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フローティア  作者: ゆらぎからす
10.リービング
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192日目(1)

 192日目(1)




 空は既に白く、空気が熱を持ち始めていた。

 岩沿いの山道は、古びた手すりや石段で結構整えられている。

 道の奥にある洞穴には、鉄製の格子戸が設置され、半開きになっていた。

 扉の上には洞窟の名前を筆書きした、木製の看板。

 あまり人気もなく、知られてもいなかったが、この鍾乳洞唯一の観光客向けコースの入口だった。

 まだ営業時間外で、職員も客もいない事だけが、不幸中の幸いだった。

 本来は施錠されている筈の扉の奥から、何か(・・)が近付いて来ていた。


 ガシャアンッ!

 あああ、ああああああああ、しいいいいひゅううう

 ばちゃ、べちゃ…………ずるずるずる……

 扉にぶつかり、激しく揺れながら外界へと転がり出て来たそれは、人の形をしていた。

 口を開いたり歯噛みしたりしながら、淀んだ音を喉から絞り出している。

 サマージャケットもズボンも、黄色や茶色や緑色の混じった腐汁に塗れ、元の色が分からない程だった。

 倍近くに膨れ上がった真っ赤な顔から飛び出た灰色の目玉は、明後日の方向を向いている。

 顔も手も、皮膚の表面は波打ちボロボロにはがれていた。

「おおおああああおおおあ!」

 一際大きく咆哮を上げると、それはぴょんぴょんと跳ねる様な動きで前へと駆け出した。

 大きく開いた口は端からチーズの様に裂けて行く。

 両手をだらんと下げ、上半身を左右に捻る奇妙な動きを反復していた。

 百人がそれを見たら、百人が思うだろう。

 『腐った死体が歩いている』と。

 首や上半身を揺らしながら跳ね回るそれは、瞬く間に数十メートル以上進み、手すりを越えて歩道をコースアウトしてしまった。

 その時、再び扉が音を立て、同じ位に腐敗の進行した死体が大股で歩み出て来た。

「ぐうううううう……じゅうううううう……うううううう」

 こちらは目を剥いて顎を閉じながら、低く唸り続けている。

 溶けかけた目玉は虚ろに前を向いている。

 二体の第一種変異体――『末期発現者(マニフェスト)』は、互いの存在が分かっているのかも定かではない。

 7~80メートル程の間隔を保ちながら、歩道の外の林をどんどん奥へと歩いて行く。

 彼ら(・・)を離れた所から見ている人間がいた。

「E-2佐倉です、二体目が出て来ました。こちらも第一種、かなりの状態です。ええ、やはり太陽の反対側へ」

 歩道の曲がり角の辺りで待機していた若い男。

 二体の死者が出て来たのを見届けると、スマホでどこかに連絡している。

 通話を終えた男は、彼らを追わなかった。

 彼らが木々の間に消えるまで見送ると、顔を洞穴の扉へ戻し、監視を続ける。

 『最終兵器』を、数か所の入口付近で撒き始めてから10時間。

 最後に一番深く、入口から90メートル程で撒いてから5時間が経過していた。

 最後の散布は、一度どこかに行ってたけど戻ってきた『スラッシャー』と呼ばれている、本会員らしい男の指揮で行なわれた。

 『スラッシャー』は、散布に立ち会った後、さっさと『拠点』に行ってしまった。

 他の参加者今は半分以上が『拠点』に戻っている。

 現時点で残っている者達も、『ここで出て来たゾンビ』を、すぐに退治するつもりではなかった。

 『本物のゾンビ』を、もっと沢山作り、人の多い所に放ちたかった。

 まずはふもとの農家数件の集落に――出来れば市内まで行かせてから――

 そして、人を襲う『歩く死体』(ウォーキング・デッド)と派手に戦う。

 それが彼らの今日のプランだ。

 ゾンビによる被害が出てくれた方が、むしろ都合が良い。

 その方が『人類の敵と戦う』というカタルシスをより感じられるし、彼らを支えている『スポンサー』(・・・・・・)の希望にも沿っている。

 しかし、人気のない洞窟口をずっと凝視しても飽きてしまう。

