192日目(7)
192日目(7)
―――どんっっ!
叩き付ける様な重い音と共に、ソファーの背もたれに刃が深く沈んだ。
ソファー裏で、倒れ込んだ美也が床に転がる。
スラッシャーは斜めに切り込んだナイフを引き抜こうとしたが、中の木材やクッションに引っ掛かったのか、なかなか抜けずにいた。
突如、ナイフがソファーごと浮き上がったのを感じ、彼は足元に視線を落とす。
ソファーは膝の辺りまで持ち上がっていて、更に上昇し続けていた。
「えーーいっ!」
両手で腰の辺りまで持ち上げていたソファーを、美也は掛け声を上げながら前へと押し出す。
スラッシャーは刺さったままのナイフから手を離すと、3歩ばかり下がり、そこから再び踏み込んでもう一本のナイフを突き出した。
――ざっ! ざっ! がっ!
美也が今度はソファーを上下に振り、彼女を狙った刃先はクッションに浅く刺さり、続いて木材部分に弾かれる。
「やあっ!」
そんな短く緊張感の薄い声と共に、美也がソファーを投げた。
一瞬腕のガードで止めようとしたスラッシャーは、すぐそれを中止し全力で飛び退いていた。
飛んで来たソファーの速度が普通じゃない。
走行中のトラックから落ちて来たみたいな勢いで、2メートル近くあるソファーが床を何度もバウンドして行った。
思わず口を開いてそれを見送っていたスラッシャーは、首に冷気を感じる。
視線を横に向けると、すぐ目の前に迫っている大理石のテーブル。
美也が横薙ぎに振り上げた二つ目の武器を間一髪で避け、今度は彼が床を転がっていた。
さっきからの戦闘で、床がすっかりボロボロなのに、今更ながら気付いた。
スラッシャーはすぐさま身を起こし、屈んだまま転がっているソファーへ駆け寄る。
スプリングの辺りを足で踏みながら、一本目のナイフを両手でようやく日着ぬことに成功した。
顔を上げた彼の眼前に、また別のソファーが落ちて来る。
そこらの家具を振り回しては、投げつけて来るだけの単調な攻撃。
動きは殆ど読めていた。
ただ、常識外の力によって繰り出されるそれは、彼にもそう簡単にどうにか出来るものではない。
美也は新たな二人掛けのソファーを右端から抱え持ち、スラッシャーのいる方へ上下左右に振っている。
両手にナイフを持ち下段に構えたスラッシャーも、迂闊に彼女へ近付けない。
同時に、美也も一向に彼へダメージを与える事は出来ずにいた。
彼女の防御力は満点だったが、攻撃力はほぼゼロだった。
ソファーを持ち上げた美也と、構えたままのスラッシャーは、少し距離を置いたまま向かい合っていた。
その周りで、もみじや累や梨乃が、美也の投げる家具を用意したりと、目立たない様にフォーメーションを組んでいた。
「さっきから一体何をやっているんだい……それが君のやり方か」
「……?」
低めの声でスラッシャーが美也に尋ねた。
「それだけの力を持っているのに、普通の女の子みたいな……きちんとやれば、きちんと殺し合えるだろうに」
彼の問う声は、かなり苛立ちに満ちていた。
「あなたは……あの細菌の……私達を第一種変異させる菌の抗体……持っていますね」
「それが用か。本当に下らなかったね、君ら。もし僕がそれを持っていたとしたらどうするんだ……僕の善意を求める気か」
スラッシャーは嘲笑しながら、美也の問いへ返す。
「善意? あなたにそんなものが……」
「期待していないなら、どうやって僕からありかを聞き出すんだ」
「力ずくでも」
「力ずくで何? ゾンビの女の子がそうやって馬鹿力でその辺の物投げてれば、僕が怖がってくれると?」
美也の声にも怒りが露わとなって来たが、スラッシャーの蔑む様な言葉には、もっときな臭い響きがあった。
「ちょっと世間を舐め過ぎなんじゃない? というかこの僕をさあ……君たち専門の『切り裂き魔』と呼ばれたこの僕を」
スラッシャーの足が横に動いた。
向かって来る動きでなかったので、美也も注意を向けていなかった。
彼の爪先は、弧を描いて床に散らばった土――倒れた大きな樹木の鉢植えからこぼれたらしい――を彼女の顔へめがけて蹴り上げた。
ソファーを手放したりはしなかったが、生前の動作の反復で思わず目を閉じ、身体を固くしてしまう。
その刹那にスラッシャーは彼女へ迫り、ガラ空きの横合いから彼女の手首へナイフの刃を滑らせる。
「――――っ!」
ガアンッ!
