191日目(3)
191日目(3)
狭く曲がりくねった横穴が、いくつもの道へと枝別れしていた。
その中にあった、急角度で斜め下へと伸びていた一本。
まるで滑り台みたいな暗いトンネルの奥で、美也は出られなくなっていた。
異変の報せを聞いた時、彼女は鍾乳洞深層部の広場で荷物の検品をしている最中だった。
『突然、子供達が痒さや痛さを訴え始めた。ガスの様なものが入って来たらしい』
彼女が聞いた情報はそれだけで、敵の攻撃なのか自然現象なのかも分からないままだった。
それでも荷物の中に含まれていた防護服を着ると、中層部へと向かう。
駆け付けた先々では、子供も大人も反射的に外へ出ようとしていた。
皆が、痛みと『痛みを感じる』という異変に動揺し、混乱しながら洞窟から逃げ出そうとしている。
美也は彼らを見つけては引き止め、なだめながら逆に深層部へ誘導しようとした。
外で待ち伏せていた『アーマゲドンクラブ南関東』の事を知っていた訳ではない。
奥の広場の方が『より薬や資料が揃っていて、手当てもしやすい』と考えただけだった。
洞窟の外にも、薬の隠し場所や避難スペースは多少あった。
止められなければ、そっちでも良い――最初はそう思っていた――間一髪で逃れて来た仲間から、出口での惨劇を聞くまでは。
奥への避難は絶対のものとなり、誘導の緊迫度は全く変わってしまった。
動ける者で全ての防護服を着て、30分近く何度も洞内を走り回っていた。
何人の仲間を助け、何人の仲間を助けられなかったのか。
まだ点呼もカウントも取っていなかったが、およそ3分の2位は誘導出来た様に思える。
口々に苦痛を訴えていたフロート達に、外見上特に異常は見られなかった。
動かなくなった部分もないという。
深層部まで来て数分経つと、痛みが薄れて来たという者もいる。
ガスの効果は『痛み』だけで、その痛みもそんなに続かないのではないか。
奥へ逃げて来たフロートの間から、そんな声も聞こえて来た。
とは言え、フロートの身体にどんな影響があるのかは、これからも様子を見ないと分からないだろう。
逃げ遅れがいないか洞内探索を続けていた美也は、洞穴の一つに近付いた時、スマホの画面で電波の入りを確認する。
洞外にいる筈の梨乃やもみじ、洞内の牧浦達などに連絡を取りたかった。
スマホもガラケーも共に圏外だった。連絡はまだ諦めるしかない。
やはり遥さんの忠告通り、無線機を揃えておけばよかった。
そんな後悔が脳裏を横切る。
連絡を取り合う事で、『安全な出口』があるかないか確かめたかった。
自分だけで洞内から見て回るしかない様だった。。
今、美也の近くにある出口は、山の西側の崖壁に空いていた竪穴らしかった。
どこへ移動するにも不向きという理由で、フロート達も全く使っていなかった穴だ。
穴の外は凸凹の険しい土壁になっていて、人の姿はない。
安全とまで言い切れないが、一応覚えておく事にしようと美也は思う。
ゆっくり後退しつつ振り返った時、洞窟の奥から今戻って来たらしい三人と視線が合ってしまった。
三人とも生者で、若い男だった。
それぞれ長さ1メートル程のバールや手斧、ハンマーを持っていた。
突然の遭遇に美也は固まってしまったが、向こうも凍りついた様な姿勢で美也を凝視していた。
フロート狩りも、フロートと直接対峙するのも、初めてだった彼ら。
いつの間にか後ろに現れて退路を塞いでいた美也に背を向けて、一斉に奥へと逃げだした。
その後を慌てて駆け足で追う美也。
向こうが『初心者でこちらを恐れている』なんて事は考えてなく、ただ『彼らを奥へ行かせたらいけない』という一念だった。
「げえっ!? 追って来るぞおっ!」
背後を振り返って、近付いて来る美也に気付いた一人が叫ぶ。
美也は暗い洞内とは思えない速さで、彼らとの距離を詰めて来ていた。
