第41話 邪神召喚
《神罰の杖》が落ちるより先に、魔女ベアトリスは自らの命を絶った。
その魂は邪神のもとへ捧げられ、二度と地上に戻ることはないだろう。
「勝ったな、御主人」
「……どうかしらね」
モフモフの言葉に、しかし、フィオリアは頭を振る。
「最後の最後でベアトリスには逃げられたわ。勝ったといえば勝ったのでしょうけど、完全勝利には程遠い。――モフモフ。私はね、とても欲深い女なの」
「何をするつもりだ、御主人」
「当ててごらんなさい」
足元には《魔剣》が転がっていた。
《神罰の杖》が直撃したにもかかわらず、その刀身には瑕ひとつ刻まれていない。
まわりの空間を蝕むように、依然、黒い霧を漂わせている。
フィオリアは《魔剣》を手に取った。
その途端、まるで食らいつくように闇色の魔力が膨れあがる。
「この世から消えたくなければ、私に従いなさい」
が、しかし。
ただのひと睨みで《魔剣》は委縮したかのように魔力を引っ込める。
刀身がぶるぶると震えているのは、もしかすると、フィオリアに怯えているのかもしれない。
「そう、いい子ね」
細い指先で、《魔剣》の刃をゆっくりと撫でる。
まるで捨て犬を慈しむかのような手つきで、優しく、優しく。
「ああ、なるほど」
やがてフィオリアは、何事かを納得したかのように頷いた。
「あの子、自分の魂を捧げて邪神を喚ぶつもりだったのね」
「何だと……!」
隣で驚愕の表情を浮かべたのは、モフモフである。
邪神についての言い伝えは大昔に絶えてしまった……というのは人間だけの話。
魔物たちのあいだでは現在もしっかり伝わっており、当然、モフモフも邪神のことは聞き知っていた。
邪神フラグタル。
創造神モナの兄にして、闇の根源。
弟神との仲は極めて悪く、モナが世界を創造するたび、森羅万象いっさいを破壊してきた。
いまでこそ深い眠りについているものの、目を覚ませばこの世界も終焉を迎えるだろう。
モフモフは戦慄する。
ベアトリスはいったい何を考えているのか。
いくら御主人に勝つためとはいえ、邪神を召喚するなど正気の沙汰ではない。
「自分の怨念に全世界を巻き込むつもりか! 手段を選ばないにもほどがあるだろう、魔女め!」
「落ち着きなさい、モフモフ。ここはベアトリスを褒めてあげるべきでしょう」
怒気を露わにするモフモフとは対照的に、フィオリアはひどく嬉しそうに口元を綻ばせていた。
「意味が分からんぞ、御主人。魔女のどこに褒める要素がある」
「あの子は最後の最後まで勝ちを諦めなかった。本気で、全力で、なりふりかまわず戦おうとした。素晴らしいことじゃない。――300年ものあいだ森に引きこもって教会への怨みを募らせるばかり。復讐のためのアクションはまったく起こさない。起こせない。起こす度胸もない。そんな意気地なしの負け犬が、勇気を振り絞ってこの私に挑んできたのよ。これを祝福しなくて、いったい何を祝福すればいいの?」
フィオリアの予想では8:2だった。
魔女ベアトリスが逃げ出す可能性は8割。
立ち向かってくる確率は、せいぜい、2割くらいか。
しかしそれは過小評価だったらしい。
いざ黒き森へと乗りこんでみれば、結果はこの通り。
2ヶ月という期間を最大限に活用し、ベアトリスは戦う準備を整えていた。
大発生、《魔剣》、邪神の召喚――。
「貴女がやればできる子で私は心底嬉しいわ、ベアトリス。……けれど残念ね。貴女の魂と《魔剣》の出力じゃ、邪神を顕現させるにはあと少しだけ足りない。私がもう3日ほど猶予を与えていたら、召喚に成功していたでしょう」
「ギリギリのところだったのだな……」
ふう、と安堵のため息をつくモフモフ。
だがこの2秒後、今度は驚きに息を詰まらせる。
なぜなら――
「あと3日あれば勝っていたかもしれない。そんな無念を抱えたままじゃ、貴女はこの敗北に納得できないでしょう? 私もこの結末に満足していないわ。――利害も一致したことだし、少し、手を貸してあげましょうか」
「まさか……っ! やめろ御主人! 正気か!?」
「さっきも言ったでしょう? 私は欲深いの。こんな勝利は気に食わない。だったら、盤面をひっくり返してでも、望む形の完全勝利を手に入れてみせるわ」
魔剣が激しく振動を始める。
フィオリアから魔力を注ぎ込まれ、急激な出力上昇を起こし始めた――。
* *
フィオリアとベアトリスの違い。
どちらも聖女だったころ、当時の教皇と対立していた。
フィオリアは教皇庁内部に味方を作り、ときには《神罰の杖》をタテに武力交渉を行い、教皇の勝手な振る舞いを妨げた。