 そうそう続けて何体もゾンビが出て来るとは、彼も思っていなかった。

 ここへ来た人間がゾンビに襲われるってのもありじゃないかな。

 そんな事を思いながら、そろそろ向こうの道から観光客や管理人でも来ないかと振り向きかけた。彼の喉に、白い指が触れた。

「――――?」

 後ろから伸びた手が、親指と人差し指で顎の下の頸動脈辺りを挟み、急激に締め上げた。

 反射的に引き剥がそうとするが、女性らしい細めの腕は彼の両手でもびくともしない。

 片手だけで喉に食い込む指も、普通ではない握力だった。

 その事を疑問に感じる前に、彼の意識は途絶えていた。


 ざっざっざっざっ

 二体の発現者は、地面の葉や枝を踏みしめる音と共に、熱気の籠る林を進む。

 規則正しく、早足な位のペースで足音は刻まれていた。

 行き先や足元の状態について、余計な迷いがないからこその早さだった。

 勿論、その分だけ彼らは何度もつまづき、足を滑らせて転倒する。

 転んでは、ずるずると何メートルも自分の身体を引きずってから起き上がり、また彷徨する。

 足の向きもその度に変わり、その進路はぐねぐねと曲がりくねっていた。

 前の一体と後ろの一体との距離は、どんどんと開いて行く。

 何十分ばかり、林を彷徨い続けただろうか。

 彼らに時間の概念など、もうありはしなかっただろうが。

 バラバラな動きながら、鍾乳洞出口から直線距離で百メートル以上まで進んでいた。

 更に二百メートル近く南方向へ進めば、彼らは山林を抜けて舗装された道路――県道294号線の上に出るだろう。

 県道を2キロ、彼らの速度で道なりに1時間も進めば、ここから一番近い麓の集落に入る。

 更に1時間かければ、市西部の住宅街エリアにまで到達するかもしれない。

「いいいいいいいっ」

 前を歩いていた一体が、突然小刻みに首を振りながら唸り出した。

 激しい動きの首周りはぶちゅぶちゅと音を立て、捻れた皮膚は今にも裂けそうだった。

 落ち着きのない、苦しげな様子だった。

 苦痛に追い立てられながら、どれだけ目を剥き首を振っても視界に入らない何か(・・)を探し求めている。

 斜面をよろけながら自分の前方と左右をせわしなく見回す彼は、背後に小さな音で着地したものに、全く気付いていなかった。

 体重を乗せて踏み込んで来る足音と、揺れる空気の接近で、ようやく彼の本能が振り向いた時。

 一メートルはあるハンマーの先が、その頭部だけを真横に吹き飛ばしていた。

 頭部は首から離れる前後に、幾つもの頭蓋の破片と灰褐色の粘液の塊となって四散する。

 左手だけでハンマーを振り切った梨乃は、その勢いのまま身体を捻って彼から離れ、体液がかかるのを避けた。

 まだ倒れていない首から下は放置し、ハンマーも振りっ放しでその場に投げ捨てる。

 そこから6~70メートル斜め後方にいる、もう一体へ向かって駆け出した。

 (二体目)は、向かって来る梨乃を既に認識していた。

「お゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ」

 濁った声で短く吠えると、両手を前へ突き出し、強張った動きで梨乃へ向かう。

 その足元に落ちた、茶色いソフトボール大の球体。

「あ゛……」

 次の瞬間、煙と共に彼の周囲で爆散する。

 ボールに詰め込まれていた火薬と、一センチ程のねじが、顔や全身至る所の腐肉を抉り飛ばしていた。

「ごお゛お゛お゛お゛おおおおっ!」

 白煙立ち込める中、ボロボロの彼は怯む様子も見せずに突進する。

 梨乃もまた駆けながら、新たな道具を腰の後ろから抜き取った。

 三重に折り畳まれた直径2センチ、長さ30センチ程のステンレスパイプ。

 端の一本だけを掴んで振ると、金属音と共に伸ばされ、3倍の長さになる。

 その先端は斜めにカットされ、尖り切っていた。

 元々は、彼ら(・・)の使っていた道具だった。

 パイプだけではない。

 さっきのボールも、末期発現者(マニフェスト)の頭を潰して体液を避ける動き方も、彼ら(・・)から教わったものだった。

