第45話 胸の疼き(斎藤の憂鬱)
ここ函館支店は立ち上げから3年目を迎えた
函館港から海外へ向けて様々な物を輸出している
本社と違ってライバル社はほとんどない
しかし、通関に於いては複雑だった
生乳、鶏卵、生鮮が多く、動物検疫や産地証明書など
毎回の手続きと手間が多かった
それも近頃は信頼を得ることが出来たのか
かなり早い時間で検査が終わるようになった
ここももう大丈夫だろう
「斎藤課長、今夜みんなで飲みに行きませんか?」
「今夜か・・・、分かった。定時で上がれるよう調整する」
「ありがとございますっ」
橘は良く気が利く部下の一人だ
常に先回りをして、サポートをしてくれる
彼女のお陰で社内の雰囲気がいいと言っても過言ではない
仕事も順調に終わり、予定通り定時で退社した
ロビーで今日行くメンバーが待っていた
「待たせたか」
「大丈夫です、みんな今降りてきたばかりてすから」
「今日は日本酒に合う海鮮居酒屋ですよ」
「そうか、楽しみだな」
時々こうして仲間と飲みに行く
あまり口が上手くない俺を頻繁に誘ってくる
気の置けない仲間と言ってもいいだろう
「まずは全員生ビールで乾杯ですね」
今日も彼女は笑顔で皆の分を注文する
「橘はよく動くな、たまにはゆっくり座っていたらどうだ」
「えへへ、性分ですから仕方がないんです。でも斎藤課長がそう言ってくれるなら、そうします」
そう言って、俺の隣に腰を下ろす
「なっ、」
体がくっつくのではないかという程に俺寄りに座る
時折、腕が触れることもある
俺は左利きだ、俺の左に座った橘とは必然的に手が触れる
少し右に距離を開けた
「あっ、すみません。当たってしまいますね」
そう言って橘は箸を左に持ち直した
「左も使えるのか?」
「ふふっ、練習したんです。こうしたらぶつからないでしょ?何時でも隣に座れますね」
俺の為に左で使う練習をしたと思わせる口振りだ
いつもより酒を飲むペースが早いような気もするが
大丈夫なのか?
「お疲れ様でしたぁ、気をつけて」
方向が同じだった橘と駅まで歩く
彼女の足取りは非常に危なげだった
「大丈夫か?飲み過ぎたのではないか」
「えー大丈夫ですよ」
ふらふらと覚束ない足は車道に引き寄せられる
まったく、仕方がない
「危ないぞ」
俺は橘の腕を取り歩くことにした
「斎藤課長、優しいですね。大好きです」
「分かったから、真っ直ぐ歩くんだ」
「流さないで下さい、本当に好きなんです!」
突然歩みを止めて、真剣な眼差しでそう言った
彼女はとてもいい女だと思う
男ならこういう女と一緒になるのが幸せなのだろう
頭ではそう思える
しかし、何故か心に響かないのだ
「斎藤さん、私じゃダメですか?」
「駄目ではない。しかし、それは俺ではない」
「どうしてですか、私には斎藤さんしかいないのにっ」
泣きそうな顔で真っ直ぐな思いを伝えてくる彼女に
俺はどうしても応えることができなかった
(一さん、一さん・・・)
脳の奥から心の奥底に響き渡るあの声が
どうしても忘れられなかったからだ
「すまない」
「・・・誰か、好きな人がいるんですか」
好きな人、なのだろうか
俺はその者を何処かで手放してしまったのか
または、手放されてしまったのか
どちらにせよ、好いていたのだろう
「ああ」
「そうですか。私はその人には勝てない、のですね」
「すまない」
「謝らないで下さい、いつかその人を越えますから!」
橘は俺の手を振り切って、タクシーを拾い帰って行った
彼女の気持ちを受け止める事は出来ない
恐らくこの先も、何度言われようが変わらない
俺は何かとても大切な事を忘れているのではないか
それは夢に出てくるあの女が関係しているのだろう
どうしても顔が見えないのだ
名前が思い出せないのだ
しかし、その者を想えば胸の奥が痛む
本当は離したくはなかった
ずっとこの腕の中に置いておきたかった
「くっ、っ!」
何なんだ 苦しくて、切なくて
それでいて、心の奥が温かく癒やされていくような
黄金色の光、空に舞い上がる風
俺はいったい、どうしてしまったのだ
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