彼らは更に狼狽し、先を争って逃げようとする。
何度も石柱にぶつかり、水たまりに足を取られ、濡れた石に滑りながら。
「待ちなさいっ!」
「ひっ……来るな、来るなあっ!」
バールを持った男は、それを振り降ろしたりスイングさせる事さえ出来なかった。
美也へと自分の武器を闇雲に突き出すばかりだった。
立ち止まろうとした美也の胸上を、バールを握ったままの男の両手が軽く押した。
「え……きゃっ!」
あっけない程簡単に、美也は自分の足元を踏み外し、手前に口を開けていた穴の中を滑り落ちて行った。
「きゃああああああああっ!?」
身を縮めながら何度も石壁にぶつかって減速し、大きな衝撃もなく穴底に辿り着いた。
ヘルメットライトが消えてしまい、周囲は完全に真っ暗だった。
フロートの視界でも、何も見えない程の暗さだ。
美也は恐る恐る身体を起こす。
四つん這いになる事は出来たし、手足が折れた様子もなかった。
顔や衣服がどうなっているかは、全く見当つかない。
石に手を当てて、穴を這い上って元の場所へ戻れるか確認する――無理そうだった。
頭上からの声が、やたら反響して穴の底まで聞こえて来た。
「落ちたのか?」
「ああ……だと思う」
「死んだのか?」
「元々死んでるだろ……分からない」
鍾乳石で出来た斜面はつるつると滑り、掴めそうな所も、足を掛けられそうな所もなかった。
「どうする?」
「どうも出来ねえよ……上がっても来ないみたいだけど」
「いいよ、放っておこう……取りあえず行こうぜ。無線もそう言ってる」
そんな会話を最後に、足音が遠ざかって行った。
亀裂の外から聞こえて来ていた、フロート狩り達の声や足音は殆ど聞こえなくなっていた。
「ああ、やっちゃいました……」
美也は悲しげに呟く。
足音は出口へ向かっていた。
彼らをわざわざ追いかける必要などなかったのだと、今更気付く。
彼らの話声に混じっていたトランシーバーの音声。
遥さんの言った通りに、こちらも無線を用意しておけばよかったと、今更ながら後悔する。
彼女は他のフロートと比べると、少し動きが鈍い方だった。
単純な腕力や直線的なダッシュやジャンプとかなら生者以上の力を発揮出来たが、とっさでの反射的な動きは出来ない。
そして、彼女自身、その事を忘れている時が多かった。
これは美也に限った事ではない。
フロート化して生前以上の機敏さを見せる者が多い一方で、起き上がった直後のぎこちなさが抜けず、反応や動きが鈍いままとなるケースも少なくはなかった。
津衣菜や鏡子とかが前者なのに対し、美也や日香里は後者だった。
フロート狩りが去ってからどれだけの時間が経ったのか、頭上は静まり返ったまま。
さっきの男達は、恐らく洞窟内のフロートを狙っていたのだろう。
そして、洞窟の外にいる敵の規模からして、洞内に入ったのは彼らだけじゃなさそうだった。
だが、今はざわめきすらも聞こえては来ない。
「みんな大丈夫かな…………いつまで……こうなんだろう」
敵が降りて来る事もない代わりに、自分でも登れない穴を見上げながら美也は呟く。
上の状況から完全に隔絶されたその穴底は、考え様によってはむしろ一番安全な場所だった。
――美也の求めた、『生者に煩わされる心配の一切ない』場所だった。
だが美也は到底それを喜べる心境ではなかった。
安全な筈のその場所が、今はとても怖い。
目を開けていても晴れない、塗り潰す様な闇。
こんな光も音もない場所で、長時間一人でいた事は今までなかった。
勿論、今は闇雲に声を上げるべきでないのは確かだった。
上の声がここに聞こえたのと同じく、大声で呼べば穴のすぐ近くには聞こえるみたいだ。
だけど――ここを誰かが通るだろうか?
この辺りは最初に一度、美也が下見した位で、その後に通ったフロートは全くいなかった筈だった。
――――じゃあ、ずっとこのまま?