 彼との距離が3メートルを切った時、槍投げの要領で投擲する。

 『どんっ』というぶつかるみたいな音を立てて、パイプは彼の腹に深々と突き刺さった。

 次の瞬間、梨乃は一気に彼の目の前まで迫ると、パイプの柄を右足の蹴りで押し込む。

 背中まで貫通したのを相手の振動で確かめると、足の重心を傾けて地面へと倒して行く。

 途中で左足を浮かせて、全体重をパイプへと乗せる。

 パイプの切っ先は樹木の根元の土に刺さり、彼は串刺しのまま地面に縫いつけられる形となった。

 梨乃はパイプから飛び降り、距離を取って身構える。

「が……ああ……」

 彼は手足を小刻みに動かしながら、地面と木の根を背に呻いている。

 梨乃は構えを解き、彼に背を向けて歩き出す。

 さっき彼女がハンマーを投げ捨てた場所。

 頭を失った発現者は倒れていて、ぴくりとも動かなくなっていた。

 梨乃はハンマーを拾い上げると、ずるずると引きずりながら彼の所へ戻る。

 彼の前で左手でハンマーを持ち上げ、ギブスで固定された右手首を添えながら、ゆっくりと顔の高さまで振りかぶった。

「…………」

 その腕が止まる。

「梨乃……ちゃん……か……」

 彼――牧浦が、すぐには分からない程変わり果てた顔を上げ、喉の奥で微かに彼女の名を呼んだからだ。

「せきが……い……せん……」

 牧浦が言葉を発しようとする度に、舌がはみ出し、ごぼごぼと喉が鳴る。

 それでも一言言い切ると、彼はポケットのガラケーを取り出し、手からの腐汁が内部に入らないように注意しながらボタンを押す。

 梨乃は自分のスマホを出して、彼のガラケーへ向ける。

 彼女の画面に現れた通信完了のアイコンをタップする。

 送られて来た電話番号には「緊急コード:広域焼却」とだけ書かれていた。

「奥のエ……一帯を……そ……で……もしもの……たのむ」

 時々言葉が途切れ、もがく様な動きで腕を泳がせながら、牧浦は最後の伝達を残そうとする。

「ほか……は?」

 スマホ画面の数列に視線を落としながら、梨乃は尋ねた。

「片付け……よ……ぜんぶ、ぼくら、みな……僕と彼だけ……最後にしくじ……みたいだな」

 くぐもった牧浦の声は、どこか笑う様な響きがあった。

 だが、骨が見えるまでに崩れた顔に、彼の苦笑の面影はなかった。

 ぐっぐっと笑った直後に彼は、激しく全身を震わせ、泡立つ様な音で吠えた。

「あ゛お゛お゛あ゛あ゛あ゛いだいいだあ゛あ゛あ゛あ゛だ」

 串刺しになったままの身体を、上下にじたばたと揺らす。

 絶叫を聞きながら、梨乃は左手のハンマーを握り直す。

 前髪の中の目は何かを言いたげに数度瞬くが、口元は固く閉じている。

 牧浦は動きを止めた時、しっかりと梨乃を見据えていた。

「す…まな…いね……」

 梨乃は微かな笑みを唇に浮かべ、ハンマーを横に振りかぶった。

「これで……やっとこれが…普通の…死…………またせたな…中井くん」

 柄の端に右手首の金具を添えてのフルスイングは、さっきよりも静かに風を切っていた。


「ここじゃ殺らないの分かってるけどさ、『拠点』に置きっ放しにしとく訳にも行かないのよ、コレ」

「なるほど、色々大変なんですねえ」

 渓流沿いの岩場を、二人の男が喋りながら歩いている。

 40過ぎの男は、自分の火炎放射器のタンクを大きなリュックに上手く隠していたが、ホースとノズルは腰の辺りにだらしなくぶら下げている。

 昨夜からずっと背負っているせいか、汗だくで真っ赤な顔をふうふう言わせている。

 30前後の比較的若い男は、小さめのショルダーバッグを背負い、両手には何も持っていない。

「腐ったゾンビの大群を市内でやっつけるって言うけどさ、そうなると、コレも使えないんでしょう?」

「いや、どうでしょうね。家の近くとかじゃヤバいんでしょうけど、広い公園とか空き地とかならOKなんじゃないすか」

「ええ? そうかなあ」

「有事ですし。だって……以前は、(・・・・)そうだった(・・・・・)んでしょう?」

「うんまあ、非常時だって言ってね」

「地元の町会から感謝状も頂いたんですよね」

「後で没収されたけどねえ」

