191日目(2)
191日目(2)
反響するわんわんという遠い音は、女子供の上げる悲鳴か。
何度も身じろぎし、身体中を石柱に擦りつけながらフナコシは思った。
皮膚の裏側がピリピリと熱い。
冷たい洞窟の中なのに、まるで大きな電子レンジの中に放り込まれた様だった。
自分が痒さや痛みを感じている事自体が異常だと、今ようやく気付いた所だ。
それ以外には今まで通り何の感触も、尻や手についた石の感触さえないのに、この痛みだけが全身に巣食っている。
火傷の様な苦痛は皮膚だけではない。
乾いた眼球も、口腔内も鼻の奥も、溶けて泡立ちそうだった。
顔を腕に近付けて、ごしごしと擦りつける。
その間も、彼は全身を捩り続けていた。
女子供のフロート数人が一度通り過ぎて行った後は、彼の目の前は誰一人通らなかった。
子供達は彼同様に腕で身体中を擦りながら、「あつい、あつい」と叫んでいた。
フロート達は、洞窟の出口を目指していた。
洞内に何かのガスが撒かれたのは、誰の目にも明らかだった。
――さっきの奴らが撒いていた白い粉だ。
フナコシには、この異変の原因に心当たりがあった。
心当たりがあるだけではどうにもならなかった。
ここから一歩先にすら出られないし、誰かに伝える事も出来ない。
そして、この痛みが続いてどうなるのかも分からなかった。
「く……う……うううう……ぎ」
涙も唾も出ない、汗もかかない。
火傷のようではあっても、生きていた時に感じたのとは全く異なる苦痛だった。
口をついて出るのは、歯ぎしりと呻きだけ。
近付いて来る、さっきより小さな足音にも注意を向ける余裕はなかった。
「おじさん……おじさあん」
何度も大きな声で呼びかけられて、ようやくフナコシは顔を上げた。
「今、そちらに行きまーす」
小学生くらいの女の子二人が、二人がかりで足場用の鉄板を運んで溝の向こうに立っている。
子供用の化学防護服を着用し、ガスマスクを着けていた。
んしょんしょと声を掛け合いながら、二人は溝に鉄板を架ける。
二人がかりとは言え、二メートル以上の足場をこんな子供が持って来るというのも、普通ならあり得ない光景だった。
とてとてと足場の上を駆けて、二人はフナコシの横までやって来た。
「じっとしててくださあい」
「えい、えい、ええいっ」
ぎこちない手つきでだが、フナコシの拘束を順番に解いて行く。
手の自由を取り戻した彼がまず第一にやった事は、その場に倒れ込みのたうち回る事だった。
「ぐ……このクソガキがあっ!」
転がりながらも一番近くにいた子供に手を伸ばし、捕まえようとする。
解放してもらった感謝など、微塵もなかった。
ずっと考えていた報復を実行に移す事、それだけが彼の僅かな意識を占めていた。
二人の子供は俊敏な動きで、フナコシの手を避ける。
滑りやすい石の上なのにぴょんぴょんと飛び跳ね回って、足場の架け橋まで戻る。
もう一人の子供が頬を膨らませて、フナコシを咎める。
「もーっ、大人しくしてないと、橋外しちゃうよ」
「あの……立つ時は気を付けて下さいね……」
バランスを崩し前のめりに転んだフナコシへ、捕まりかけたぽぷらが気遣わしげに声をかける。
ガスが効いていなくても、生半可では捕まえられそうになかった。
子供を捕まえるのは諦め、フナコシは恐る恐る這い進む。
視界を滲ませる程の痛みに加え、平衡感覚だってないのだ。
ただ足場を渡る事さえきちんとできる保証はない。
「ぐ……」
じゃらっ
金属音に振り返ると、後ろに来ていたぽぷらが、彼を石に繋いでいた鎖を伸ばしていた。
鎖の先端を持って足場を渡り、もみじと合流して少し高い石の上に乗る。
足場の上一メートル半の所に、鎖はぴんと張られた状態となっている。
それを両手で手繰りながら、フナコシは恐る恐る足場を渡り始めた。
「がんばれがんばれー」
「もう少しですっ……」
鎖を二人で持ちながら、もみじとぽぷらは彼を励ます。
