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第33話 モーゼ川を渡れ

 職員の8割を引き抜かれ、教皇庁は機能不全に陥った。

 ハウル3世は激昂し、口から()()を飛ばして叫んだ。


「へ、兵を出せっ! フィオリアに付いていった奴等を連れ戻せっ! 奴隷として一生、こき使ってやる!」


 ちなみにモナド教は奴隷制を否定している。

 ハウル3世は教皇でありながら、感情に任せてつい、教義を否定することばを口にしてしまった。


 ――天井裏には、フィオリアの放った密偵がいるとも知らずに。




「迂闊ね、ハウル」


 密偵からの報告を受け、フィオリアはため息とともに呟いた。

 

「その失言、大陸中に広めてあげるわ。新教を立ち上げるための生贄になってちょうだい」


 ところで現状、ベルガリア大陸において印刷技術はあたりまえのものとなっている。

 本屋へ行けばたくさんの書物が並んでおり、その中でもフィオリアをモデルにした小説はかつてないほどのベストセラーである。

 

 さて。

 この印刷技術、もともとは東方で生まれたものだった。

 20年前、フィオリアによってベルガリア大陸に持ち込まれた……のだが、このとき、彼女はいくつもの布石を打っている。


 新聞社ならびに出版社の設立。

 それらは20年で大きく成長し、巨大な情報メディアと化していた。

 フィオリアとしては別に、偏向報道を命じるつもりはない。


 ハウル3世の「奴隷」発言を、複数のルートによってリークしただけである。


 結果は、すさまじいものだった。

 

 彼の失言は、ここ最近の放蕩ぶりとともに大陸全土へと発信された。

 これによってモナド教は、末端部においてもその求心力を失っていく。


 ――ありとあらゆる事態は、フィオリアの掌中で動きつつあった。







 フィオリアと600人の信徒たちは、ゆっくりと、だが確実に山道を進んでいた。

 これだけの大人数となれば、どうしても歩く速度は落ちてしまう。

 しかし現状、脱落者はひとりとして生じていなかった。


「空気が旨い!」

「身体が軽い!」

「素晴らしい! これが聖女様のご加護というものか!」 


 人々の表情は明るく、溌溂としている。

 目には輝きが宿り、それどころか、全身がキラキラと光を発していた。


 出発前、フィオリアが起こした奇跡――。

 それは病を癒すだけではなく、人々に大きな力を与えていた。

 足取りも軽く、彼らは新天地に向かって進み続ける。


「……くくっ」


「どうしたのハインケル。なにか面白いことでもあったの?」


 600人を連れて歩く、その先頭。

 フィオリアの隣で、ハインケルが笑みを漏らした。


「もしかして、記憶が戻ったとか?」


「いいや、そういうわけじゃない」


 首を振るハインケル。


「ここ最近のことを思い出していただけだ。……実を言えば、俺は、自分の人生に飽きていた」


「記憶探しで忙しかったんじゃないの?」


「それはそうだが、まったく進展がなかったからな。面倒になっていたのも事実だ」


「今はどう? まだ記憶喪失のままみたいだけど」


「もう、別にいい。……忘れてしまったということは、さほど価値のないものだったのだろう。そんなことよりずっと興味深いものがある」


「何かしら」


「貴女だ、フィオリア・ディ・フローレンス」


「私?」


「この半月ほどで、俺の人生は大きく変わった。少し腕のいいだけの冒険者だったはずが、今はこうしてモナド教をひっくりかえす片棒を担いでいる。……面白い。毎日が刺激的だ。貴女のそばにいると、自分が生きていると感じられる」


「似たようなことを、20年前の貴方も言っていたわ」


「だとすれば、俺のこの感情も、かつての俺が感じていたものと同じなのだろうな」


「どんな気持ち?」


「さて、な」


 赤い瞳を、大空へと向けるハインケル。

 爽やかな秋風が吹いて、金色の髪をふわりと撫で上げた。

 それから――少年だったころとそっくりの――やや不敵な表情を浮かべる。


 告げた。




「……俺は、貴女を打ち負かしたい」



 

 それは、あまりにも無謀な宣言だろう。


 ハインケル・ウィンフィールドという青年は、たしかに強い。

 冒険者登録から5年でBランクまで駆け上っており、高危険度のモンスターを何匹も単独討伐している。


 だが、それだけだ。

 人間同士ならば誇れる経歴だろうが、フィオリアという太陽に比較すれば、ハインケルも赤子もほとんど誤差のようなものである。

 彼女と敵対するなら、灰すら残さず消滅するはずだ。



「剣でも魔法でも、あるいは頭脳戦でもいいんだ。

 俺は貴女を尊敬している。尊敬しているからこそ、勝ちたい。その退屈そうな横顔を、驚きに染めてみたい」


「……そう」


 フィオリアの返事は、短い。

 だが声はわずかながら弾み、口元は綻んでいる。


「記憶を失っても、やっぱり貴方は貴方なのね、ハインケル」


「そんなのは、知ったことじゃない」


 視線を、フィオリアに戻す。

 澄んだ紅色の瞳で、見つめる。


「俺という男の人生は、ボルト市でフィオリアに出会ったときから始まったんだ。自分の過去なんて、もう、どうでもいい。……大事なのは、これからだ」

 

「なるほど、ね」


 微笑みとともに頷くフィオリア。


「貴方の言う通りよ、ハインケル。私も少しばかり、過去に(こだわ)りすぎていたわ」


 20年前。

 幼いハインケルは、彼なりの手段で、フィオリアと互角に渡り合ってみせた。

 その別れ際には再戦を約束した……ものの、29歳の彼は記憶喪失に陥っていた。


 フィオリアの喪失感は、果たしてどれほどのものか。

 なにせハインケルは弟のような存在で、同時に、対等な好敵手になりうる相手だったのだから。


「昔は昔、今は今。――ならば私も、過去は忘れるとしましょう。ハインケル・ウィンフィールド。貴方が私に()()()挑む日を楽しみにしているわ」

 

