関東管領就任
1546年秋
長野業正と北条幻庵の交渉の結果、関東管領山内上杉家の後継が定まった。
関東管領に就任したのは宅間上杉家の上杉房成である。房成は山内上杉家の跡目を相続し、朝廷から従五位下兵部少輔に任じられた。この就任は12代将軍足利義晴から許可を頂き、更に偏諱を賜り、【宅間上杉房成】は【山内上杉晴憲】となったのだ。朝廷と将軍家には古河公方足利家と北条家からの上奏があった。
鶴岡八幡宮にて関東管領の就任式が執り行われた。古式に則った厳粛なものであり、太刀持ちを長野業正と北条家の垪和氏続が務め、山内上杉家の後ろ盾に北条家がいることを印象付ける象徴的な儀式であった。古河公方足利晴氏を筆頭に北条氏康、千葉利胤等の関東各地から大名が参列し、盛大なものとなった。
これに先立つ交渉は難航し、河越城の戦いの直後から始まり、交渉が終わったのは夏も終わりの頃であった。
・上杉憲政の遺児龍若丸は長野業正が扶育し、命の保証を認めること。
・宅間家が関東管領を継承するのではなく、宅間上杉房成が山内上杉家の跡目を継ぐこと。
・この戦いで北条家が占領した松山城と鉢形城は一旦山内上杉家に返却した上で、北条氏の目付を城代として常駐させること。
・家宰の職を廃して評定衆を置き、評定衆の合議をもって政治を行うこと。
これらの交渉の結果、山内上杉晴憲の居城を鉢形城とし、家老の大石氏と藤田氏には幻庵の息子二人を養子に入れて晴憲の直属とした。
評定衆には長野業正を筆頭に白井長尾憲景、総社長尾景孝、足利長尾当長、松山城主垪和氏続の五人が任命され、二月に一度は評定が行われることとなった。松山城主の垪和氏続は北条家と山内上杉家の両属となっている。
秩父地方は鉢形城の後方の守りとして北条家の領有が認められ、蓼沼城を秩父領有の拠点とし、河越城の戦いで武勲を立てた鈴木大学助が城主となった。真田俊綱と大藤景信と狩野康光が与力として従っている。
1546年冬 早雲寺
「爺!秩父から便りが届いたぞ。なんとか順調そうじゃ。」
大道寺盛昌を通して鈴木大学助の協力を得ている。秩父地方で新たな試みを始めたのだ。稲の農法は小田原式として伊豆、相模と武蔵の一部には広がっているが、秩父地方は水田に適した土地が少ないので小田原式だけではなく、他の産業振興をしなければならない。
目玉は養蚕である。北関東は古くから養蚕が盛んな地域であったが、打ち続く戦乱により贅沢品である絹の需要が無くなり廃れていった。これを復活させるのである。この時代、日本の絹製品の品質はあまり高くなく、生糸を中国から輸入して作った織物が最高品とされていた。そこで屋久水軍の新納忠光に蚕自体を輸入できないか相談していたのだ。
明国の養蚕は国営事業であり、厳重な管理の元、絹の生産が行われていた。最高級品を扱うのが浙江省の杭州と江蘇省の南京である。忠光は「門外不出の蚕ですからあまり期待しないで下され。」と言っていたが、倭寇集団によって密かに持ち出され、倭寇集団の本拠地の一つ双興港で養蚕が行われているとの情報を得たのだ。
最初の輸入は航海の途中で蚕が全滅して失敗したが、翌年の航海で小田原に持ち帰ることができたのだ。秩父では狩野康光に養蚕事業の責任者を任せてある。養蚕事業の副産物として新たな硝石作りも始めている。蚕糞を用いて行う方法でこちらは大藤景信が担当する。
真田俊綱には鋤鍬隊を率いて小田原式の農法を伝える役目と共に、馬の生産体制確立を指示している。秩父地方は関東でも指折りの馬産地である。優秀な牡馬を種馬とし、夏から計画的に種付けを行って増産するのだ。近親交配とならないように綿密な血統の記録をつけさせる。
「それは重畳。若様がそれほど石高の無い秩父領有を強く勧めた理由が分かり申した。」
秩父地方は鉱物資源や木材資源も豊富で豊かな土地になる可能性を秘めている。先々楽しみなのだ。
「うふふ。西堂丸様、何やら楽しそうですね。」
お絹殿が声を掛けてきた。お絹殿も大手柄を立てている。お絹殿のお陰で椎茸栽培の目処が立ったのだ。椎茸は希少価値が高く、貴重品として高値で取引されている。お絹殿は椎茸が見つかった場所に傷を付けた古木を置いて自然栽培に成功したのだ。菌糸を木屑に混ぜて古木に打ち込む方法を模索している。
「ほほほ、西堂丸様のご指示で動いていたら、銭で蔵が建ちましたよ。」
此度の戦で酒や壺の販売、下肥の回収料などで風魔衆はかなり稼いだようだ。
「必要な時は幾らでも回しますからご遠慮なくお申し付け下さい。ふふふ」
頼りにしているのだが、お絹殿が言うと些か寒気がするのであった。