「嫌だ」
脳裏を横切った自問に、思わず口に出して答えていた。
「やだ……嫌よ……一人は嫌」
こんな風に、『暗い穴の底で人知れず朽ちて行ければ』と心のどこかで願っていた。
ただ願うだけでなく、それがフロートの理想的なあり方だと思い込もうとした。
だけど――『一人で』は嫌だ。
一人が嫌だったから。
一緒に死ぬ事を選んだ。
突然思い出す記憶。
やつれた顔の母親。彼女に笑顔で頷き返す美也。
母と、幼い弟と、手を握って車に乗り込む。
まるで昔みたいにどこかへドライブに行く時の様――いや、私達はドライブに行くんだ。
だから私は、あの時、家族一緒で行きたいと思った
生きるのも死ぬのも、一人でじゃ嫌だったの
自分の望みのロクでもなさに、美也自身が呆れていた。
「罰が当たったんでしょうか……こんな事に、子供達や仲間の未来を付き合わせようとしていたから」
それが彼らの為だと思い込みながら――思い込みたがりながら。
ここでは一度も見てはいないが、焼き殺されたフロートは見た事がある。
昨日まで顔を合わせていた子供達や大人の何人かが、自分のせいでああなっている。
そんな内罰的な考えが湧いて来るのも止まらない。
私の様なフロートは、ずっとここで一人待ち続けているべきなのかもしれない。
そうすれば、いつか迎えに来てくれる。
―――お父さんとお母さんとしいくんが
でもそれでいいのかな。
みんなに会えなくなるのも嫌だな。
死んだ筈なのに死ねなくて、冷たい身体、停まった呼吸、開いた目。
もう何も言ってくれない、手も握り返してくれない母と弟。
深い深い森の中でまた一人になった私。
花紀さんに助けてもらった時、みんなに出会えた時、とても嬉しく、そして悲しかった――
「おい……おい!」
美也が気付いたのは、何度目の呼び声だったか。
長い闇と静寂は、彼女の意識をかなり蝕んでいたらしかった。
まだ混乱の残る意識を集中して、その声が聞き覚えのあるものなのに気付く。
「何で……」
顔を上げた美也は、目を細める。
強めのライトが美也のいる辺りを照らしている。
「おお、やっぱ起きてんじゃねえか」
「何で、あなたがそこにいるんです!?」
美也は、力の入った声で、上から覗き込んでいるらしいフナコシに詰問した。
「一班。現在地、入口Dよりおよそ70メートル。ゾンビとの遭遇ありません」
「追撃二班、どうですか」
「二班。現在地、入口Fよりおよそ30メートル。ゾンビは見つかりません」
「追撃三班、どうですか…………三班?」
「三班はさっきからずっとこうなんだ。全く返事がない」
隣にいた火炎放射器男が、無線の代わりにスラッシャーへ答えた。
「Gの河川口から入って行ったんだよな……ここにヤバいのがいるかもしれない」
「ふうん……」
「追撃四班、現在地、入口Cよりどんくらいだろ……西へ四百メートル以上、未確認の竪穴近くです。若い女のゾンビに遭遇し追われました」
「行き過ぎだよ、戻って!」
ここにはいないアーマゲドンクラブ南関東のメンバーが、無線から彼らに指示を出す。
スラッシャーの目つきが変わった。
割り込みになるのも構わず、無線のマイクから質問を投げる。
「それで、どうしましたか?」
「それが……突き飛ばしたら、穴に落ちて、そのまま上がって来れない様です。どうしましょうか……やっぱりとどめは」
「何才位ですか? 髪型は? 顔は――手足はどうでした?」
上ずった声で更に尋ねるスラッシャーだったが、無線の向こうの学生達が美也の外見特徴を並べて行くにつれ、表情から力が抜けて行く。
『両手足は普通に揃っている様だった』と聞いた時、露骨に肩を落とし、どうでもよさげな声で彼らに言った。
「ああ、もういいです。放っときましょう」
「しかし、どうしましょうか」
「何がです?」
「さっきの火炎放射から、こっちに来るゾンビはいなくなりました……ガスの中で痛みに耐えているのではないでしょう。小賢しくも、奥へ逃げたんだろうね」
「ああ、そうでしょうね」
「追撃班をもっと奥まで進ませても大丈夫でしょうか? 何か、彼らをそのまま行かせるのは、危険じゃないかとも」
「まあいいんじゃないですか……」
「え?」
スラッシャーの反応に、仲間達も訝しげに彼を見る。
彼らを戻す事について何か異論があるというより、心底興味なさげな声だった。
仲間達の視線にも、気付いているのか気付いていないのか定かではない。
「じゃ、じゃあ、この150メートル圏でゾンビを見なかったら一度退却させるという事で――いいね、スラッシャーくんも……あれかい、今度はあれを使うつもりかい?」
「んー……」
