いざ、京都へ。その四(朝廷)
1569年春 京都 近衛邸宅 北条氏親
「近衛家養女となりました【篤子】でございます。武蔵守様とお会いできました事、とても嬉しゅうござりまする」
近衛邸にて氏政に嫁ぐ事になっている篤子との面会を果たした。篤子はかなり緊張した様子で、たどたどしい挨拶であった。口上を終えると脇に座っていた山吉局を見上げて心配そうな顔をしていた。山吉局がにっこりと微笑むと篤子はホッとした表情を浮かべたのだ。
「篤子殿は利発な姫ですな。舅となる身としても安心致した。関東に下るのはまだ先の事になるがしっかり学んで下され」
篤子殿は「はいっ」と元気よく返事をすると満面の笑みとなったのである。そして同席させていた仙洞院を紹介した。篤子の老女である山吉局は仙洞院が伴われて来た事に驚いた様子であった。
篤子の老女山吉局が直江景綱の妻女である事は、近衛様から聞かされており仙洞院には事前に伝えていた。しかし、山吉局は仙洞院の同行を聞かされていなかったようだ。
「この者は仙洞院と言って江戸城の奥を束ねる者の一人なのじゃ。新九郎の話は仙洞院から聞くとよい。山吉局も積る話しがあろう。ゆっくり語り合うが良い」と篤子との会談を切り上げて、北条氏光を伴い近衛前久様の部屋へと向かったのだ。
「武蔵守殿、篤子の様子は如何でありゃしゃりましたか。普段はお転婆な娘でおじゃるが、武蔵守殿が来られると聞いた時からようけ緊張してはりましたわ」
「しっかりとした挨拶でした。これも近衛様のお力添えのお蔭です。ところで朝廷の様子は如何でしょうか」
朝廷では【二条晴良】が北条家を貶める発言をしているそうだ。『北条家が平家再興を願っている』『北条家は源頼朝を倣い朝廷に盾突くに違いない』『北条家は寺社の権威を蔑ろにしている』そして最後に『和泉の九条家荘園を横領するに違いない』と申し立てたという。
これに対して近衛前久様は『北条家は関東の静謐を願っているだけだ』『寺社の征伐ではなく横暴な行人の討伐である』『関東の争いを収めるには北条の名は必要であった』『和泉北条家は家名を伊勢に戻す事も厭わない』『和泉北条に荘園横領の事実はない』と応じていたのだ。
結局のところは近衛派と九条派の派閥争いである。三好家の没落によって九条派が劣勢となっており、巻き返すために近衛家に近い北条家を標的としたのである。最終的には誠仁親王が仲裁し、北条家に対して事情を聴取する事が決まったそうだ。
「このような事ならもっと強く武蔵守殿を参議に推すべきでした。難儀な事であらしゃりますなぁ」
「いえいえ、むしろ助かったいうべきでしょうか。参内しての釈明など頭が痛くなるところでした。ところで北条家への伝奏はどなたが務めるのでしょうか」
「誠仁親王様からは三人の伝奏のご指名がおじゃりました。そのうち一人は神祇官もおじゃります」
誠仁親王様は北条家にかなり配慮して下さったようだ。近衛家と九条家に中立的で北条家とも縁の深い三条西実枝様を伝奏に指名したのだ。
もう一人は勧修寺晴豊が選ばれた。更に吉田兼見が北条家の神道の在り方を問い正すようにと仰せつかったようだ。
「三条西実枝様が居られるのは心強いです。堂々と北条家の言い分を申し上げましょう」と意気込んで答えると、前久様は「面子を潰さぬように程々でよろしい」と苦笑いしたのです。
◆◆
近衛邸に武家伝奏の三人が訪れたのは翌日の早朝であった。近衛前久様は席を外しており、氏光と共に衣服を整えて相対したのである。
会談を主導したのは勧修寺晴豊様であった。二十代の若者であるが、誠仁親王様の腹心であるそうだ。
「武蔵守に問い質す。元来、伊勢氏を名乗っていた者が、一度は朝敵となった北条氏を名乗り、更に平氏別当を興したる真意は如何なりや」