 それから、とフィオリアは左後ろに視線を送る。

 まるで陽炎のような存在感でもって、いつもと変わらず、玲瓏なる執事……レクスが付き従っている。


「貴方もね、レクス。紅茶やお菓子を工夫するのもいいけれど、それはどうせ小手調べみたいなものでしょう? いつだったか冗談めかして言っていたけれど、いつ裏切ってくれるのかしら」


 あれはたしか、オズワルドとの面会後だったか。

 彼の凋落ぶりに驚くフィオリアに対し、レクスはこう言った。


 ――誰だって意外な一面のひとつやふたつ持ってるものです。

 ――もしかしたら俺はお嬢様に対して下剋上を狙ってるかもしれませんよ?


「何のことでしょうか」


「とぼけても構わないけど、ハインケルに先を越されないようにね」

  


 


  

 * *






 やがて一行は山越えを終えた。


 ……まあ、厳密に言うと、越えたのは最初の小さな山だけだが。


 そこから先は巡礼者用の山道を外れ、地下の隠しトンネルを使っている。

 有事の際、教皇らが聖都ミレニアから脱出するためのルートだった。

 

 聖都を囲む山々は険しいものの、直線距離としてはさほど長くない。

 おかげで夕暮れ時には、モーゼ川のほとりに到着した。


「あらかじめ船は手配しておきましたが、600人ともなると何往復かは必要ですね……」


 と、レクスが告げる。

 その時、遠くで叫び声があがった。

 

「あら、もう追いついてきたのね」


 フィオリアは、悠々とした足取りで騒ぎのほうへと向かう。

 集団の後方――。

 

「さっさと戻ってこい! アーサー! なにが新教だ! 若い奴はなにかと新しいものに飛びつきたがるがな、そんなのは馬鹿の所業なんだ! フィオリアは詐欺師だ! 騙されるな! 昔からあるものの方がいいに決まってるだろうが!」



 教会の職員とおぼしき小太りの男が、怒鳴り声をあげている。


「いまの教会はもう限界なんです、デイブ司祭! どうしてそれが分からないんですか!」


 負けじと声を張り上げるのは、()伝令官のアーサー。


「世迷言を言うな! 教会は千年以上も続いてるんだ、傾くわけがない! おい、ほかの馬鹿どもも考え直せ! おまえたちのせいで教皇庁もガタガタなんだ!」


「矛盾してるじゃないですか! 教会が傾くわけがないなら、僕らがいなくなっても問題ないはずだ!」


「うるさい! 屁理屈をグダグダと……!」


 小太りの男――デイブ司教は、忌々しそうに地団太を踏んだ。


「もういい! やってしまえ!」


 実のところ、デイブ司教はひとりで追いかけてきたわけではない。

 その背後には、五十人近い騎士の姿があった。

 いずれも教皇庁側に残った者で、馬に乗っている。

 フィオリアたちとは別の地下トンネルを使い、ここまで行軍してきたのだ。


「抵抗するなら命の保証はせんぞ! おとなしく縄につくがいい、クハハハハハッ!」

 

 哄笑をあげるデイブ司教。

 土煙とともに騎兵が迫り、人々は恐慌状態に――

 

 陥らなかった。


「来るなら来やがれ!」

「みんな、石を投げつけろ!」

「聖女様ばっかりに頼ってちゃ悪いしな!」

「俺たちでぶったおすぞ!」


 それどころか、誰に言われるでもなく、みずからの意思で戦いを始める。

 彼らはただフィオリアに庇護されるだけの存在ではなかった。

 望んだ未来を手にするため、胸を張って、立ち向かう。

 老人であろうと子供であろうと、その瞳には黄金の輝きが宿っていた。

 

「ヒヒィン!」

「ヒィン!」

「ヒィィィッ!」


 その気迫に、馬たちは恐れを覚えた。

 思わず足を止めてしまう。

 騎士たちはつんのめり、中には落馬してしまう者も少なくない。

 デイブ司教は馬に乗っていなかったものの、腰を抜かし、大きく尻餅をついた。


「――素晴らしいわ、貴方たち」


 フィオリアは満足げに頷く。

 惜しみない賞賛の視線を、人々へと注ぐ。


「願いを胸に抱き、恐れず困難へと立ち向かう。忘れないで、それを勇気と呼ぶの。

 ……ならば私も、貴方たちの見せてくれた輝きに応えるとしましょう」


 フィオリアは、腰元の剣を抜いた。

 これは聖女が儀礼のために使うもので、黒き森に眠るという伝説の聖剣を模したレプリカである。


 切っ先を、天に向ける。


「――たとえ大河であろうと、私の道を遮ることはできないわ」


 


 


 忘れられがちだが、フィオリアの得意属性は2つある。

 ひとつは光。

 もうひとつは、風。


 強い東風が吹いた。

 それはモーゼ川の水面を毛羽立たせる。


 やがて――


 風が、()()()()()()()()()()()


 水底が露わとなり、そのはるか上空を、噴水のごとく川が飛び越えてゆく。

 たとえるならば、巨大な水のアーチ。あるいはトンネル。

  

 あたかも人々の旅路を祝福するかのように、虹が浮かんだ。

 

 フィオリアたち600人は、川底を歩いて渡る。

 トリスタン王国に入った。

 聖都の民はその日のうちに王国民として認められ、新教設立のために動き出すのであった。

 


 




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