ではベアトリスはどうだろうか。
聖女としての責務は果たしていた。
病める人々を癒し、強大な魔物が現れれば《神罰の杖》で打ち倒す。
しかし、それ以上のことはしていない。
教皇庁内部でシンパを増やすことも、《神罰の杖》を交渉の道具にすることもない。
同じ聖女でありながら、言動は全く異なっている。
この差こそがフィオリアとベアトリスの明暗を分けた――。
戦いの最中、フィオリアはそれを突き付けた。
誰かが真正面からベアトリスを論破せねば、彼女の怨念は晴れない……と考えたからである。
だが一方で、こうも思うのだ。
「私はあくまで例外中の例外、レアケースよ」
普通なら、聖女としての責務に邁進するばかりだろう。
教皇庁内部での政治工作など行わないし、ましてや、《神罰の杖》での恫喝などもってのほか。
我ながらずいぶんと聖女らしからぬ聖女というのは自覚しているが、さもなくば教皇という権力に押し潰されてしまう。
これは旧教会に限ったことではない。
世界はとかく善に厳しい。
小賢しい悪によって足を引っ張られ、たやすく屈辱の汚泥に沈められる。
正義への見返りはあまりに少なく、ベアトリスがいい例だ。
教皇の堕落を咎めた結果、汚い策略にかかって異端扱い、処刑寸前まで追い込まれた。
「貴女の無念はよく理解しているわ、ベアトリス。……だからこそ、もう一度、やり直してほしいのよ」
旧教会は倒れた。
世界は変わっていく。私が変えていく。
貴女が、聖女として胸を張って生きていけるような。
善人が善人として、くだらない悪に脅かされることのないような。
悪に手を染めたものであっても、形はどうあれ、再び太陽のもとを歩けるような。
そんな世界を作りたいと、心の底から願っている。
もしこれを普通の人間が口にすれば、どうだろう。
きっと、幼稚な理想論として捨て置かれるはずだ。
しかし彼女は、フィオリア・ディ・フローレンス。
黄金の女神とも綽名される、空前絶後の公爵令嬢である。
「私のような存在が生まれたのは、きっと、そのためなのでしょうね」
おのれが規格外の存在なのは、もうとっくに自覚している。
そのことを過度に誇るつもりも、過度に嘆くつもりもない。
持つ者は、その大きな力でもって、何かを成し遂げるべきなのだ。
持たざる者に代わり、人々の嘆きをひとつでも減らすために、世界をよい方向へ変えていかねばならない。
それがフィオリアなりの、高貴なる者の義務である。
ゆえに――
「貴女をこのまま死なせるのは、私の主義に反するのよ」
アンネローゼを唆して毒薬を盛ったことくらい、まあ、広い心で許してあげる。
ハウル3世に《聖剣》を与えたことも、諸国同盟を焚きつけたことも、べつに責めるつもりもないわ。私にとっては好都合だったもの。
余罪はいくつかあるけれど、来世で償ってちょうだい。
人生をやり直しながら贖罪もできる。
最高の一石二鳥でしょう?
「貴女の魂を、絶対に取り返す。……黄金の女神の名において命じるわ。邪神よ、この私に跪け。ベアトリスの魂を捧げなさい」
フィオリアは《魔剣》を振り下ろす。
過去最大級の出力で放たれた斬撃は、時空を歪め、世界そのものを深く、鋭く、切り裂いた。
虚空に、極黒の亀裂が刻まれる。
亀裂の向こうには、世界の裏側と呼ぶべき深淵が広がっていた。
「――――……? ――――!」
太陽の光すら届かぬ暗黒。
そのなかで何かが蠢いている。
聞こえてくるのは、超音波じみた奇怪な唸り声。
一対の紅い瞳が、チラチラと、どこか遠慮がちに視線を投げかけてくる。
「これが、邪神……?」
フィオリアは首を傾げる。
“闇の根源”だの“森羅万象の破壊者”だのという綽名は知っているが、どうにもそのイメージにそぐわない。
いまひとつ威厳に欠けるというか、邪神らしくないというか。
むしろ怯えているようにすら見えた。
「――――! ――――…………!」
声はやけにか細く、縋りつくかのよう。
まさかとは思うが、命乞いをしているのだろうか。
「ありえないわね」
フィオリアはそう決めつける。
だって私は人間だもの。
邪神ともあろう者が、たかが人間ごときを恐がるはずがないでしょう?
「いずれにせよ、ベアトリスの魂を返してもらうわ。まずは穴ぐらから出てきてもらいましょう。――行きなさい」
フィオリアが命じると、その背後で、天使たちが大空を舞った。
翼を羽搏かせ、隊伍を組み、亀裂の中へと突入していく。
邪神をこちら側へと、引きずり出すために。
次回、邪神くんががんばります。