「謹んでお答えいたしましょう。我が家祖、伊勢盛時は関東に安寧をもたらすべしとの命を受けて下向いたしました」
関東は尚武の地である。京からも遠く戦乱の渦中にあり、中央の威光を掲げて武力で屈服させたとしても、所詮は他所者である。関東武者を心服させるのは至難であった。
「長き戦いの中で関東には関東の流儀が必要な事に気付いたのです。全ては関東に安寧をもたらすために必要な事なのです。その刃を朝廷に向けるなどと微塵も考えておりませぬ」
勧修寺晴豊様は真剣な表情で聞いていた。口調こそ厳しいが、その眼差しは攻撃的なものではなく、相手の虚言を見逃すまいという冷静さと理知的な輝きがあった。
「では、和泉北条家が九条家の荘園を押収したという訴えは如何なりや」
「そのような事実はございません。身共が知るところでは、戦を避けて、九条家の荘園が放棄されており、一時的に保護している村はあります。いつでもお返しできる状態です」
氏光は和泉国で安堵状を出す際に九条家の荘園に対して自衛が可能か確認していたそうだ。保護を望んだ村に対しては地頭が戻るまでという条件で保護しているだけなのだ。
「九条家からの返還の申し入れがあったのではないのかな」
「それが我等も当惑しております。地頭の派遣も無く。返還の申し入れも無いまま、横領したと訴えられた次第なのです」
ならばと三条西実枝様が九条家との仲介役を買って出てくれる事になった。横領の件は双方の行き違いとして収める事になったのである。
「次の問いが最後であります。関東において寺社の社領を押収しているとの訴えがある。如何なりや」
「そのような事実はござりませぬ。北条家が成敗しましたのは神仏の威を借りて私腹を肥やす行人共にございます」
北条家は学侶が安心して教えを学び、領民に教えを広められるように寺社を保護していると説明した。真っ当な行人達は北条家の寺社奉行衆と共に学侶を支えているのだ。必要とあらば実態を全て開示するので検分して頂いても構わないと伝えた。
「有り体に申し上げましょう。朝廷にも改めるべき事柄があると存じます。朝廷の方々は地方の政に無関心であられる。例えば関東には親王任国がございますが、親王様が下向されたことは今だかつて一度もございませぬ。これでは朝廷の威光も地方には届かないと思われませぬか」
晴豊様は真剣な表情から眉根を寄せて厳しい表情となった。
「武蔵守は誠仁親王様に関東に下向するべしと申されるのか」
「いいえ、主上の嫡子たる親王様を名指しなど畏れ多いことです。ただ、尊き血筋の御方が地方の政に関心を示せば、朝廷の威光も地方まで行き渡るのではないかと、申し上げているだけにございます」
「なるほど、武蔵守の言い分にも一理あるように思われる。主上にお伝え致そう」
勧修寺晴豊様の問い掛けが一段落したところで「神祇官として武蔵守の考えを伺いたい」とこれまで黙っていた吉田兼見が問いかけてきた。吉田兼見は三十代中盤の男である。吉田家は代々神祇官を務め、祖父の吉田兼俱によって大成された【吉田神道】は仏教・道教・儒教の思想を取り入れた総合的な神道説である。
「先程、北条家の奉行衆が寺社を支えていると申されたが、北条家の武威によって寺社を支配していると伝え聞いております。北条家の都合の良いように教えを曲げているのではありませぬか」
「これは実に心外な仰せでござる。神道を【根】、儒学を【枝葉】、仏教を【花実】とする思想を基に寺社改革を行ったきたつもりです。我が北条家こそが、吉田神道を実践していると自負しておりました」
