第百九十話「伝説」
目が覚めると、そこは見慣れない天井――ではなく、見覚えのある丸太小屋の天井だった。
窓からは柔らかな木漏れ日が差し込み、小鳥のさえずりが聞こえてくる。
鼻をくすぐるのは、薬品や血の臭いではなく、森の草木と、どこか懐かしいスープの香りだった。
「……ここは、銀狼族の村か」
俺は身体を起こそうとして、全身に走る鈍い痛みに顔をしかめた。
骨や筋肉がきしむ音が聞こえてきそうだ。
あれだけの無茶をしたのだ、生きているだけでも儲けものだろう。
「あっ、アリゼさん! 目が覚めたの!?」
バタン、と扉が開き、お盆を持ったルインが飛び込んできた。
彼女は俺が起き上がっているのを見て、持っていた水差しとお椀をテーブルに置くと、そのまま俺の胸に飛び込んできた。
「うわっと……! 痛い痛い、ルイン」
「バカ……! 本当に、バカ! 三日間も目を覚さないんだから……!」
ルインは俺の胸に顔を埋めたまま、ポロポロと涙を流した。
三日か。
随分と長く寝ていたらしい。
俺は彼女の頭を優しく撫でながら、苦笑した。
「悪かったな。でも、約束通り帰ってきたぞ」
「うん……うん、おかえりなさい、アリゼさん」
しばらくして落ち着きを取り戻したルインから、その後の状況を聞いた。
あの後、俺たちはドーイの飛行艇で銀狼族の村まで搬送されたらしい。
地下施設に残されていた被験者たちも、デリア率いるエルフの騎士団とリンネの魔族軍によって無事に保護されたとのことだ。
アルベルト公爵の私兵団は、主の消滅と同時に戦意を喪失し、降伏したという。
「みんなは?」
「外にいるよ。アリゼさんが起きたら教えてって言われてたんだけど……嬉しくてつい」
ルインは照れくさそうに笑い、俺の手を引いた。
小屋の外に出ると、そこには活気が戻った村の光景があった。
怪我人の治療にあたる者、壊れた家屋を修復する者、そして炊き出しの準備をする者たち。
誰もが忙しそうにしているが、その表情は明るい。
悪夢のような《赤き月》の夜は明け、本当の平穏が訪れていた。
「アリゼさん!」
広場の中心にある焚き火のそばから、仲間たちが駆け寄ってくる。
アカネ、ルルネ、ニーナ、ミア、アーシャ、ナナ、リア。
全員、あちこちに包帯を巻いてはいるが、元気そうだ。
「よかった……本当によかったです!」
ミアが涙ぐみながら俺の手を取り、再び治癒魔法をかけようとする。
「もう平気だよ、ミア。それより、自分の体を休めてくれ」
「いいえ、私の役目ですから!」
頑固な聖女様に苦笑していると、後ろからドシドシと重い足音が近づいてきた。
バランだ。
全身包帯だらけで、片腕を吊っているが、その表情は晴れやかだった。
「よう、寝坊助。やっと起きたか」
「師匠こそ、随分と派手な格好ですね」
「フン、名誉の負傷だ。……だがな、アリゼ」
バランは真面目な顔になり、俺の肩を叩いた。
いや、叩こうとして、俺の怪我を気遣ってか、そっと手を置くだけに留めた。
「見事だったぞ。最後の一撃……あれは俺には撃てん。お前が積み上げてきた絆の力だ」
「師匠にそう言ってもらえると、修行した甲斐がありましたよ」
「勘違いするなよ。個人の強さならまだ俺の方が上だ」
相変わらずの負けず嫌いに、俺たちは顔を見合わせて笑った。
そこへ、一人の少年と少女が歩み出てきた。
ネシウスとエリスだ。
ネシウスの顔色はまだ悪いが、その瞳からは虚ろな色が消え、しっかりとした理性の光が宿っている。
首元にあった禍々しい紋様も、完全に消え去っていた。
「アリゼさん……みなさん」
ネシウスは俺たちの前まで来ると、エリスと共に深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました。僕を、そして僕の妹を救ってくれて」
「お兄ちゃんを元に戻してくれて、本当に……っ」
エリスが言葉を詰まらせ、ネシウスがその肩を抱く。
俺は二人の前にしゃがみ込み、視線を合わせた。
「礼を言うのは俺たちの方だ。ネシウス、お前があの時、システムを止めてくれなかったら、俺たちは勝てなかった。お前も一緒に戦った仲間だ」
「僕が……仲間……」
ネシウスは驚いたように目を見開き、やがてその瞳に涙を溜めながら、強く頷いた。
「はい……! 僕、償います。操られていたとはいえ、僕の手で傷つけた人たちがいる。その罪を背負って、これからはこの力を、誰かを守るために使います」
「ああ。お前ならできるさ」
かつて《人工英雄》として造られた力。
だが今は、彼の意志で制御された、守るための力だ。
彼もまた、一人の英雄としての道を歩み始めたのだ。
「さて! 湿っぽい話はここまでだ!」
ドーイが空から降りてきて、明るい声を張り上げた。
彼の手には、なみなみと注がれたエールのジョッキが握られている。
「今日は戦勝祝いだ! 村の連中も、エルフも魔族も人間も、みんな混ざっての大宴会だぞ!」
「あら、ドーイったら。またお酒?」
デリアが呆れたように言うが、その顔も笑っている。
リンネも優雅にグラスを傾けながら、俺たちにウィンクしてみせた。
「今日くらいは無礼講でよかろう。世界を救った英雄たちなのだからな」
その言葉を合図に、広場は一気に宴の会場へと変わった。
種族の垣根を超え、互いに酒を酌み交わし、歌い、踊る。
アルベルトが夢見た、力による強制的な統一ではなく、心を通わせた真の調和が、今ここにあった。
俺は少し離れた場所から、その光景を眺めていた。
隣にはルインが寄り添い、その向こうには笑顔で語り合う娘たちの姿がある。
「……終わったんだな」
「うん。終わったね」
ルインが俺の腕に頭をもたせかける。
「アリゼさん。これからどうするの?」
「そうだな……」
俺は夜空を見上げた。
赤き月は消え、美しい星々が瞬いている。
大陸アガトスに帰る方法も探さなければならないし、まだこの大陸でやり残したこともあるかもしれない。
だが、今は。
「とりあえずは、この宴を楽しむさ。そして、またみんなで旅を続けよう」
俺の言葉に、ルインは満面の笑みで答えた。
「うん! どこまでもついていくよ、アリゼさん!」
その剣は誰が為に。
その答えは、もう胸の中にある。
愛する家族、信じる仲間、そしてこれから出会う人々のために。
俺たちの旅は、まだ終わらない。
新たな絆と希望を胸に、伝説は続いていくのだ。




