第23話 橘 花楓という女
えりの話はさておき、仕事は忙しい
お陰で彼女の研修の事など気に留める隙がなかった
旅行部からの予約、副社長からの呼び出し
医療部へ患者さんの通訳、営業課のサポート
とにかく私だけでなく皆も忙しかった
そんな日のお昼休み、久しぶりにいつものメンバーで
社食でランチを取ることになった
総司も左之兄も添乗が一段落したからだ
「土方くん久しぶりに見た」
「えりちゃんは久しぶりに見ても変わらないね」
「それ褒めてるの?貶してるの?」
「ん?君しだいだよ」
なんていつもの調子で食べていた
遅れて一さんがやって来た、お互いに此処では久しぶり
その隣には通関で研修中の橘さんの姿があった
「すまん、橘も一緒にいいか」
同じグループ会社とは言え知り合いが居ない
こんな広い所で一人で食べるのは寂しいもんね
「どうぞ」
私は快く正面の席を勧めた
私は必然的に橘さんの正面となり、えりの前に一さん
一さんの隣に左之兄、その向かいが眞子
総司は全員か見渡せる俗に言う王様席に座った
えりが何かに気づいたのか
「斎藤さんはこっちがいいんじゃ」
「ああそうだな、俺は端に座る」
一さんが橘さんと席を入れ替わらろうとすると
「大丈夫ですよ。斎藤課長はそのままで、私が左手を使えばいいんですから。ね?」
橘さんは一さんの行動を制し、持っていた箸を左に持ち換えた
それを見ていた総司が空かさず
「君、左利きなの?」
「え?ああ、いえ。私は右利きです。でも、斎藤課長が左利きで時々肘がぶつかるので箸だけ左に変えたんです」
橘さんは屈託のない可愛らしい笑顔でそう答えた
「右利きの人が左に変えるなんて大変だったんじゃない?」
「いえ、斎藤課長を端っこに追いやるよりは」
「ふうん、健気だね」
橘さんはふふっ、と笑みを浮かべ一さんを見つめた
私はこの席に座るべきではなかった
さすがに鈍感だと言われる私にでも分かる
彼女は一さんの事が好きだ
箸の持ち手を変えるなんて私は思いつかなかった
あの時代利き手は命と同じくらい大事だった
だから一さんの左側は常に空けるようにしていた
右利きが常な時代、左利きの一さんは特別だったから
彼女の自分が変えればいいと言う発想は目から鱗だった
そして、それだけ一さんの隣に居たという証
一さんの左側を自然に制した彼女
さり気ない気遣い、控えめな言動に私は太刀打ち出来なかった
「瑠璃」
食堂を出る時に名前を呼ばれた
会社で瑠璃と呼ぶのは、同僚のえりたちと兄くらいだ
一さんは会社では滅多な事がない限り私を呼び止める事はない
「左之兄、どうかしました?」
「どうかしました?じゃねえだろ」
左之兄は私のおデコを指で突っついてきた
「お前、顔に出てるぞ」
「え!」
左之兄は1週間しか居ねえんだから気にするなと
気づかれていた、という事は彼女にも気づかれただろう
微妙に落ち込んだ状態で研修も最終日を迎えた
各課はお疲れ様でした会という名の飲み会をする
営業二人の兄と一さんは参加するだろう
「瑠璃、今日の夜なんだか」
「飲み会ですよね?行ってきて下さい」
「しかし」
「課長不在じゃカッコつかないですよ。私は山崎さんか歳三兄さんと帰りますから、心配しないでください」
瑠璃は二人の仕事が終わるまで一人、残業をする事にした
しかし、キーボードに置いた指は動かなかった
飲み会だからお酒が入ることは間違いない
橘は必ず斎藤の隣に座るだろう
お酒が入れば自然と言動は大胆になるもの
彼女が「斎藤課長、酔っちゃいました」と言いながら
しなだれ掛かる姿が目に浮かんだ
斎藤の左腕にもたれ掛かり、上目遣いで見つめる姿を
「だあぁ!何考えてるのっ!ばか」
フロアに響き渡る、自分の声は妙に虚しい
時計は9時をさそうとしていた
「遅くなった、帰るぞ」
歳三と山崎だった
結局、残業で残ったものの仕事は進まなかった
三人は軽く夕飯を済ませると、歳三の車で家路についた
駅前を通ると、見覚えのある顔が歩いていた
「研修の打ち上げか」
「はい、今日で最後でしたから」
ふと窓から反対側の歩道を見ると
よろける女を支えながら歩く男の姿が映った
女は男に顔を寄せ、今にもキスをしそうな勢いだ
車で通り過ぎる瞬間、見えてしまった
斎藤と橘だった
「!?」
思わず口から声が出そうになるのを手で押さえた
キスしそうな勢いだったがキスはしていない
客観的にそういった雰囲気の男女を見るなど無かった
しかもそれは、誰よりも愛して止まない斎藤だったのだ
胸の奥を棒で殴られたような衝撃だった
これまで恋敵など考えたことは無かった
毎日が死と背中合わせだったあの頃に
そんな事を考える暇はなかった
それに女は戦に出ることはなかったのだ
特別な状況下で実らせた二人の関係を
瑠璃は疑うことを知らなかったのだ
平和なこの時代、美しい女性は星の数ほどいる
真面目で容姿端麗な斎藤がモテない筈がない
「バカみたい」
気づくとそんな言葉を呟いていた
「瑠璃さん」
「・・・」
山崎は瑠璃の視線が気になり見ていたのだ
自分の見ていてものと同じものを瑠璃が見ていたとしたら
そう思い声を掛けたが瑠璃は無反応だった
ボウっと遠くを見ていた
見ていなければいいと願いながら帰宅した
出たっ、橘ぁぁ。
決して悪い娘ではないんですよ。
本当に尽くすタイプの素敵な女性なんです。