北条家の寺社改革の基本方針は八幡宮や神宮を信仰の根幹とし、寺社奉行衆は儒学の有り方が間違っておらぬか正す役目を担っている。八百万の神々に対する感謝と家族や君臣の秩序を守ることを規範にしていれば、如何なる宗派も許容しているのだ。
「残念なことに儒学の教えを都合よく解釈する者も多くございます。高位の僧となってから破戒を冒し、私利私欲に走る者達を北条家は許すつもりはございません。志学院に孔子廟をお祀りしているのは五常五倫を浸透させる為なのです」
五常とは仁・義・礼・智・信という徳性の事で人としてあるべき姿の教えである。五倫とは父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の関係を意味し、良き関係を築くための教えである。五倫の代表的な徳性が忠・孝・悌という教えなのだ。
「北条家の言い分は理解しました。儒学の教えに反する破戒僧が多いのも事実です。君臣の序を説く儒学を奨励する事に問題はありませぬ。しかし懸念も感じます。北条家は関東にて君主たる事を望んでいるのではありませぬか」
「朝廷にも幕府にも再三に亘って申し上げておりますが、北条家にはその意思はございません。あるべき姿に戻しているだけなのです。その証拠として儒学に関しては王学(陽明学)を導入しています」
「なんと、まだ日ノ本には浸透しておりませぬが、身共も書物を取り寄せ興味深く検証しているところでした」
陽明学は儒学の一派でありながら儒学の欠点を指摘していた。行き過ぎた儒学には上に立つ者が腐敗した際に、それを正す行為をも君臣の序を乱すと一蹴される危険があったのだ。陽明学の要点の一つは『君主たる者は清廉でなければならない』という教えである。兼見卿も陽明学の教えを研究している様子であった。
「王学の教えは家祖である早雲公の二十一ヶ条の遺訓と二代目氏綱公の五箇条からなる訓戒に通じるものです。北条家において決して侵してはならないものなのです」
「なら尚のこと、問い質さねばなりませぬ。北条家は朝廷の政が君主たるに相応しくないと判断された時は如何するおつもりか」
「些か、質問が飛躍しているように思われます。北条家は長らく続く乱世を終わらせる為に日夜励んでおります。あるべき姿に戻った時に、朝廷が君主の政たるに相応しいものとなるよう協力するのが臣下の務めに思われます」
「朝廷に刃を向ける事はないと言い切れますか」
「仮に北条家が朝廷に刃を向ける事になったとしましょう。それは君臣の序を乱す行為に他なりませぬ。たちどころに家中に不信不和が蔓延し、北条家は国を失う事になるでしょう」
兼見卿は理解はしたが納得はし難いようであった。朝廷の有様を顧みて、清廉たるべしという陽明学の教えと比較しているのかもしれない。
「兼見卿、御納得いただけないのであれば、どなたか神祇官を関東に遣わしていただけないでしょうか。我等には隠し事をする意図はございませぬ」
「承った。神祇官の件も主上にお伝えいたそう。今一つ問い質したい、北条家では如何なる宗派も許容すると仰せであった。しかし、浄土真宗を禁制としているのは如何なる事であろうか」
「勘違いされては困ります。北条家が禁制としているのは【造悪無碍】の教義を持つ一向宗にございます。一向宗の者達が浄土真宗に帰依したがゆえに混同されています。悪行を善しとする教えを広める訳にはまいりませぬ」
一向宗は【阿弥陀仏が悪人を救済するという言葉を拡大解釈し、悪行を行うことを恐れるな】と説いたのである。この一向宗の者達が浄土真宗に帰依し、乱世の世に絶望した民衆と結び付き、造悪無碍の教義を拡散したのである。暴徒と化した民衆を扇動した者達もいたのであろう。これらが一向衆を形成していったのである。
