北条包囲網
1545年春
今川家の使者として聖護院門跡道増が小田原にやって来た。今川家と北条家の和睦について話し合いが行われたのだ。
しかしながら、興国寺城を含む河東地方の領有を巡り折り合いが付かない。北条家からすると早雲公が貰った土地であるのに対して、今川家からすると早雲公に治めさせた今川家の土地である。結局、交渉は決裂した。
交渉の最中も今川家の軍師太原雪斎は河東地域を取り戻すべく暗躍をしている。古河公方、山内上杉家、扇谷上杉家、武田家、里見家と北条家の周囲の大名に文を送り、着々と北条包囲網の構築を進めているのだ。
西堂丸はそれを知ってか知らずか農具や工芸品の量産、改良に明け暮れていた。
1545年夏
今川家が河東地方へ兵を向けてきたとの連絡が入る。それと時を同じくして、古河公方、山内上杉家、扇谷上杉家、里見家が兵を挙げた。
北条氏康は北条幻庵と白備を河東地方に派遣し、北条綱成の黄備を河越城に入れた。里見家の動向に警戒して赤備、千葉家の動向に警戒して青備を残していたが、千葉家が北条方を表明した事で里見家を抑え込む事に成功。江戸衆の青備が岩槻城の太田氏に圧力を掛けられるようになった。
北条氏康は四面楚歌を打開すべく、武田家を通じて今川家との停戦を模索するが、その武田家が今川家との婚姻同盟を優先し、今川軍と合流してしまった。北条氏康は救援が必要と判断し、自ら小田原衆と黒備を率いて出陣した。
忠貞の「河東に誰か送りますか?」の問いに、他言無用を念押ししてから存念を話す。
「忠貞、儂は北条、武田、今川の三国同盟を考えておるのじゃ。ただ河東地域が北条のものでは今川は納得しないであろう。儂は父上に河東地域を諦めて貰いたいのじゃ。」
「しかし!弱気を見せれば付け込まれまするぞ!」
「既に敵の掌の中じゃ。負けを最小限に抑えるしかあるまい。此度は太原雪斎にしてやられたようじゃ。」
西堂丸は大道寺盛昌を旗頭に大藤景長の鉄砲隊15名と真田俊綱の鋤鍬隊50名を河越城に派遣した。河越城は本丸、二の丸、三の丸、八幡曲輪の連郭式の城である。河越城に入った大道寺盛昌は真田俊綱の鋤鍬隊に命じて丸馬出しと南東に出丸を構築。塹壕を掘って盛り土しただけの簡単なものだ。出丸に真田俊綱を入れて真田丸と名付けた。
時を置かず、上杉連合軍8万に完全に包囲されてしまう。守る北条勢は僅か3千、河越城の攻防が始まった。
まず扇谷上杉家の難波田憲重が攻め掛かってきた。鋤鍬隊の長槍投石で赤子の頭程もある石を撃ち込み、崩れたところに北条綱成が突撃し、撃退した。続いて古河公方の重臣、簗田晴助が攻め掛かる。簗田勢は馬出しを避け、真田丸に攻撃を集中。俄か作りの出丸である。真田俊綱は暫く抵抗したが、真田丸を放棄して城に逃げ帰った。
「エイッ!エイッ!オー!」簗田勢が勝鬨をあげたその時。ダダーン!ダダーン!ダダーン!と三度の銃声が響き渡った。本丸の狭間から鉄砲15丁による三段撃ちだ。遠眼鏡で敵大将を確認し、腕の良い5名の狙撃手と鉄砲を準備し手渡す。10名の息のあった技である。この銃撃で簗田晴助は討死。簗田勢は総崩れとなった。関東で初めて合戦に鉄砲が使われた瞬間でもあった。
思わぬ被害に包囲側は持久戦に持ち込む。城を包囲し、河越城を囮にして北条氏康を誘き出す事になったのだ。
1545年秋
武田家が仲介し、北条家と今川家の停戦が成立した。北条家としては屈辱的な条件であったが、背に腹は代えられず、北条家は河東地方を放棄して双方矛を収めることになった。
一方、河越城を包囲する連合軍では長引く滞陣に軍規も緩み、夏の暑さと衛生意識の低さから陣中には悪臭が漂い、疫病が蔓延していた。
西堂丸は河越の【連雀商人】清田内蔵助等を使い、上杉憲政の陣へ酒を献上し、連雀商人達は上杉憲政の信用獲得に成功する。続いて清田内蔵助を通じて遊女を送り込む。遊女は風魔衆の頭目の一人【女衒】庄司陣内の手の者である。
続いて下肥壺を売り込ませる。遊女の「あたしはこんな(臭い)所に来とうはなかった。」の言葉に上杉憲政は下肥壺を購入。壺の回収には風間出羽守の手の者を入れ、回収の手数料を徴収した上、万人単位が放り出す下肥を手に入れる事に成功した。
これを全ての陣営に行うのではなく、陣営毎に差をつけて行い、戦意の低い山内上杉憲政陣営には酒、遊女、下肥壺を販売。最前線の扇谷上杉朝定陣営には何も提供せず。古河公方足利陣営には酒だけを販売、といった具合に不平等感を出して、不和の種を蒔く事に成功した。
人物紹介?
連雀商人は連雀と呼ばれる篭を背負って商いをする行商人のことです。大道寺政繁は河越城主時代、この連雀商人を保護し唐人小路という街を整備したそうです。