数分かけて渡り切ると同時に、彼は力尽きてその場にしゃがみ込んでしまった。
「やったあ、おじさんがんばりました」
「いえーい」
二人はフナコシに駆け寄り、顔を見合せてからそこに置いていたナップザックを覗き込む。
「おじさん、苦しそうです。何か薬を上げた方がいいですか」
「痛いだけで、何もないって言ってたけど、大丈夫かな」
「時間がたてば薄くなるっても、はるかさんはいってました」
痛みをこらえながら身体を起こし、改めてフナコシはもみじとぽぷらに尋ねた。
「……お前ら……どうして、俺を……」
「おじさんを逃がす様にって、『なの姉』から言われて来ました」
きょとんとしているもみじに代わって、ぽぷらが少し緊張した声で答える。
「『なの姉』……? あの、俺をここに閉じ込めたクソ生意気な女とは別か?」
あの女、確か『みや』と呼ばれていた――『なの姉』なんてあだ名がつきそうな名前ではない。
「『みや姉』はおじさんの為にって……なまいきなんかじゃ……おじさんだって、あいつらが怖いからって」
「『なの姉』は、ここへは一度も来ていません」
むっとした口調で食い付くもみじをなだめて、ぽぷらが再び丁寧な口調で、フナコシの問いに返答した。
「一度も会ってねえのに、俺を逃がして良いとか決めたのか、そいつ」
『なの姉』とやらは、ゾンビ共の中でも穏健派と言うか、ちょっと考えの甘い奴なのかもしれない。
フナコシはそんな事を考え、ほくそ笑む。
「どこにいるんだ、そいつ? 会って礼を言わなくちゃなんねえな」
「わたしたちも分かりません。でも、BかEの出口にいるみたいです……会うのは後です」
「そうそう、おじさんと残ってる子と、『みや姉』を連れて……奥に逃げないと」
「あ―――奥ぅ?」
思わず怪訝な声で聞き返すフナコシ。
「今からここ出るんじゃねえのか? こんなガスが充満してるってのに」
「奥にはガスはありません。広い場所もあるし、痛みを押さえられそうな薬もあるかもしれません……それに……」
「出るなんて、絶対ダメだよ! あいつらが火炎放射器持ってあちこちの出口で待っている! もう、何人もそれで――」
顔をくしゃくしゃにしながら、もみじは力んで叫んだ。
ようやくフナコシにも、今来ている敵――かつての仲間の取っている戦法が把握出来た。
死人に理不尽な痛みは与えるけど、恐らく大きなダメージはない刺激ガス。
洞窟の浅い場所だけで最小限撒いては撤収し、あとは外で待ち受ける。
『自分達にとって危険な毒ガスが洞内に充満している』と思い込んだフロートが、穴から我先にと出て来るのを。
「そして、こっちにいるはずのみや姉が見つかりません……なの姉からは、みや姉とおじさんとで、残っている子達を説得し、奥へ連れて行くよう言われています」
「お前らとあの女と……俺?」
さすがのフナコシも呆然とする。
いくらなんでも信用され過ぎているんじゃないのか。
その『なの姉』という女は、俺がどんな事情でここにいるのか知らねえんじゃねえのか。
「俺がお前らと協力して……ガキを助けるってのか? 何をどうやれば、そういう風に思えんだ」
「わたしにも良く分かりません……おじさんはそんなに悪い人なんですか?」
ぽぷらの不安げな問いに、フナコシは思わず答えていた。
「悪? 俺が? ふざけんな……俺は正義の味方だ」
存在自体が悪の、お前らゾンビを嬲り殺しにして、殲滅し尽くす。
そんな正義の執行者だ。
――『だった』んだけどな。
過去形だからこそ、彼にとっては、力を込めて言い張らなければならなかった事だった。
「なら大丈夫だと思います」
フナコシの真意など全く分かっていない様子のぽぷらは、そう言って笑顔になった。
「もみじはおじさんどんな人か知らないけど、なの姉が、おじさんは絶対みや姉助けてくれるって言ってたから、全然しんぱいしてないの!」
訳分かんねえ。
何で会った事もない筈の俺を、そこまで信用しているんだ――しかも的外れな方向で。