相変わらず、心ここにあらずという感じのスラッシャーだった。
生返事をしながらも、のろのろと自分のレザーバッグを引き上げると、中から何十枚ものパケの入った透明なケースを出して見せる。
『おお』という仲間達の歓声をよそに、面倒くさそうにそれを足元に置いて、さっき学生達に運ばせた箱の一つを開ける。
中にはさっき見せたのと同じスプレー缶が、パケと同じ位の数入っていた。
「これ、どうするんだい。菌を缶の中に充填するんじゃない様だね……このままノズルに取り付けて吹き付けるのかね」
「ああ、それですがね……」
スラッシャーが説明しようとした矢先、彼のスマホに着信が入る。
話を邪魔されて不機嫌そうに画面を見た、彼の表情が変わる。
さっきの『若い女のゾンビ』の報告の時以上の熱気だった。
「もしもし」
「セメント工場別班です。おめでとうございます。読み的中です」
「――本当か? そ、それじゃあ……」
「はい……どこにいたのかは分かりませんでしたが、出て来ました。資料の通りの……創元雪子です」
聞き覚えのある、南関東メンバーの仲間の声。
スラッシャーは、『もぬけのからの筈の廃工場』に自分の勘で別動グループを割り振っていた。
電話は、彼らからの報告だった。
周りにも聞こえる音量だった為、他の者たちも少し驚いた顔をする。
「全く、スラッシャーさんの言った通りです。車椅子で……建物Bに入りました。ここには少し前に、何体か他のゾンビらしき仲間が入っていますね」
スラッシャーは無言のまま、鼻息荒く画面を凝視している。
「あの、スラッシャーさん? それで、どうします? 彼女が建物Bに入った場合は……」
「え、ああ、はいはい」
鼻息しか聞こえない電話にキモさを感じたのか、少し引いた様な声で電話の向こうの別働隊は彼に尋ねる。
「予定通り、ふたを閉じますか?」
「や……やって下さい!」
「了解」
短い返事の直後に、何がどうなったのかも分からない様な、金属の軋み砕ける様な音、長く低い地響きが電話から一分近く鳴り響いた。
「うわ、やりすぎたかな……でも、これで完全に押さえられた筈です。早めに来て下さい、お待ちしてます」
轟音の収まった後に、そう言い残して電話は切れた。
「彼女があそこを出る時、準備で入る可能性の高かった場所がいくつかありまして、その一つに入ったんですよ。周囲の鉄塔やパイプに爆薬を仕掛けてありまして、それで一気に小屋ごと下敷きにした訳で」
「爆薬……そんなものがあったんなら、建物に直接仕掛けて一気に吹き飛ばしてた方が良かったんじゃ……」
「それじゃ意味がないでしょう……非対称の美しさとは、グチャグチャのミンチの事ではありませんよ。では、僕はこの辺で。最終兵器については説明書を読めば分かると思いますので」
電話を切ったスラッシャーは、満面の笑みと高揚した声で、いそいそとそこから去ろうとしていた。
「いや、急にそれだけ言われても……ちょっと、落ち着いて」
「そうですね。まず追撃の学生さん引き揚げさせてから、入口Gより10メートル以内で散布してみて下さい。まずは、その『ヤバそうなの』を感染させてみましょう。その結果を見て、次を考えますから。では、ここでっ!」
慌てて呼び止める仲間にそれだけ言うと、スラッシャーは物凄い勢いで駆けて行ってしまった。
「ん? おおっ……」
廃工場へと向かう車内。
未だ興奮冷めやらぬ様子だったスラッシャーは、ダッシュボードのスマホが『アーマゲドンクラブ』関連の最新情報を表示して行くのを見て、少し冷静さの戻った声で関心を向ける。
自家用車や、貸切バス、東京から北へ向かう国道と高速道路をフル活用して。
夥しい数の死者狩りが、ここより数十キロ北の向伏市へ押し寄せようとしているらしい。
この佐久川市も、死者側のボスキャラがいるらしい織子山市もスルーして、間抜けなアーマゲ会長が拉致された向伏市をひたすら目指しているという事だ。
北陸方面から、関東方面から、東北から、アーマゲドンクラブもアーマゲドンクラブじゃない者も入り乱れての、怒涛の様な集中ぶりだった。
「あっちも張り切り出しましたね……僕だって負けてられませんよ、ずっと待って待って待ち焦がれた、運命の再会なんだから」
満足げに微笑みながら、彼はアクセルを更に踏み込んだ。
既に視界の先に浮かんでいた廃工場のシルエットは、ぐんぐん大きくなって行く。
その一画から僅かに上がっている煙までが、おぼろげに分かる程だった。
明けましておめでとうございます。
年の変わり目も普通に仕事してました。
元旦も普通にこの原稿書き上げてました。
今年もよろしくです。