「兼見卿、ひとつだけご忠告致します。耶蘇教のことにございます」
吉田兼見の一族である清原枝賢は明鏡博士として、耶蘇教の教義が明鏡道(儒学)の教義との共通点を見い出し布教の後押しをしていた。
「耶蘇教も明鏡道も人としてあるべき姿を教えておりますので共感することでしょう。しかし、耶蘇教と神道は相入れませぬ」
神道は八百万の神を認め、どんな教義でも受入れることのできる懐の深い教えである。しかし、耶蘇教は一神教であり、他の神の存在を許容できない厳しさがあるのだ。
「金言ありがたく思います。胆に銘じましょう」
言うべき事を言いきった所で査問会は終了となった。これから朝議が行われるとの事で、伝奏の三人は近衛前久様と連れ立って参内したのである。
◆◆
近衛前久様が三条西実枝様を伴い帰宅したのは、夕餉の準備が整おうかという刻限であった。武家伝奏より伝えられた内容を審議するため、長い時間を要したそうだ。夕餉を共にして朝議の様子を聞かせて頂く事となったのである。
「武蔵守も和泉も心配であらしゃりましたな。北条家の言い分を主上にお認め頂くことが叶いました。安心召されるがよい」
「近衛様、三条西様、此度の御尽力忝く存じます」と氏光と共に頭を下げた。
関東の政に朝廷も関与するべきではないかという問い掛けが朝議を長引かせる要因となったようだ。誠仁親王様が自ら下向しても構わないと言い出したそうだ。流石にそれは認められなかったが、替わりに誰を充てるかが課題となった。
近衛前久様は正親町天皇の異母兄【覚恕】様を推し、それに対抗するように二条晴良は伏見宮貞敦親王の第五皇子【応胤入道親王】を推薦した。覚恕様は天台座主の就任が内定していたのもあり応胤入道親王が下向すると決まったようだ。
「鎌倉に新たな親王家を興すことにおじゃりました」
これは近衛様と前もって相談していた内容の一つである。関東の政に如何にして携わっていただくのが良いか、いくつもの提案を行っていたのだ。応胤入道親王が鎌倉にて親王宮家を興し【鎌倉宮】を称する。そして鶴岡八幡宮と鎌倉五山を統括する事になるのだ。
神祇官の派遣も決まった。吉田兼見卿の弟で【梵舜】殿である。梵舜殿は鶴岡八幡宮の別当職となり、北条家の寺社奉行の監督をすることになったのだ。これにも二条様と近衛様の対立があったそうだ。梵舜殿を推す近衛様に対して、二条晴良は【白川伯王家】から推薦したのである。ここまで来るとただの嫌がらせとしか思えなかった。
それらの事前準備を監督する為に、勧修寺晴豊様の関東下向も決められたのである。勧修寺晴豊様は鎌倉宮の準備が整うまで関東に滞在し、北条家の様子を報告する役目も担っている。更に北条家に対しても朝廷を支える氏族たるべしという事で官位を賜ることになったのだ。
鎌倉宮応胤親王が【上総守】の官位を賜ることが決まっており、それを支える【上総介】には久留里衆の旗頭・北条氏忠が内定した。また和泉北条氏は伊勢氏に名を改めてから和泉守を賜ることになった。
「氏光も官位を頂く事になるのであれば、嫁を探さねばならぬな」と笑い掛けると、それを聞いていた三条西実枝様が「儂の娘は如何でおじゃるか」と申し入れてきた。「あここ殿であれば氏光殿とお似合いではあらしゃりませんか」と近衛様が嬉しそうに同意し、媒酌を務める事になったのだ。
「それでは名も改めさせましょう」と実枝様と北条氏親からの偏諱として実親と名乗らせる事にしたのだ。目の前でトントンと話が進む中、唖然としている氏光が少し可哀そうになったが、皆が楽しそうであったので有無を言わさず認めさせたのである。
こうして北条氏光は【伊勢和泉守実親】となったのである。