そう思ったが、もうこれ以上口を開く気力は残っていなかった。
こいつらの言う通りにして、一緒に動いていれば、いずれその『なの姉』とやらにも合流できる様だ。
本当に頭の緩い奴だったら、利用してやればよい。
「出て来なくなりましたね……悲鳴も聞こえない」
足元でまだ燻っている、炭化したフロートを爪先でつつきながら、『スラッシャー』は愁いを湛えた目で呟いた。
その中に雪子の姿がないのを、当たり前だと思いつつも確認していた。
――まだまだだよね、雪子ちゃん。
こんなに簡単に彼女が出て来るとは、彼も思ってはいない。
「こちらに気付いたんでしょうか」
「他の出口でも、ゾンビどもは出て来てない様ですね……」
「ふむ……」
仲間達の言葉に、彼は頷き返す。
火炎放射器――工事用のガスバーナーを改造して、ガソリンや灯油と混合させられる様にした自作品らしい――を背負った男が、洞内へ踏み込もうとするのを制止する。
「ああ、ここから入らない。あれだけ炎を吹き込んだ所に入って、酸欠で死ぬ気ですか」
「ああ、すみません……空気がなければ、こいつも使えませんよね」
「お待たせしました」
大きな鞄を抱えて、地元のワナビーの学生が二人、林の奥から姿を見せた。
『スラッシャー』の前まで来ると、彼らは鞄を地面に置いて、中身を皆に見せる。
鞄の中には何本もの60センチ~80センチ程度の長物が詰め込まれていた。
手斧、バット、ハンマー、バール。
それらを一本一本出して、学生グループやワナビー達の前に置いて行く。
「勿論、日本刀やグルカナイフだって用意出来ましたけどね……いざという時の方便が難しくなりますから」
不安げな表情を浮かべながらも、各自それらの武器を手に取って行くフロート狩り初心者達。
全員に武器が行き渡ったのを確認した『スラッシャー』は、一回手拍子を鳴らすと明るい声で指示を出した。
「さあ、それでは、お待ちかねの第二フェーズです。この洞穴A の皆さんは、ここからじゃなく洞穴Cに移って掃討戦と行きましょう……おや」
無線機から聞こえる割れた声の報告に、彼らは耳を傾ける。
『D80mで敵4個体発見、追撃による撃破を試みるも失敗――一体による執拗な抵抗を受け、他個体をロスト。抵抗の一体、狭穴への落下にてロスト』
「誰かが犠牲になって、他を逃がす――進歩のないいつもの小賢しい手口ですね。いいです、放っておきましょう。皆さんも深追いはいけませんよ――せいぜい100メートル以内ですね」
「しかし、奴らが奥へ逃げれば良いと勘づいているなら、もっと深くに避難する筈ですが」
「それです!」
ワナビーではなく、フロート狩りに二年以上のキャリアを持つ『アーマゲドンクラブ南関東』の仲間からの質問。
『スラッシャー』は、その問いを待っていたかの様に、威勢の良い返事で自信たっぷりに頷き返した。
「ここで、とっておきの『最終兵器』の出番ですよ」
質問した男と、火炎放射器の男からは、おおっと歓声が上がる。
武器を手にしたワナビーの参加者や、アーマゲドンクラブ南関東のメンバーでも、残り一人が何だか分からず聞きたげにしていた。
『スラッシャー』は、ぎこちない右手にスプレー缶を持ち、左手にこれまた白い粉末の入った小さなパケを持って、無言で一同に掲げて見せた。
「それは……? さっきのガスとは違うんですか?」
「勿論。これは水で爆発増殖し空気拡散する、ある雑菌の改良種の粉末です。対策部の研究所で開発されたこの菌は、第二種変異体の腐敗、組織分解を促進し、第一種発現を高確率で誘発します」
「いやちょっと待って、まじで……?」
「そんな菌が実在するんですか……」
「さっきのガスと違い、横穴の洞窟や地下道なら一時間以内に2km先まで到達する。通常の抗体を持つ生者には全くの無害ですが、中にいる人間面したエセゾンビどもの大半が、本物のゾンビに生まれ変わるでしょう。究極のゾンビメーカーにして、ゾンビキラーです」




