラッシャーは微笑んだ。
「二人とも、いや、僕のプライベートスペースにわざわざやって来た死者達を全員、キレイに作り変えてあげるつもりさ。こうなったらもう、誰一人逃がさないよ……僕は、欲するままに全てを手に入れる」
「いいや……いい加減、優先順位をはっきりしてもらおうか、スラッシャーさん」
頭上からの声にスラッシャーは顔をしかめて、見上げる。
階段上で猟銃を構えた男の銃口は、スラッシャーと雪子に向いていた。
「……何のつもりだ、タカさん」
「そのまま腕を動かすな。そのクソゾンビの首から下を吹っ飛ばす。そっちの袋のやつも、そいつらもだ。時間がねえんだよ」
「僕の邪魔は許さないと、何度も言った筈だよ」
「限度がある……薬と菌、ゾンビパニックのコントロールこそ、あんただって親父を見返す為の悲願だって言っただろう。その下らない趣味とどっちが大事なんだ?」
「うるさい……」
「人類の裏切り者AAAも来てやがるんだ。さっさと動かないと、ますます状況がまずく……」
「あ」
「あ?」
最初に声を上げたのは、そのAAAと膠着状態になっていた若いフロート狩りの青年だった。
怪訝そうに彼らに視線を移した彼の背後には、両手を広げたフナコシの姿があった。
いや―――『フナコシだったと思われる第一種変異体』がいた。
次の瞬間、男は猟銃を向ける間も――気付く間すらもなく、『それ』に掴み倒されていた。
「がああああああ!」
「あああああああっ! ああああああああ!!」
どっちがどっちとも判別のつかない濁った二つの絶叫が、断続的にリビング内に響き渡る。
ぐちゃぐちゃと肉を引き裂きすり潰し、咀嚼する音。
動かなくなった男の上に覆いかぶさり、その肉や内臓を喰らっているフナコシは、全身が倍近く膨れ上がり緑や紫の斑に変色していた。
突然出現した惨状に、鎖弓も絶句し立ちつくしていた。
鎖弓だけでなくスラッシャーも呆然と見上げている。
フロート狩りやAAAのメンバーは正視すら出来なかった。
立ち込め始めた腐臭に鼻や口を抑え、その現場から目を逸らしている。
スラッシャーは全身を震わせ階段を凝視したまま、ゆっくり両手を降ろした。
雪子からそっと暗器の刃を引き抜いて行く。
刃を全て引き抜いた彼は、左腕に彼女をぶらさげたまま階段へとダッシュし、そのまま駆けあがっていた。
「タカさんから離れろ、この化け物があっ!」
次々と暗器でフナコシの足、腕を切り落として行く。
全身をバラバラにされてもフナコシの手と口は、男から離れないまま、既に息絶えた彼をむさぼり続けている。
男の持っていた猟銃は投げ出され、階段数メートル下に転がっていた。
それを拾い上げて登って来る者がいる。
切り刻みつくして、頭も斜め切りしたのにまだ噛み続けているフナコシに、スラッシャーは脱力してぼんやり見下ろしているだけだった。
そのフナコシの頭に銃口が向けられた時、スラッシャーが顔を上げる。
散弾銃を静かに構えながら美也はフナコシを見下ろしている。
「遅れて済みませんでした……約束でしたね。ご協力感謝します」
美也の言葉にフナコシは濁った眼球をぐるりと向ける。
「おれは……なかまなのか」
「はい」
そう訊いたフナコシの言葉には正気が戻っていた。
美也は即答した。
「おまえらを、たすけたのか」
「はい」
「ああ……そうだ……おれは、ずっとまえから」
フナコシはそこで声が途切れ、くちをもごもごと動かすだけだった。
せいぎのみかたに、なりたかったんだ
「なれましたね」
そう答えて、美也は引き金を引いた。