咄嗟に腕とソファーを身体に引きつけて、盾とする事に成功する。
あと半秒遅ければ、彼女の手首は切断されていただろう。
てこも入っているだろうが、予想以上の力で彼はナイフを押し込みながら、彼女を押し返す。
「欲しいものがあるなら、戦えよ」
ナイフを押しながら、彼女の目を覗き込んでスラッシャーは言った。
「僕は君の欲しいものを全部持っているよ。どうだい? 叩きのめして支配したいだろう? 奪い取りたいと思っただろう?」
「支配だの奪うだの……それこそ下らない……そんなものの為に、より多くの人が生きにくくなっえるんじゃないですか」
「暴力が嫌いかい? 奪い合いたくないって? 君……バカなのかい? 無欲には何も報いないんだよ」
スラッシャーの足が美也の足を踏む。
美也の持っていたソファーは、スラッシャーが全身で彼女の方向へ押し倒していた。
悲鳴を上げる間もなく、バランスを崩して彼女はソファーを持ち上げたまま後ろへ倒れ込む。
「君は皆のためにワクチンが必要だという、僕に勝って手に入れるという。でも……欲しがっていないんだよ」
「ああっ!」
スラッシャーは言いながら、倒れた美也の腹部を踏みつける。
「僕が雪子ちゃんを欲しがってる様に、彼らがあの細菌で手に入れる未来を欲しがってる様に、何故きみは欲しがらないんだ」
美也は答えない。
上半身を震わせて彼の足を跳ねのけようとするが、どれ程の力なのか、彼はびくともしなかった。
スラッシャーはさっきよりも更に苛立った顔のまま、両手のナイフを逆手に握る。
「誰も助けに来ないね……確かにこの状況じゃそれが賢明だけど、そんなものじゃないか。君ら死者の絆だって」
遠巻きに見ている梨乃、フナコシ、子供達。
彼らを横目で一瞥してから、彼は足元の美也に視線を戻す。
「ねえ聞いていいかな? 君は自分の命もそうやって欲しがらなかったから、ゾンビになっちゃったんじゃないの?」
その瞬間に反応したのは、僅かに顎を上げて目を凝らしたらしい梨乃だけだった。
スラッシャーの身体は二メートル以上向こうまで転がった。
彼の持っていたナイフの一本が、明後日の方向へ回りながら飛んでいく。
続けて盛大な音が響き、山々を見渡せるガラス壁が一斉に割れ、破片となって崩れ落ちる。
その先に小さく、崖下へ落ちて行くソファーが見えた。
起き上がった美也はその手に、大理石のテーブルだったものを持っていた。
台から外されたそれは、直径1メートル半の楕円の石板でしかなかった。
赤く目を光らせた彼女は、無造作に腕をしならせ、それをシャッターで閉ざされたロフトへ投げる。
螺旋階段の手すりの一部が吹き飛び、ロフトからこそこそ降りて来ようとしていたフロート狩り数人の悲鳴が上がる。
「うるさいですよ」
「ふぅん……少しはやる気になったみたいじゃないか。僕にも意外――」
「うるさいと言っているんです。私があなたから聞きたいのは薬の場所と、二度とここに来ないという約束だけです」
次に美也が手に取ったのは、テーブルの石板を支えていた流線型の鉄の棒だった。
「優位に立つ側、多数派に回る側、奪う側の、下らない戯言なんてこれ以上聞きたくありません……あなたはまず、不要な口を閉じさせることにします」
「そう、君は今、僕を支配したがっている。僕の屈服と沈黙を欲しがっている……それでいいんだよ。もっと醜くなれ、もっと欲しがれ、そうでなければ……何も得られないぞ」
スラッシャーは左手に持ったナイフを、美也に合わせて威勢良く振る。
しかし、右手はだらんとしたまま動かさず、袖の内側からチキチキと金具の音が絶え間なく聞こえ始めていた。
「このどこからともなく、際限なく湧き上がる欲望こそが、生者と死者とを縫い合わせるたった一本の糸じゃないか」
ガシャンッ!
カシャッ! カシャンッ! チャキャッ!