 中年男は苦笑しながら、ノズルをくるくると弄ぶ

「避難場所の数千、数万人の中から、よくテロリア見つけましたよね」

「何、昔の人の知恵だよ。あいつら、『15円50銭』ってきちんと言えないんだ」

「銭ですか……本当に昔って感じしますね」

「しかし、佐倉くんだっけ……本当に大丈夫かね」

「トイレじゃないかなと思いますけどね。あの子、昨日からトイレ近かったでしょ」

 二人は林の中を、観光客用の鍾乳洞入口へと向かっていた。

 そこに配置されていた大学生から、一時間以上報告がなく、こちらから呼びかけても応答がない。

「沢山のゾンビが出て来て、見つかって逃げられなかった……とかじゃないでしょうね」

「最後の連絡では、二体出て来たとしかなかったよ……僕も」

 中年男はそう言って言葉を切る。

 リュックを背負い直して、息をつくと言葉を継いだ。

「昨夜の散布では、中の奴らがそんなに化けないと思うんだ」

「洞窟の外とかに、残った奴がいたんですかね」

 二人ともどこか嬉しそうだった。

 『本物のゾンビ』を征伐するのもいいが、やはり、生きている人間と大差ない『第二種変異体』を狩る楽しみも捨てがたかった。

 細菌感染させる事が無理そうなら、普通に壊して良いと言われてもいる。

 知性を持って抵抗して来るゾンビもどきをこそ期待して、獣道を進む二人は気付かなかった。

 自分達の歩くすぐ横で、木の根元にしゃがんでいた梨乃に。

 梨乃がこうしていると、生者どころか仲間のフロートでも――花紀や津衣菜でもすぐに気付かない事がある。

 向伏のフロートの中でも、彼女ほど木々の中に溶け込んでしまえる者は滅多にいなかった。

 ばさばさばさばさっ!

 動いたのは梨乃ではなく、二人の頭上にしなりながら落ちて来た何本もの蔦だった。

「ああっ!?」

 若い方の男にだけ絡みついた蔦は、無数の棘が腕や胴体に食い込んで外れそうにない。

 無理にはがそうともがいている彼の膝が、蹴られた様に曲がって、彼は転倒し更に絡まる。

「何だあっ―――がっ!?」

 怒鳴った中年男の顔が何かで張り飛ばされている。

 梨乃が立ち上がったのは、その次の瞬間だった。

 中年男の横から左手をゆらりと薙いで、彼のリュックのショルダーストラップ下がぶつぶつと切断される。

 バタフライナイフの柄尻でノズルを握った手を強打すると、力なく五指はノズルを離した。

 リュックが落ちた時、左腕で腋と肩を、右腕で首を、足に足を絡めて、梨乃は全身で彼を地面へ引き倒した。

 技術のない、馬鹿力による押さえ込みだった。

「ご……が……ぐぐ……」

 喉や胸へ掛ったあまりの圧力に、中年男は罵る事も叫ぶ事も出来ずに呻いている。

 彼の目の前にあるのは、熊やゴリラではない。

 多少長身でグラマーかもしれないとは言え、青白い顔の普通の少女だった。

 長い前髪の間の整った無表情が彼を見据え、目の前に見覚えのある金属が突き出された。

 火炎放射器のノズルは彼の顔を焼き尽くせる向きで、ナイフと一緒に握られていた。

「すこ……よし……」

「あ……?」

「こう……せな……ちぃ……」

「何だ、何を言って……」

 突然ぶつぶつと呟き始めた梨乃に、男は訝しげに聞くが、質問途中で顔を引き攣らせる。

「まさか……コレで焼いた子供の……」

 梨乃は答えない。そして、ノズルも男の顔から離れない。

「やめろ………やめ……」

「なぜ」

 梨乃の問いに、男の顔から生気が抜けた。

 今の梨乃に彼を焼く事をやめさせる、十分な理由などどこにも見当たらなかった。

 虚ろな目で、失禁までやり出した男から、梨乃はノズルを離して下へ向ける。

「私はままだった……ないのがする事……つぐな…う……あな……たち」

 『あなた達』まで言えず、梨乃は言葉を詰まらせた。

「ぼくは……しぬのか……」

 口をパクパクさせながら、男はかろうじて梨乃へとそう尋ねる。

「誰でも死ぬ、最後に」

 彼女は男に視線を戻し、『今日は暑くなる』というのと同じ位、当たり前の様にそう答えた。

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