言葉途中で一本ずつ彼の右手の袖――だけでなく両手の肘、シャツの裾からも鉤状の刃が覗かせ始める。
「君の事はもっと適当に処理するつもりだったが、気が変わった。それなりに綺麗にしてやろう。雪子ちゃんの脇に添えるだけの価値が出来たからね」
「ん……まずいわね」
「何すか」
千尋の問いに鎖弓は答えず、周りの仲間にハンドサインを送りながら、引き続き一人ずつ縄梯子から降りさせようとしていた。
さっき別荘に侵入する時に入ったバルコニーの横の、玄関側から死角になった窪み部分。
AAAはそこから梯子で脱出する予定だった。
「やっぱり駄目か。見つかった」
「ええっ」
「いくら豪邸つったって、一つの家でドンパチと潜入同時にやるってのは、無理だったみたいね」
「そんなの、僕だって最初に思いましたよ! 何とかするのかと思ってたのに……どうするんですか?」
しみじみと呟く鎖弓に、焦った顔で突っ込みを入れる千尋。
「おい、何だあれ……止まれ! 何してんだお前ら!」
「何人いるんだ……3、4……」
「あいつら――――石堂鎖弓――何だ、AAAじゃねえか!」
こちらを指差している何人かの男達も、普通ならいない様な場所――建物の角の屋根部分に這い上がっていた。
そこからロープを伝って、どこかの窓から入るつもりだったらしい。
「とりあえずあいつらは放置よ。問題は、あいつらの呼んだ仲間がどこから出て来るかね」
鎖弓は彼らを眺めながら言う。
彼女の言う通り、彼らが直接こちらへ来るには尋常ではない手間がかかりそうだった。
彼らは予定の動きを変えないまま、無線でどこかへ連絡している。
恐らくは、彼女達のいる所に一番近いであろう連中に。
「あ」
鎖弓がそう声を上げた時、梯子の下では誰が放ったのか、白煙がもうもうと上がり始めていた。
中庭方面から何人かやって来て、煙の中、下の班と揉み合いになっている。
フロート狩りの一人は、咳き込みながらも上の鎖弓達にも気付いて、指差しながら何か叫んでいる。
「どうしますか? 戻ります?」
「それしかないかな……でも、それもちょっとヤバいわね。スラッシャーもすぐ近くじゃない」
千尋をケースごと持っていた二人の男性メンバーが、鎖弓に聞くが、彼女は考え込みながら周囲の窓を見回している。
「窓から……入りますか。でもどこに――」
鎖弓が答える前に、彼女の足の真下で小窓が開いた。
屋根の斜面にぽつんと設置されたその窓は、通路ではなくどこかの部屋の天井に面した、天窓の様に見える。
千尋も男性メンバーも、鎖弓も緊張した顔でその小窓を注視する。
だが、そこから覗かせた顔を見た時、真っ先に声を上げたのは千尋だった。
「――――雪子!」
雪子は千尋にも視線を向け、無言のまま左手を内側に振って彼女達を呼び込む。
「ふん、では我々の元に来る事が今後の変異体にとって、一番安全で権利の保障される道だと確信し、コミュニティ指導者として自分について来た仲間にも見本を示す――それが今回投降して来た理由の全てだと……」
「うん、どこか不備があるかい?」
ポニーテールの女性研究員の質問に、遥は首を傾げて聞き返す。
「織子山だけならともかく、向伏や佐久川の変異体まで、お前に倣って投降して来るのか? 分散した時点でお前にそんな影響力が残っているのか疑問だけどな」
「私、そんなに人望なさそうかね」
「向伏と佐久川は今、アーマゲドンクラブと殺し合い真っ最中だろ。対策部に身を寄せてる暇も、お前に構ってる暇すらないんじゃないか」
「あ、ちょっと訂正して。殺し合いじゃないよ。うちらは基本殺さないし、うちらは殺されないからね」
「基本、ね……例外を除外しての主張だな」
彼女が遥の言っている事を隅から隅まで疑ってかかっているのは、一目瞭然だった。
言葉の上ではそれを出していない分、潔い位に露骨に疑っている。
その対応も、元より殆ど嘘しか言ってない遥に不満はなかった。
「危険な状況だからこそ、これ以上フロート……変異体だけで意地張ってても仕方ないと思い知るだろうさ。元より、私らには国の先端医療技術による治療が必要だったんだ」
「自分達を病人と定義するのか。フロートは『この世に浮いて来た死者』というアイデンティティは捨てるのか」
「何よりも安全さと快適さ優先さね……正直、収容所なんて聞いたからどんな所かと不安だったけど、清潔で明るくていい部屋じゃないか」
「ネットもテレビも本棚も窓もないけどな」
「……クソ野郎」
「聞こえたぞ。まあ、いい子にしてたら、後日買ってやろう……多少利用制限はあるが」
女性研究員は薄笑いを浮かべながら、遥へいなす様に言う。
「ここは以前の収容施設と比べ快適だろうけど、同時に、壊れにくい」
遥は彼女から微妙に目をそらす。
「以前の様には行かないぞ。外でウロウロしている眼鏡にも、伝えといた方がいいだろう……伝えられるならだがな」
「眼鏡ね……私の名前を知ってて、彼の名前を知らないのかい」
遥の呟きで、研究員は怪訝な顔をする。
「まあな。教えてくれるのか」
「私の名前を知ってて彼の名前を知らない生者って、結構限られて来るんだよ」
少しきょとんとした顔をしてから、研究員は目を見開いて遥を凝視する。
「お前っ……」
「ここの仕切りが柴崎ちゃんだとして、対策部との接点が海老名先生じゃ色々とおかしいなとは感じてたんだ……彼は『ルフラー』とセットだった訳だな、うん」
遥と研究員はしばし無言で睨み合う。
「お前が素直に投降しに来たなんて、誰も信じていない……荒らしに来ただけでもない様だな」
「勿論さ。私と松根日香里を抑えようとしてるってだけで、あんたらの下心凄そうじゃないか……その辺の深い所に興味があってね」
潜めた声で遥が答えると、研究員は逆に少し張り上げ気味の声で返した。
「心しておけ……どんなつもりで潜ったとしても、調べるのは我々で、お前らは調べられるのだ。その逆はないとな」




